11月21日
ようやっと連載ものを完結させられました。
表紙は友人が描いてくれました。
木曜日の夜。
「ありぁっしたー」
暖簾をくぐるとため息をついた。十一月の乾いた空気に吐き出した息が白く染まり溶けていく。冷たい風が酒精で温まった首筋を撫で、その感触に身をすくませる。スーツの上にコートを羽織っただけの恰好では、夜風は防げても染み入ってくる冷気までは遮れないようだ。酩酊感に若干ふらつく足を家路へと急がせた。
俺こと小野田辰巳は今年で三十五になった。さほど大きくはないが堅実な経営方針の企業に勤めている。営業を担当し、成績は中の上。あまり要領がよくないため突き抜けた成績は残せないが、地道な外回りと実直な性格で少しずつ人脈を形成していく。一言で言ってしまえば地味な人間だ。
それは自他共に認めるところで、結果いまだに独身である。容姿や性格など、一般に社会的ステータスと呼ばれるパラメーターは数え上げればキリがないけれど、結婚するような連中は総じてそれらを持っている者なのだ。ひるがえって俺はどれを取っても地味の一言に尽きる。間違えても華のある人間とは呼べないだろう。
そのことを三十になる頃に悟った俺はもはや諦めていた。実家からの催促とも言える母親の小言を聞き流し、視界に入る女は全て縁のない存在なのだと、そう思うようになっていた。
負け犬人生だと笑いたいならば好きなだけ笑えばいい。他ならぬ自分だってそう思っているのだから、いまさら現実を突きつけられたところで痛くも痒くもない。おそらくこのまま独身を貫き、いつか孤独死するのだろう。捨て鉢な気分だが、少なくとも自分の未来を正しく見据えているのだという、ささやかな自負だけが心の拠り所であった。
華々しいネオンと喧騒に満たされた繁華街を歩き、駅前のロータリーに出る。時刻は二十三時過ぎ。デパートと合体してビルのようにそびえ立つ駅へと足を向ける。賃貸のボロアパートは駅を挟んで向こう側の住宅街にあるため、一度駅を通り抜けないといけない。
まるで縦スクロールのシューティングゲームのように駅から吐き出された人を避けながら進んでいく。これで向かってくる障害物を撃ち落とせればいくらか爽快なのだが、現実でそんなことをするわけにもいかない。互いに避けようと意志を持って動いているだけマシだが、どうしたって鬱陶しく思ってしまう。
人の波に逆らいながら、顔をしかめて前方をしっかりと見据える。気分良く酔っているのだから、正面衝突からの厄介事など御免だった。障害物の動きを見極め、極力人の少ない端の方へと寄っていく。
そうしてどうにか辿り着き、駅へと続く段差に足をかけたところで横から声をかけられた。
「ねぇ、そこのオジサン」
最初、その言葉が俺を指しているとは思わなかった。もちろん自分がオジサンと呼ばれるような年齢と外見であることは十分承知しているのだが、それでもまさか見ず知らずの人間から呼び止められるなど誰が思うだろうか。酩酊からの幻聴か、あるいは他の誰かであろうと、気にせず進もうと伸ばした足を後ろから引き止められる。
「オジサンってばっ!」
「ああ?」
コートの袖を引っ張られ反射的に振り返る。喉から出たのは自分でもびっくりするほどドスの効いた声だった。小動物のように怯えた目と視線が合い、急速に酔いが覚めていく。冷や水を浴びせられたかのようにクリアになった思考に罪悪感が湧き出てきた。
「あー、その、すまん……」
居心地の悪さにたまらず後頭部を掻きながら謝る。そして一歩後ずさりした相手を足の先から頭の頂点まで観察する。
合皮のローファ―に紺のソックス。惜しげもなく晒した足と短いスカートは若さゆえの自信の表れだろうか。紺色のブレザーには赤のタイが映えている。胸元まで伸ばされた艶やかな黒髪は左右で綺麗にシュシュで纏められ、背には学校指定のバッグとは別に大きなリュックサックを背負っていた。
「……な、なんですか?」
相手の顔をまじまじと見つめてしまったからだろう。怯えた表情を浮かべた彼女が困惑する。けれど俺はそれ以上に当惑していた。
どこからどう見ても女子高生である。だが独身貴族をひた走る自分には彼女のような知り合いがいるわけがなく、顔を穴が開くほど見つめてみてもまったく記憶に引っ掛からなかった。たしか結婚した妹に娘がいたはずだが、まだ小学生かそこらだったはずである。少なくともこんなに大きくなっているわけがない。
……であるならば、一体どういうことだろう。
首を捻り、答えの出ない問いが頭の中を堂々巡りする。口を開くと素直な疑問がこれ以上ないぐらい簡素な言葉でこぼれ落ちた。
「……誰?」
相手の女子高生は一瞬顔をしかめる。けれどすぐに気を取り直したようで、勘の悪い部下を責めるように腰に手を当てた。
「えー、それを最初に聞くのはちょっとマナー違反なんじゃないですかー?」
マナーをどうこう言う前に初対面の相手にはまず名乗れと営業の鉄則を説教してやりたくなる。しかし相手はまだ子供だ。そんなことを諭したところで馬の耳に念仏だろう。込み上げてくる言葉を飲み下して嘆息する。持ち前の忍耐力を試されているような気分だ。ここは簡潔に用だけ聞いて早々にお暇しようと考える。
「……それで、どういった用件ですかね?」
こんな時でも腰の低い自分が少し情けない。
「もー、察しが悪いなぁ。あたし女子高生だよ? 女子高生がこんな時間に家にも帰らずに知らない人を呼び止めたら、用件は一つでしょー?」
「……つまり?」
頭に思い浮かんだ答えから目を反らすように尋ね返した。そんな俺の心中を斟酌せずに彼女がのたまう。
「ご飯おごって!」
「…………」
一応、こういうことがあるという噂ぐらいは聞いた事がある。聞いた事はあるが、いざ目の当たりにしてみるとどうだろう。頭を抱えたくなるのと同時に目の前がぐにゃりと歪む。もうすっかり酔いは覚めているはずなのに悪い夢の中にいるようだった。
普通こういうことは見るからに遊んでいるような学生がやるものなんじゃないのか?
あくまで第一印象の話であるが、この子は一見して真面目そうに見える。とてもじゃないが、深夜に男をつかまえるような娘には見えなかった。
「ん?」
自分が何を言っているのか理解していないように小首を傾げて見せる彼女。それにどう答えたものかと思案する。親のことや将来のこと、もっと自分の体を大切にしろと言うべきだろうか。喉に出かかるのはどれも月並みな言葉ばかりでうまくまとまらなかった。そんな思考を制すように彼女が手をかざす。
「あー、簡単にイエスかノーで答えてくれればそれでいいから。……ちなみにノーだったら他の人に声かけるだけなので、悪しからず」
「っ……」
このクソガキ。
胸中で毒づく。こう言えばこちらの進退が窮まるのをわかっていて言っているのだ。その証拠に両腕を組んでしなをつくった彼女の表情には意地の悪い笑みが張り付いていた。
「……わぁったよ、くそっ。飯だけだぞ飯だけ」
「わーい、オジサンやっさしーい」
ありがとーと形ばかりの礼を述べた彼女が腕を取ってくる。俺は憮然とした表情でその手を払いのけた。
◆◆◆
彼女を連れ立ってファミレスに入ると店内は思いのほか騒々しかった。男女混合の高校生グループと四十代ぐらいの主婦グループが一つずつ、それと単体の男性客がちらほらといった具合だろうか。明るく照らされたブースから動く影が見え隠れしていた。
通された席に座って深くため息をつく。臓腑の底から出たような重苦しい吐息が机の上に落ちた。対面でメニュー表を広げ、あれやこれやとチョイスしている彼女を眺めて思わず頭を抱える。
自分は何をやっているのだろうか。本来なら家に帰って風呂に入っているような時間である。それが流されるままに女子高生を伴ってファミレスなどと。これではまるで彼女を買ったようではないか。そんなことは断じてないが、傍から見ればそうとしか見えないだろう。
時間が経つごとに後悔の念に急き立てられる。今すぐ立ち上がって帰ってやろうかとも考えた。しかしそれはあまりにも無責任で、いい大人のやることじゃないだろう。結局は関わってしまった時点で負けなのかもしれない。
単に運がなかったのだ。そう思うと少し気が楽になった。もう一度深く息をついて、テーブル上の湯呑に手を伸ばす。ホットの烏龍茶が食道を伝って流れ、体を内からじんわりと温めてくれた。ソファに体を預けて立ち昇る湯気を眺める。
「で、オジサンは何にするの?」
自分の注文が決まり、メニュー表を差し出した彼女の表情は晴れやかなものだ。ようやく見つけたカモに奢ってもらえるとわかって嬉しいのだろう。少しはこっちの苦悩も理解しろと毒を吐きたくなるけれど、まだ学生の小娘には無理な注文なのかもしれない。彼ら学生は自分のことばかりに意識が向いて周囲にまでは気が回らないのだ。もしかしたらそれが若さというやつなのかもしれない。
「ああ俺はいいよ。さっき食ったから」
「そ?」
確認とも了承ともとれる判然としない言葉を呟いた彼女が呼び鈴を鳴らす。やってきた店員に注文を終えるとリュックサックを持って立ち上がった。
「じゃ、ちょっと着替えてくるから」
そう言い残してトイレに向かう彼女を黙って見送る。時計をちらりと確認するともう日付が変わる直前だった。多大な疲労と眠気が頭の奥をじんと鈍く痺れさせている。ぼやけた視界でテーブルを見つめ、鈍った思考でもっぱら考えるのはいつ帰宅できるかということだった。
私服に着替えた彼女は遠慮など欠片も感じさせない様子で注文した皿を平らげていった。それをぼんやりと眺めながら手持ち無沙汰な時間を過ごす。尋ねたいことはたくさんあったけれど、どれも口にするのははばかられた。彼女とはこの場限りの関係でしかないのだ。深入りしたところで要らぬ情が湧くだけだと思えた。
食べ終わった彼女が口元をナプキンで拭く。制服の入ったバッグを手に席を立ち、膝丈のスカートの裾をひるがえして出口へと向かう。その背を黙って追従する様はさながら従者である。自分とはまったく関わりのない会計をする辺りなんかまさしくそうだろう。
屈辱といえば屈辱かもしれない。けれどこの時の俺にはそれは些末なことだった。いよいよもって瞼を重くしてきた眠気と明日の仕事に障るという焦燥、今後の彼女の行動に対する不安が余計な感情を封じ込めていた。
ドアベルを鳴らして外に出ると一段と冷えた冬の空気に首を縮める。満腹感に幸福のため息をもらすお姫様気取りの小娘を三白眼で睨んだ。
「……それで?」
別れの言葉を期待した問いに彼女は可愛らしく小首を傾げるだけだった。視界から追い出して小さく舌打ちする。
「カラオケかネカフェに泊まるのか? 金がないなら仕方ないから出してやる」
だからもう俺に関わらないでくれ、と今度は言外に示唆してみる。けれどそれでも彼女の反応は鈍く、頬に人差し指を当てて悩む素振りを見せるだけだった。なかなか返答を得られないことに苛立ちばかりがつのってゆく。それでも辛抱強く待ち続けられたのは彼女が子供で、自分が大人だからだろう。あるいはこんな小娘に怒鳴るのは恰好悪いと思ったからかもしれない。
とにかくそうして待ち続けること十数秒。ようやく口を開いた彼女はこう言った。
「じゃあ、オジサンの家に泊まるっていうのは?」
ギリッと奥歯の軋む音が聞こえた。喉にせり上がってくる激情を呼気と共に吐き出してどうにか平静を保つ。表情筋が引きつらないよう努めるのに苦労した。
「お前、それがどういうことかわかってんのか?」
だが出てきた声は底冷えのするものだった。隠し切れなかった怒気に自分で驚く。
何をこんなに熱くなっているんだろう。彼女はついさっき出会ったばかりの名も知らない子供じゃないか。まだ知り合いと呼べる関係ですらない。そんな小娘が何を言ったところで軽くあしらってしまえばいいじゃないか。
そう頭ではわかっているはずなのに感情がついていかない。言葉にできない憤りが胃をせり上げる。
「もちろんわかってるよ」
けれど彼女は何でもないことのように言って、続ける。
「ただしタダはダメだからね。とりあえず三万でどお?」
「っ!」
パンッと乾いた音が響く。
それが彼女の頬を張った音だと気付くのに少しだけ時間がかかった。手の平に生じた熱が急速に冷めてゆき、代わりにヒリヒリとした痛みとなって神経を痺れさせる。さぁっと血の気が引いてゆき、呆然と立ち尽くした。胸に去来する後悔に押しつぶされそうになり、背中を丸めて地面を見つめる。
「……すまん」
どうにかそれだけ言葉にできた。けれど自責の念はちっとも軽くなってくれない。他に何か伝える言葉はないだろうかと探してみても頭の中が真っ白だった。
「……そう」
囁くような、彼女の微かな声。何一つ単語を含まないその声は、けれど俺の心胆を凍えさせる。
「まぁ、最初から期待なんてしてなかったから別にいいんだけどね。……でも、まさか叩かれるなんて思ってなかったなぁ」
自嘲するような口調。その静かな響きには諦めと拒絶が多大に含まれていた。
「じゃあね」
一方的に言った彼女の足がすっと視界から消える。顔を上げた時にはもう背を向けて歩き出していた。駅の方へと去ってゆく背中を見つめて固く拳を握りしめる。
これ以上関わりたくないと思っていた。だからこれでいいはずなのに……。いったい何なのだろうか、このやるせない感情は……。説明のつかない後悔は……。
どこかで間違えたのだろうか。そう自問自答してみても明確な答えは一向に得られない。左右で煌々と照るネオンの明かりがやけに眩しいかった。