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抱き合え、幾百万よ!(上巻)

# 抱き合え、幾百万よ!


## 第一部 大貝ホール


### 第一章 最後のステージ


 肩が壊れてから、放課後というものが、やたらと長くなった。


 野球を始めてから、ずっと、俺の放課後には、音があった。金属バットが芯で球を捉えるあの高い音、土を蹴る音、キャッチャーミットが小気味よく鳴る音。俺は、その真ん中にいた。一年の夏から、背番号1を背負った。エースで、俺が投げれば試合は締まると、チームのみんなが信じてくれていた。その夏、チームは県のベスト8まで勝ち上がって、次こそ、その先へ行けると本気で思っていた。甲子園、という三文字を、笑わずに口にできる場所に、俺はいた。


 でも、それより前に――ただ、好きだった。うまいとか、勝てるとか、そういうことの、ずっと手前で。白球を握る指の感触も、朝いちばんの土の匂いも、汗も、打たれて悔しい夜も、ぜんぶ、どうしようもなく好きだった。野球が、俺の全部だった。ほかには、何も要らないくらいに。


 それが全部、去年の秋に、ふっつり消えた。右肩の腱が、医者の言葉を借りれば「もう投手としては戻らない」ところまでいった。大会でも、大事な場面でもない、ただの練習中の、なんでもない一球で。


 でも、正直に言えば――野球そのものを、奪われたわけじゃ、なかった。


 監督は言った。「投手は無理でも、リハビリして、野手で戻ってこい。お前のバッティングなら、じゅうぶん戦力になる」。親も、同じことを言った。肩は元に戻らなくても、バットは振れる。走れる。夏は、まだ、二回も、残っていたんだ。


 でも、俺は、やめた。


 エースじゃない自分で、あのグラウンドに立つことが、どうしても、できなかった。マウンドのど真ん中から見ていた景色を知っているのに、その隅っこで、誰かの控えをやる。……そう考えたら、急に、何もかもが、どうでもよくなった。全部が嫌になって、俺は、退部届を出した。リハビリも、最後の夏も、丸ごと放り出して。誰も悪くない。悪者がいてくれた方が、まだ楽だった。悪いのは、いちばん悔しいところで逃げ出した、俺自身だったから。


 だからその日、俺が学校を出て駅とは反対の方向へ歩いていたのも、別に理由なんてなかった。行く場所がないから、いちばん遠回りな道を選んだ。それだけだ。


 五月の午後の日差しは、もう夏の匂いを混ぜはじめていた。半袖のシャツの下でうっすら汗をかき、街路樹の若葉が、やけに濃い緑をしていた。一年の秋に野球をやめて、初めての夏が、すぐそこまで来ていた。俺には、その夏に何をすればいいのか、まるで見当がつかなかった。


 花森市民会館の前で足が止まったのは、貼り紙のせいだった。


 《大貝ホール 閉館のお知らせ ――四十年にわたるご愛顧に感謝を込めて》


 築四十年を越えた市民会館の大ホールは、老朽化と市の財政難で、この秋に取り壊されることが決まっていた。閉館まで、あと半年。貼り紙の下のほうには、小さく「閉館前の館内開放を行っています」と書いてあって、正面の重い扉が、めずらしく半分だけ開いていた。


 入るつもりなんてなかった。ただ、開いている扉というのは、なんだか、入れと言われている気がするものだ。


 ロビーの重い扉を抜けて、大ホールに一歩入った瞬間、世界が、切り替わった。


 まず、温度だった。外の、汗ばむような初夏の空気が、扉一枚の内側で、ひんやりと、古い石みたいな涼しさに変わっていた。うなじの汗が、すっと引いた。それから――


 外の音が、消えていた。車の音も、風の音も、遠くの踏切の音も、さっきまで俺の周りにあった全部が、この扉の内側には、一つも入ってこない。耳が痛くなるような静寂。空気そのものが、ぶあつく、みっしりと詰まっているみたいだった。自分の足音と、自分の心臓の音だけが、やたらとはっきり聞こえた。……こんな静けさが、この世にあるのか、と思った。


 中は、外の光を全部忘れたみたいに暗くて、ひんやりしていた。使い込まれた赤い絨毯。剥げかけた金色の装飾。天井には、埃をかぶった大きなシャンデリア。そして客席の向こうに、だだっ広い舞台があった。二千人は座れるという、この街でいちばん大きなステージ。かつては本物のオーケストラも、有名な指揮者も、ここに立ったのだと、小学生の頃に社会科見学で聞いた覚えがある。


 誰もいない。俺は、なんとなく通路をまっすぐ、舞台のほうへ歩いていった。


 そのとき、音が鳴った。


 ピアノだった。


 舞台の袖、ぽつんと置かれた古いグランドピアノの前に、制服の女子がひとり座っていた。俺は反射的に柱の陰で足を止めた。


 舞台袖の、高いところにある小さな窓から、細い光の帯が、一本だけ斜めに落ちていた。その光が、狙ったみたいに、ちょうど彼女の一点だけを照らしていた。薄暗いホールの中で、そこだけが、切り抜いたように明るかった。まわりの暗がりが濃いぶん、彼女のいる場所だけが、内側から光っているみたいに、白く、浮かび上がって見えた。


 彼女は、こちらに気づいていない。背筋を、定規を入れたみたいにまっすぐ伸ばして、顎を軽く引き、肩の力は抜いている。指だけが、鍵盤の上を、静かに、迷いなく動いていた。凛、という言葉が、そのまま人の形になったみたいだった。埃をかぶった古ぼけたホールの、たった一人の、誰も見ていない演奏なのに――彼女は、まるで満員の客の前で弾いているみたいに、まっすぐで、美しかった。


 俺は音楽のことなんて、なにも知らない。楽譜も読めない。ドとレの区別だってあやしい。彼女が何の曲を弾いているのさえ、知らなかった。それでも――その演奏には、上手いとか下手とか、を通り越した何かがあった。でも、それが何なのか、そのときの俺には分からなかった。広いホールの空気そのものが、彼女の指の下でゆっくり震えて、埃をかぶったシャンデリアまで、かすかに鳴っている気がした。胸のあたりを、誰かに直接つかまれたみたいだった。


 顔を見て、俺は思い出した。遠野詩織。学年は同じだが、クラスは違う。廊下を通りかかると、隣のクラスの窓際で、いつも一人きりで本を読んでいるのが見えた。それくらいの接点しかない。話したことは、一度もない。近寄りがたい、という言葉がそのまま制服を着ているような女子だった。


 曲が、途中で止まった。


 ぷつん、と糸が切れるみたいに、彼女の手が鍵盤の上で止まった。しばらく、その手は動かなかった。やがて彼女は、そっと鍵盤の蓋を閉めて、両手を膝の上で握りしめた。俺のいる場所からでも、その肩が小さく震えているのがわかった。


 俺には、何が起こったのか、まるで分からなかった。あんなにまっすぐ、迷いなく弾いていたのに。どうして急に、いちばんいいところで、やめてしまうんだろう、と思った。


「今日も、途中で、やめるのかい。遠野さん」


 声がして、俺は飛び上がりそうになった。舞台の反対の袖から、作業着を着た年寄りが、モップを片手に、ゆっくり出てきた。この会館の用務員だろうか。その口ぶりは、この子がここへ来るのも、弾きかけてやめるのも、もう何度も見てきた、という響きだった。


 彼女は、びくりと肩を震わせ、逃げるように立ち上がって、ピアノから離れた。「……もう、弾きません」蚊の鳴くような声だった。「わたし、ピアノは、やめたので」


 その声は、教室で聞く冷たいものとは、少しちがった。


 やめた、と言う人間が、誰もいないこのホールに、何度も、一人で弾きに来る。その矛盾に、たぶん、本人がいちばん、気づいていた。


 用務員のおじさんは、無理に引き止めなかった。ただ、閉じられたピアノの蓋を、皺だらけの手でそっと撫でて、こう言った。「ベートーヴェンを、あんなに悲しく弾く子は、久しぶりに見たよ」


 ――ベートーヴェン。その名前だけが、俺の耳に残った。もちろん、それがどんな曲なのかも、どれだけ大したものなのかも、そのときの俺には、まるで見当がつかなかった。


「"悲愴"の、第二楽章」おじさんは、閉じた蓋に手を置いたまま、彼女の背中に、そっと言った。「あんたの手は、いつも、いちばん歌うところで、止まるなあ」


 彼女の足が、暗がりの手前で、止まった。


 ――途中で、やめた。


 その一言が、なぜか、柱の陰の俺の胸に、まっすぐ刺さって、抜けなくなった。おじさんは、彼女に言ったはずだった。なのに、まるで、俺に向かって言われた気がした。……途中でやめたのは、俺も、同じだ。肩を壊しても、まだ立てる場所はあったのに、俺は、それを全部蹴って、いちばん悔しいところで、逃げた。彼女が鍵盤から手を離したみたいに、俺は、グラブを、置いた。


「惜しいなあ」おじさんは、閉じたピアノの蓋を、皺だらけの手で、ぽん、と軽く叩いた。「このホールも、この子――このピアノもな。そして、あんたも。……みんな、いちばん歌うところで、声を失っちまう」


 彼女は、振り返らなかった。ただ、その肩が、もう一度だけ、小さく震えた。それから、袖の暗がりに消えていった。入れ替わりに、おじさんが、柱の陰の俺に気づいた。「なんだ、坊主。客席で幽霊の稽古かい」


「……あの人のこと、知ってるんですか」


 訊きながら、俺は初めて、そのおじさんの作業着の胸に、目をやった。色褪せた紺色の生地に、白い糸で、立花、と縫い取りがしてあった。……立花さん、というのか。


 遠野詩織のことなら、隣のクラスの、近寄りがたい女子、というくらいは俺も知っている。だが、この立花さんが、彼女がどこで弾くのをやめたかまで言い当てるのが、不思議だった。


「知ってるも何も」立花さんは、閉じたピアノを、もう一度見やった。「わしは、この舞台の係を、四十年やっとる。この街のピアノを習う子はな、みんな、いっぺんはこの舞台に立つんだ。発表会に、コンクール。あの子も、まだこんなにちいさい頃から、そこで弾いてた。……飛び抜けて、上手い子だった」


「さっきの、ベートーヴェンって言ってた曲……なんて曲、なんですか」俺は、耳に残った、たった一つの名前を、頼りに聞いた。ベートーヴェンくらいは、さすがに俺でも知っている。音楽室の壁で、いちばん怖い顔をしている人だ。


 立花さんは、俺の"何も知らない"顔を見て、少しだけ、笑った。「"悲愴"っていう、そりゃあ有名なソナタさ。二百年も前に、だんだん耳が聞こえなくなっていく男が書いた曲でな」


 ――耳が、聞こえなくなる。音楽家が。俺には、その怖さの底が、うまく想像できなかった。


「皮肉なもんだろ」立花さんは、がらんとした舞台を見た。「音を失くしていく男が書いた曲を、声を失くすこのホールで、弾くのをやめた子が、こっそり弾きに来る。……そういう曲を、あの子は選ぶんだ」


 立花さんの声が、ふと、低くなった。


「三年前だ。県のコンクールの、本選。あの子は、この舞台の、ちょうど真ん中で――途中で、手が止まった。客席は、満員だった。わしは袖で、幕の紐を握ったまま、ただ、見てた。何も、してやれなかった」


 立花さんは、天井のシャンデリアを見上げた。


「あの日から、あの子は、ぱったり弾かなくなった。……なのに、この頃、閉館の開放が始まってから、ときどき、ふらっとここへ来る。誰もいない時間を狙ってな。あの、手の止まった舞台で、一人で、こっそり弾いて、帰っていく。今日みたいに、途中でやめて」


 立花さんは、閉じたピアノを、いとおしそうに見た。


「やめられるもんかね。あんなに、好きだったものが」ぽつりと言った。「口では、やめたと言う。でも、足が、勝手にここへ来ちまう。……好きって気持ちは、そう簡単には、死なんのだよ、坊主」


 俺は、彼女の消えた暗がりを、もう一度見た。


 あの震える背中は、ただ音楽をやめた人間の背中じゃなかった。やめたのに、まだピアノが好きで、好きなのに、弾けなくて。それでも、自分の"終わり"を置いてきたこの舞台に、戻ってきてしまう。……その気持ちが、なぜだか、俺には、痛いくらい、分かる気がした。


 俺だって、そうだ。グラブを置いた今も、野球が、好きなままなんだから。


「……取り壊しって、本当なんですか」俺は、話を変えるみたいに、それでも本当に気になって、聞いた。


「本当さ」立花さんはモップを杖みたいについて、がらんとした客席を見渡した。「来年の春にはもう、更地よ。最後にちょいとした閉館式でもやって、それで仕舞いだ。……昔な、坊主。一度だけ、この客席が、人でびっしり埋まったことがある。二千人が、たった一つの音に、しんと息を殺してな。あの静けさは、ちょっと他じゃ味わえん。……わしは、あの静けさを、もういっぺん、聴きたかったよ」


 二千の客席。しんと静まりかえった、たった一つの音。


 その言葉が、胸の、変なところに引っかかった。


 二千人が、たった一つの音のために、息を殺す。……そんな夜を、このホールは、四十年ためこんできた。なのに、もう一度もそれを鳴らさないまま、満席の一夜も、あの静けさも、取り戻さないまま、静かに、更地になる。ぜんぶ、途中のまま。


 途中のまま終わるもの。それが、今日は、やけに、目についた。いちばん歌うところで手を止めた、あの子。声を失くしたまま消えていく、このホール。そして――いちばん悔しいところでグラブを置いた、俺。


 どれも、ちゃんと、終われていない。終わらせて、やれていない。


 それが、どうしようもなく、我慢ならなかった。理屈じゃなかった。ただ、腹の底が、勝手に、熱くなった。


 なんの脈絡もなかった。本当に、どうかしていたと思う。楽器も弾けない、楽譜も読めない俺が、なんでこんなことを言い出したのか――そのときの俺には、自分でも、まるで分からなかった。ただ、口が勝手に動くのを、止められなかった。


 その答えを、俺が本当に知ることになるのは、ずっと後――何もかもを、やり終えたあとのことだった。


「――このホールの、最後の日」


 立花さんが、こっちを見た。


「最後の日に、この客席を、満席にして。……俺たちで、演奏したいんだ。ここで。いちばんでかいやつを、ぶちかましたい」


 言ってしまってから、自分の言葉のばかばかしさに、耳が熱くなった。俺は楽器なんて一つも弾けない。楽譜も読めない。仲間もいない。オーケストラがどうやって音を出しているのかすら、知らない。そんな人間が、二千人のホールを、満席にして、演奏する?


 立花さんは、しばらく黙って俺を見ていた。笑われる、と思った。


 けれど、その皺だらけの顔が、ゆっくりと、笑った。子どもがいたずらを思いついたときみたいな、妙に若い笑い方だった。


「坊主、名前は」


「須賀。須賀律」


「律か」立花さんは、その名前を舌の上で転がすみたいに繰り返した。「いい名前だ。音楽の(りつ)と、同じ字だな」


 そのとき、俺はまだ知らなかった。この、後先を考えない一言が、これから二年間、まるで別の惑星から集めてきたみたいなバラバラの連中を巻き込んで、俺自身の壊れた放課後に、もう一度、音を取り戻すことになるなんて。


 そして、その音の始まりが、たった今、暗がりに消えていった、あの震える背中だったなんてことも。



### 第二章 廃墟と、変人たち


 勢いで「二千人のホールを満席にして演奏する」と口走った翌日、俺はさっそく、人生でいちばん現実的な壁にぶつかっていた。


 部が、ない。


 オーケストラをやるにも、そもそも受け皿になる部活がない。ないものはできない。中学の担任がよく言っていた、当たり前すぎて誰も感動しない類いの真実だ。


 ところが職員室で聞いてみると、意外な答えが返ってきた。花森高校には、かつて管弦楽部があったらしい。「あったよ。三年前まではね」と、教頭は懐かしむでもなく、湯呑みの縁を眺めながら言った。「部員が減って、廃部。今は吹奏楽部が幅を利かせてるからねえ。楽器の置き場所が余ってるだけ、マシってもんだよ」


 余ってる。その一言に、俺の耳が反応した。


 旧・管弦楽部の部室は、体育館の裏手、いちばん陽の当たらない角にあった。ドアの札は色褪せて、「管」の字が半分剥げ、「弦楽部」だけが辛うじて読めた。鍵は錆びていて、回すのに全体重が要った。


 開けた瞬間、埃が生き物みたいに舞い上がって、俺は思いきりむせた。


 中は、控えめに言って、墓だった。三年ぶんの埃を被った譜面台が、骨の折れた傘みたいに何本も倒れている。壁際には、黒い棺桶——ではなくコントラバスのケースが二つ、寄り添うように立てかけてあって、暗がりでそれを見た俺は普通に「うわ」と声を出した。奥の棚には、緑色にカビた楽譜の束と、ひび割れたメトロノームと、なぜか片方だけのスリッパ。そして正面の壁に、色の抜けた一枚の写真。制服姿の生徒が十数人、楽器を抱えて笑っている。下に手書きで、《卒部おめでとう》。


 こいつらが、最後の部員か。


 俺はしばらく、その笑顔を見ていた。この墓を、もう一度、音の鳴る場所に戻す。……できるのか? 楽譜も読めない俺が? 一人で?


「無理だな」


 と、背後で、声がした。


 心臓が、跳ねた。……今の、俺、声に出してたのか? 「できるのか」だの「一人で」だの、頭の中で考えてるだけのつもりだったのに。どうやら俺は、墓場みたいな部室で、一人、ぶつぶつ、独り言を垂れ流していたらしい。


 振り返ると、知らない男が立っていた。眼鏡。猫背。手にノートパソコン。その表情には、卵のようにツルツルで凹凸がなく、何の感情も浮かんでいなかった。


「え、誰」


「一年の海老名です。物理部の。廊下まで埃が流れてきたんです。粒子の拡散速度から発生源を逆算したら、ここでした」


 逆算するな。ドアが開いてただけだろ。


「須賀律だ。……で、なんで無理なんだ?」


 海老名と名乗った男は、返事の代わりに部室をぐるりと見回して、指を三本立てた。「フルオーケストラは最低でも三十人。楽器の習熟には平均で数年。本番まで半年。掛け算すると、必要な練習時間の総量は、宇宙が生まれてから今までの時間を、軽く超えます」


「宇宙を持ち出すな」


「事実です」海老名は淡々と続けた。「ただし、それは"全員が全部を弾く"と仮定した場合の話です」


「……どういう意味だ」


「音楽って、要するに、時間の上に並んだ音の点の集合ですよね」海老名は初めて、ほんの少しだけ、身を乗り出した。「なら、その点を一人が全部背負う必要はない。一人が担う点を、極限まで減らせばいい。極端な話、一人が一音だけ受け持って、それを何十人ぶんも重ねれば——理論上は、ど素人でも交響曲が鳴ります」


 俺は、口を開けたまま、固まっていた。


 正直に言う。こいつが、何を言っているのか、一ミリも、分からなかった。時間の上の、点。背負う。重ねる。……全部、日本語のはずなのに、頭の表面を、つるつる、すべっていくだけだった。


「……悪い。もう一回。ばかにも分かるように、言ってくれ」


 海老名は、少し困った顔で部屋を見回し、それから、床に転がっていた古い譜面台の部品を、いくつか拾い上げた。


「たとえば、この曲を、長い、長い、リレーだと思ってください」ぽつぽつと、言った。「ふつうは、一人の走者が、四十二キロ、全部、走る。それが、演奏です。……でも、素人には、無理だ。一キロで、潰れる」


 海老名は、拾った部品を、一つ、また一つと、床に、等間隔に、並べていった。


「だから、逆にする。四十二キロを、三十人で、分ける。あなたは、この一メートルだけ。あなたは、次の一メートルだけ。……一人が、たった数歩、走って、次に、渡す。それを、ぴったりの順番で、繋げれば――誰も、四十二キロなんて走れなくても、ゴールには、たどり着く」


 ……そこで、初めて、ぼんやりと、絵が浮かんだ。


「一人が、一音だけ」俺は、ゆっくり、言った。「それを、何十人で、繋いで、一曲にする、ってことか」


「そうです」海老名は、こくりと、頷いた。「一人あたりの負担を、習熟が要らなくなるくらいまで、減らす。……そうすれば、理論上は、ど素人の集まりでも、交響曲が、鳴ります」


「……それ、できるのか?」


「知りません。でも、面白いです」


 ゆで卵の顔に、初めて、うっすらと血が通った気がした。こいつ、無理だと言いに来て、いつのまにか一番乗り気になってる。


 そのときだった。部室の壁が、ドドッ、ドドッ、ドドドッ、と重低音で震え始めた。


 最初、俺は、地震かと思った。


 いや、俺だけじゃない。ふと見ると、海老名が、いつのまにか、机の下に、きれいにもぐり込んでいた。ノートパソコンだけを、大事そうに抱えて。避難の姿勢だけは、教科書みたいに完璧だった。


「地震じゃ、ないのか」


「違います」机の下から、くぐもった声がした。「揺れの周期が、地震にしては、速すぎる。……人工的な、振動です」


 だったら出てこい。


 音の出どころは、隣の用具倉庫。俺と、机の下から這い出てきた海老名が、恐る恐る覗くと、そこには、この学校でいちばん有名な不良が、床にあぐらをかいて、ドラムスティックで伏せたポリバケツを滅多打ちにしていた。二年の鬼頭。肩まで伸ばした金髪を派手なパーマでうねらせ、その頭をビートに合わせてがくがく振り乱している——どこか外国のメタルバンドのドラマーが、そのまま高校の倉庫に迷い込んだみたいだった。停学の回数が校内新記録なのは、たぶん、この頭のせいもある。めちゃくちゃに叩いているようでいて、その連打は恐ろしく正確に、一定の速さを刻んでいる。彼はイヤホンの片方を外し、ものすごい形相でこっちを睨んだ。


「あぁ、なんだ〜?」


 俺は反射的に回れ右をしかけた。が、その足が止まった。外したイヤホンから漏れ聞こえてくる音楽——絹を裂くみたいな高音の絶叫と、疾走するギター。とんでもない速さと熱量の曲だった。


「なんだ、その曲」


 鬼頭の眉が、ぴくりと動いた。それから彼は、信じられないほど早口で喋りだした。「……ハロウィンだよ。菓子くれる方じゃねえ、ドイツのメタルバンドの方な。ジャーマンメタル、パワーメタルってジャンルで、この疾走感と、地獄みたいなツーバスの手数と、あとサビの、こう、拳を突き上げる大合唱が——聴いてると、腹の底から、ウオオオ!ってなるだろ!」


 さっきまでの殺気は、どこへやら。急に、推しを語るオタクの顔だった。俺と海老名は、そっと顔を見合わせた。


「……この人、リズムを刻むの、たぶん異常にうまいと思います」海老名が、ぼそりと言った。「あの速さのビートを、寸分の狂いもなく。今の僕たちの計画に、たぶん、いちばん要る才能です」


 肝心の鬼頭は、俺たちが何をひそひそ話しているのか、まるで聞こえていない様子で、ポカンと口を開けて、こっちを見ていた。さっきまで推しを早口でまくし立てていた熱が、急に切れて、ただの、間の抜けた不良の顔に戻っていた。


 誘えばいい。海老名が、いちばん要る才能だと言うんだから。……そう頭では思うのに、俺は、その日、鬼頭に、声をかけられなかった。


 鬼頭迅。触れれば火傷しそうな、危険物みたいな男だ。あんなのを部に引き込んで、本当に、大丈夫なのか。……いや、そもそも、あいつが、こんな狂った計画に、乗るわけがない。


 結局、俺は、そっと、その倉庫を後にした。鬼頭は、俺たちのことなんて、もう忘れたみたいに、またイヤホンをして、バケツを叩き始めていた。


 ――鬼頭を、どうするか。それは、しばらく、俺の宿題になった。


 そして、その日の、もう一人は、こっちが確保するまでもなく、向こうから来た。


 夕陽が部室に差し込む頃、ドアが、芝居がかった軋み方をして開いた。逆光の中に、黒い人影が立っていた。


 フリルの塊だった。


 黒いドレス、黒い日傘、頭には黒いリボン。全身、葬式に向かう西洋人形みたいな女子が、両手を広げて、朗々と言い放った。


「見つけましたわ。滅びゆく、美しきものの気配を」


「……誰?」


「一年、黒羽累」フリルの塊は、うっとりと部室を見渡した。「このお部屋、素敵。三年間、誰にも弔われず眠っていた楽器たちの、静かな墓所。ああ、わたくし、こういう"終わりゆくもの"に、どうしようもなく惹かれてしまうんですの」


「墓所じゃない。部室だ。あと、なんで俺のこと知ってんだ。勝手に入ってくるな」


「昨日、あのホールに、いましたのよ。わたくし」累は、うっとりと、目を細めた。「取り壊されると聞いて、最後のお別れに。……滅びゆくものの気配を、味わいに。そうしたら――柱の陰で、あなたが、あの用務員さんに、宣言なさっているのが、聞こえましたの。『最後の日に、この客席を、満席にして、演奏する』と」


 ――あの、誰もいないと思っていたホールに。こいつも、いたのか。


「ぞくぞく、いたしましたわ」累は、両手を、胸の前で、組んだ。「滅びゆく舞台での、最後の、無謀な儀式。……こんな素敵なもの、見逃せるわけが、ございません。しかも、よくよく見れば、あなたの着ていらしたの――うちの制服。同じ学校の、先輩でしたのね。運命だと、思いましたわ」


「運命じゃない。ただの、同じ学校だ」俺は、頭を抱えた。同じ花森高校の一年に、こんな喪服のお嬢様が、いたとは。「で、わざわざ、さがして来たのか」


「ええ。廊下ですれ違う先輩を、一人ずつ、確かめて。三人目で、あなたでしたの」


「わたくし、その儀式の一員に、加えていただきますわ」累は、俺の引きつった顔を完全に無視して、片手を胸に当てた。「断られても、来ますけれど」


 脅迫だった。ゴスロリの、脅迫。


 俺は、埃だらけの部室を見回した。理屈で宇宙を持ち出す物理部。押しかけてきた喪服のお嬢様。そして、壁の写真の中で笑う、三年前の先輩たち。


 どう考えても、無理だ。まともに考えれば、絶対に、無理だ。


 なのに、どういうわけか、俺の胸の奥で、あの日ホールで聴いた震えるピアノの音が、もう一度、小さく鳴った気がした。


 ——一人が、一音だけ。それを、何十人ぶんも重ねれば。


 海老名の言葉が、頭の中で反響していた。ばかげている。ばかげているのに、なぜか、いちばん最初の一音が、もう聞こえた気がしたんだ。


 ――ただ、その最初の一音を、本当に鳴らすには、どうしても、要る男が、一人いた。そして、そいつこそが、俺には、いちばん、声をかけづらい相手だった。


 その日から、数日、俺は、ずっと、迷い続けた。


 鬼頭を、誘うか、どうか。


 海老名の理屈は、正しい。あの、寸分の狂いもないリズムは、この計画の、生命線だ。あれがないと、三十人の一音は、絶対に、噛み合わない。……でも、あの、停学記録校内一位の危険物を、部に引き込んで、いいのか。せっかく集めかけたものが、あいつ一人で、めちゃくちゃにならないか。だいたい、声をかけて、殴られたり、しないか。


 三日、迷った。四日、迷った。授業中も、飯を食っているときも、あの、地震みたいな連打が、頭の奥で、鳴り続けていた。


 そして、五日目の放課後。気づいたら、俺の足は、また、あの用具倉庫の前に、立っていた。


 結局、俺の中の答えは、最初から、決まっていたんだと思う。あの、狂いのないリズムを、聴いてしまった、あの瞬間から。


「俺とバンド組みたいって言うんじゃないだろうな?」バケツから顔を上げた鬼頭は、スティックで肩を叩きながら、鼻で笑った。「悪いな。俺、集団行動ってやつが、死ぬほど無理なんだよ。人に合わせんの、だりぃ」


「バンドじゃない。オーケストラだ」


 鬼頭が、は? という顔を、した。


「取り壊しになる、あの市民会館の大ホール。あそこを、最後の日に、満席にして――楽譜も読めない素人だけで、交響曲を、演奏する」俺は、言った。この数日、頭の中で、何百回も転がした計画を、初めて、あいつに、口に出した。「そのために、君の、そのリズムが、要るんだ。オーケストラに、入ってくれ」


「はぁ? オーケストラぁ?」鬼頭が、顔をしかめた。「余計、無理だろ。俺が、あんなお上品なやつに混じって、周りに合わせて、ちんまり叩くとか、ヘドが出――」


「合わせなくていい」


 俺が言うと、鬼頭の眉が、ぴくりと動いた。


「君は、一人で、いつものリズムを、刻むだけでいい。誰にも、合わせなくていい」俺は、海老名の、あの日の理屈を、必死で、自分の言葉にした。「その代わり――全員が、君に、合わせる。三十人が、君の刻むリズムの上に、音を乗っけてくるんだ。君が、真ん中だ」


 鬼頭は、しばらく、俺を睨んでいた。それから、スティックを、くるりと回した。


「……三十人が、俺に、合わせる?」


「そうだ」


 鬼頭の口の端が、にやりと吊り上がった。「……悪くねえ響きだな、それ」


 五日も迷ったのが、ばかみたいに、あっさりだった。集団に合わせるのは死ぬほど無理でも、集団を従えるのは、大好物だったらしい。


 こうして、俺は、いちばん危険な変人を、手に入れた。もっとも、この金髪が本当に厄介なのは、入ったあとだと思い知るのは、もう少し、先の話だ。



### 第三章 ないない尽くし


 結論から言うと、俺たちの最初の"練習"は、音楽ではなく、事故だった。


 埃を払った部室に、四人。譜面台の前に、俺、海老名、鬼頭、そして黒羽累。海老名が「まず各自、一音だけ出してみよう。話はそれからだ」と言うので、俺たちは廃部の棚から引っぱり出した楽器を、それぞれ抱えた。


 鬼頭が、床に据えた大太鼓を、ドン、と一発鳴らした。これは、良かった。恐ろしく正確な、腹に響く一発だった。


 問題は、それ以外の全員だった。


 俺が吹いたトランペットは、ブビィ、という潰れた屁みたいな音しか出なかった。海老名が構えたバイオリンは、弓を当てた瞬間、猫を踏んだような悲鳴を上げ、海老名本人が「……音響的に、これは失敗だ」と冷静に敗北を認めた。そして累。彼女はチェロを抱え、目を閉じ、うっとりと弓を下ろし——ガリッ、という、この世の終わりみたいな音を鳴らして、「素敵。断末魔ですわ」と満足そうに頷いた。


 断末魔じゃない。ただ下手なだけだ。


 十分後、俺は天井を仰いでいた。わかったことが一つある。俺たちには、音楽が「どういうものか」を知っている人間が、一人もいない。海老名の理屈は、それを"やれる"人間がいて初めて意味を持つ。設計図はある。大工がいない。


「楽器と、場所も要る」海老名が、埃をかぶった楽器を見て言った。「この墓場の遺品だけじゃ足りない。まともな楽器と、音を出せる部屋。——学校の備品を借りるしかない」


 まともな楽器と、部屋。その二つを、この学校で握っているのは、一つしかなかった。



 音楽室のドアを開けた瞬間、俺は場違いさに火傷しそうになった。


 磨き上げられた床。ずらりと並んだ楽器。そして四十人からの部員が、一糸乱れぬ姿勢で座っている。花森高校吹奏楽部。県どころか、関東でも名の知れた、全国大会常連の化け物集団だ。その音の壁は、素人の俺でも一瞬で分かるくらい、桁が違った。


 指揮台の男が、こちらを見た。部長の鷲尾。俺と同じ二年にして、この化け物集団を束ねることを許された男だ。涼しい顔で、俺たちを上から下まで眺めて、薄く笑った。


 噂は、とっくに、広まっているらしかった。……無理もない。三年も死んでいた部室に、急に、校内一の問題児と、喪服みたいなお嬢様が、出入りを始めたんだ。おまけに俺は、職員室で教頭に、廃部のオケのことを、しつこく聞き回っていた。この狭い学校で、それが噂にならないほうが、おかしい。


「ああ、噂の。廃部のオケを、復活させるんだって?」鷲尾は、譜面をめくりながら、まるで天気の話でもするみたいに言った。「やめときなよ。あの部が潰れたの、人が集まらなかったからだけじゃない。この学校の"音楽"は、うちが背負ってる。楽譜も読めない連中がオーケストラごっこして、それを花森の名前でやられると——正直、迷惑なんだ」


 背後で、四十人が、くすりと笑った。その笑いは、殴られるより、ずっと効いた。


「何だとぉ!」と言って鬼頭が一歩前に出かけたのを、俺は腕で止めた。ここで暴れたら、あいつの停学記録がまた伸びるだけだ。俺たちは、楽器も部屋も借りられず、笑い声を背中に浴びて、音楽室を出た。


「……で。どうすんの、それ」


 廊下で待っていたのは、顔だけは、よく知っている女子だった。話したことは、一度もない。……けど、この学校で、生徒会長の顔を知らない生徒なんて、いない。腕を組み、呆れ果てた顔で、俺たちを見ている。一年の、桃井まり。この学校はじまって以来の、"一年生の生徒会長"だ。


「あんたたちの部活復活の申請書、回ってきたんだけど」桃井は書類の束をひらひらさせた。「言っとくけど、無理。部の正式復活には最低五人の部員と、顧問の先生が要る。今、部員は四人。顧問はゼロ。予算もゼロ。おまけに吹奏楽部が反対してる。……はい、詰み。おしまい。解散」


 ……あんた、あんた、って。こいつ、一年だよな。なんで、二年の俺に、そんな、完全なタメ口で、あんた呼ばわりなんだ。先輩を敬うって概念、生徒会の規約には、載ってないのか。……まあ、入学二か月で会長の椅子を取りにいくような奴に、今さら、常識を説いても、しょうがないけど。


「そこを、なんとか」


「なんとかならないから無理って言ってんの」桃井は溜め息をつき——それから、なぜか書類をめくり始めた。「……顧問はまあ、校内の先生じゃなくても、外部指導員でも要件は満たせる。予算は、部費じゃなくて、市の文化事業の助成に申請すれば……いや、締め切りが……ああもう、この様式、書き方まちがってるじゃない」


 桃井は、胸ポケットから赤ペンを引き抜くと、無理だ無理だと言いながら、すごい速さで俺の申請書を直し始めた。俺は思わず海老名を見た。海老名も、めずらしく小さく肩をすくめた。この人、口では突き放しながら、手はもう助けてる。……たぶん、こういう、他人の尻ぬぐいを、放っておけない性分だから、生徒会長なんてものを、やってるんだろう。仕事の押し付けられ方が、尋常じゃない役職だ。


「勘違いしないでよ」桃井は顔も上げずに言った。「あの鷲尾の言い方が、ちょっと、気に食わなかっただけ。それだけ」


 こうして、五人目は自分から罠にかかった。だが、根本の問題は何も解けていない。楽器も部屋も、まだない。そして何より——音楽を知っている人間が、いない。


「一人、いるでしょ」桃井が、赤ペンを止めて言った。「この学校で、たった一人。昔、音大附属を狙ってたって噂の、本物が。……今は、ピアノをやめてるらしいけど。遠野詩織。あんたたちと同じ、二年の」


 遠野詩織。その名前を聞いた瞬間、俺の頭の中で、あの日のホールが、もう一度、鳴った。誰もいない大貝ホールで、たった一人、震えるように弾いていた背中。曲を、途中で止めた、あの手。……立花さんが名前を教えてくれた、あの子だ。


 桃井の言う"本物"が、よりによって、あの震える背中のことだと分かって、俺の心臓が、勝手に、跳ねた。


 遠野詩織の居場所は、桃井が教えてくれた。「あの子、いつも、屋上の階段の、いちばん上の踊り場にいるよ。生徒会で見回りしてると、必ず、そこにいる」。屋上のドアは、防犯のために、いつも施錠されている。その手前の踊り場は、行き止まりで、生徒はほとんど寄りつかない。日当たりだけはいい、静かな、吹きだまりみたいな場所だ。……人のいないところを選んで、一人で本を読む。そういう子なんだろう。教室の窓際に一人でいるのと、同じだ。


 放課後、俺は、その踊り場で、彼女を捕まえた。案の定、詩織は、階段の隅に腰かけて、一人で文庫本を開いていた。窓の外には、平べったい町並みの向こうに、遠く霞んだ工業地帯の煙突が見えた。海の匂いのする風が、彼女の髪を揺らしていた。その風が、ふわりと、シャンプーの爽やかな匂いを、こっちまで運んできた。潮の匂いの中で、そこだけが、妙に、清潔だった。


「……風、気持ちいいな。ここ」


 詩織は、文庫本から目も上げずに、「……何か、ご用ですか」とだけ言った。氷みたいに冷たい声だった。世間話に付き合う気は、一ミリもない、という声。


 ……だめだ。この手のタイプに、小手先の世間話は、通用しない。俺は、諦めて、まっすぐ切り出した。


「オーケストラを、手伝ってほしい」俺は、単刀直入に言った。「遠野さんが、本物だって聞いた」


「お断りします」詩織は、俺を見もしなかった。「わたし、音楽はやめたので。それに——楽譜も読めない人たちの、ごっこ遊びでしょう。付き合いきれません」


「あの日、ホールで聴いた」


 彼女の肩が、びくりと止まった。


「大貝ホールで、遠野さんが弾いてたの、聴いたんだ」俺は続けた。「上手いとか下手とか、俺には分からない。でも、あの音、胸をつかまれた。それに、光の中で、背筋を伸ばして弾いてた、あの背中。……綺麗だと、思った」


 言ってから、自分でも、少し驚いた。そんな言葉が出てくるつもりは、なかった。


「……途中で、やめただろ。あれ、なんで途中でやめたのか、俺、ずっと気になってて」


 長い沈黙があった。潮風が、もう一度、吹いた。


 詩織は、やっと俺を見た。その目には、怒りと、それから、怒りとは違う何かが混ざっていた。彼女は何も言わず、俺の横をすり抜けて、階段を降りていった。


 振られた。完全に。俺はしばらく、その場でしょげていた。


 ところが——その日の夕方。埃だらけの部室で桃井の書類仕事を手伝っていると、ドアが、乱暴に開いた。


 遠野詩織が、立っていた。制服のまま、鞄を肩にかけ、思いきり不機嫌な顔で。


「勘違いしないでください」彼女は、部室の惨状をぐるりと見回して、吐き捨てるように言った。「あなたたちの音、廊下まで聞こえてました。……下手すぎて、聴いていられないんです。あんな音を大貝ホールで鳴らされたら、あのホールに失礼だから。だから、仕方なく。仕方なく、来ただけです」


 それは、たぶん、この世でいちばん不器用な「入部します」だった。


 俺は、笑いをこらえるのに必死だった。墓場みたいな部室に、六人目。しかも、本物。


 窓の外で、潮の匂いのする風が、また吹いた気がした。



### 第四章 ばらばら


 部は、正式に復活した。


 桃井が徹夜で書類の魔術を使い、外部指導員の枠に立花さんの名前をねじ込み、市の助成金の申請をぎりぎりで滑り込ませた。県立花森高校・管弦楽部、三年ぶりの再結成。……とはいえ、名前が戻っただけで、中身は相変わらず墓場の住人たちだ。


 しかも、フルオーケストラには最低三十人が要る。俺たちは、まだ六人。


 その六人で、最初に決めたのが、曲だった。


「――ブラームス。交響曲、第一番」


 詩織は、意見を求める前に、決定事項として、そう言った。入部して三日目には、彼女がこの楽団の"音楽監督"であることに、誰も、異を唱えなくなっていた。


「なんで、それなんだ?」と、俺は聞いた。ベートーヴェンとか、モーツァルトとか、俺でも名前を知ってる巨匠なら、他にもいる気がした。


「理由は、三つ、あります」詩織は、指を立てた。「一つ。第四楽章に、大きくて、単純で、誰の耳にも残る主題がある。歌みたいに、まっすぐな旋律です。音を細かく割って、一人一音で積み上げるやり方に、あの主題は、向いています。速くて細かい曲は、わたしたちには、物理的に、無理なので」


 身も蓋もなかった。


「二つ。編成が、無茶じゃない。特殊な楽器が、ほとんど要りません。……あの棚の遺品と、寄せ集めの人数で、ぎりぎり、手が届きます」


 詩織は、そこで、少しだけ、間を置いた。


「三つ目は……」その目が、部室の窓の外、ホールのある方角を、ちらりと見た。「この曲、暗い、ハ短調で始まるんです。重くて、苦しくて、出口がないみたいな音で。……でも、四十五分かけて、最後には、明るい光の中に、たどり着く。そういう曲なんです。だから――取り壊される、あのホールの、最後の夜に鳴らす曲は、これがいいと、思いました。暗く終わらせないで、いちばん明るいところで、終わらせてあげたいから」


 部室が、静かになった。


 最後の理由だけ、理屈じゃなかった。そして、その理屈じゃないやつが、いちばん、効いた。誰も、反対しなかった。累だけが「暗黒から歓喜への、魂の遍歴……なんて美しい選曲ですの」と、うっとり拍手をしていた。


 こうして、俺たちの曲は、ブラームスの一番に、決まった。


 だから俺と桃井は、放課後の校舎を回って、頭数をかき集めた。帰宅部の連中、テスト赤点常習の一年、暇そうにしていた将棋部——「一人が数音だけ弾けばいい」という海老名の理屈を説いて回ると、意外と、面白半分の寄せ集めが三十人近く集まった。楽譜が読めなくていい、というのは、この学校のはみ出し者たちにとって、思いのほか魅力的な誘い文句だったらしい。


 詩織が、その全員に、色と番号で書いた"自分専用の紙切れ"を配って、一音ずつ、置き方を叩き込んでいく。地味で、気の遠くなる作業だった。それでも、ばらばらだった音が、たまに、ほんの一小節だけ、繋がる瞬間がある。そのたびに、部室の空気が、ふっと明るくなった。


 練習の前には、詩織による、短い"授業"が付くようになった。なにしろ、部員のほとんどは、自分たちが挑む曲が、どんな曲かすら知らない。俺も、その一人だ。


「まず、第一楽章」詩織が、電子ピアノの前に座って、言った。「いちばん下で、ティンパニが、ドン、ドン、ドン、って、同じ音を、打ち続けます。その上で、弦が、うめきながら、少しずつ、上へ、登っていく。……こんなふうに」


 詩織が、鍵盤を鳴らした。低い音の連なりが、部室の空気を、ずん、と重くした。


「なにこれ。こわ」と、桃井が言った。


「そう。怖いんです」詩織は、真顔で頷いた。「心臓の鼓動の上に、何かが、のしかかってくる。ブラームスは、四十五分の物語を、そういう音で、始めたんです」


「ティンパニって、要するに、でかい太鼓だろ」鬼頭が、がたっと椅子を鳴らして、身を乗り出した。口の端が、隠しきれずに、にやにやと吊り上がっている。スティックまで、もう握っていた。「つまり、あれか。頭から、俺が主役ってことか」


「あなたがリズムを外すと、頭から、全曲が死ぬ、ということです」と海老名。


「上等だよ」


 初日は、ひどいものだった。第一楽章の、冒頭の、たった四小節。鬼頭のティンパニの上に、三十人が、順番に一音ずつ置いていくだけの作業が、何十回やっても、ぐしゃぐしゃに崩れた。誰かが早く、誰かが遅く、誰かは、自分の番が来たことにすら、気づかない。


 二日目も、崩れた。三日目も、崩れた。


 でも、四日目。放課後の部室で、その四小節が、初めて、崩れずに、鳴った。


 たった、四小節。時間にして、十秒足らず。それでも、鳴り終わった瞬間、部室じゅうから、「おおお」と、変な歓声が上がった。将棋部の一年が、隣の帰宅部と、ハイタッチをしていた。ゆうべまで、口もきいたことのない二人が、だ。


 五日目には、八小節。一週間たつ頃には、冒頭の一分が、たまに、通るようになった。ぐしゃぐしゃの日と、奇跡みたいに繋がる日が、交互に来た。それでも、折れ線グラフにすれば、確かに、右肩上がりだった――と、海老名が、実際に折れ線グラフを作って、部室の壁に貼り出した。「見える成果は、継続率を上げます」とのことだった。理屈っぽいが、事実、その赤い線が少し上を向くたびに、みんな、妙に、嬉しそうだった。


 いけるんじゃないか。……部室に、そんな空気が、流れ始めていた。


 問題は、低音だった。


「土台が、弱すぎます」海老名が、いつもの卵みたいな無表情で言った。「チューバやコントラバスの低音は、曲全体を、いちばん下で支える床です。でも、長く伸ばす音を、素人の肺は保たない。息が続かなくて、音が痩せる。……計算上、必要なのは、化け物みたいな肺活量を持つ人間です」


「言っておきますけど――原曲に、チューバは、出てきません」詩織が、静かに、付け加えた。「わたしのピアノも、です。ブラームスは、どちらも、一音も、書いていません」


「え、いいのか、それ」


「わたしたちの楽譜は、わたしが書き直した、素人のための、特別製ですから」詩織は、当たり前のことみたいに言った。「弦の低音を、人数ぶん揃えられない代わりに、チューバで、底を支える。ばらばらになりやすい和音を、ピアノで、繋ぎとめる。……原曲どおりに並んだら、わたしたちは、一小節だって、立っていられません」


 原曲にない楽器を、足す。そのとき俺たちは、「ふうん」くらいにしか、思っていなかった。この選択がどれだけ重いものだったのかを、思い知るのは――ずっと、あとの話だ。


 化け物みたいな肺活量。その条件で、俺の頭に、一人だけ浮かんだ。


 プールサイドで捕まえたそいつは、真っ黒に日焼けした、見上げるような巨体だった。水泳部の鯨井陽。同じ二年。声がとにかくでかい。


「オーケストラぁ? 俺が?」鯨井は、濡れた髪をタオルでがしがし拭きながら、豪快に笑った。「無理無理! 俺、楽譜とか、ぜんっぜん読めねえもん!」


「読めなくていい。息が続けばいい」


 俺がチューバを差し出すと、鯨井は不思議そうにそれを受け取り、見よう見まねで、ぶおお、と吹いた。


 部室のガラスが、びりびりと震えた。


 それは、素人の音だった。汚くて、まっすぐで、でも——恐ろしく長く、太く、揺るがなかった。息継ぎもせず、鯨井はその一音を、笑ってしまうくらい延々と鳴らし続けた。五十メートルを息継ぎ二回で泳ぐ肺は、伊達じゃなかった。


「……採用」海老名が、ぼそりと言った。


「まだやるって言ってねえよ!?」


 だが、鯨井は次の日には、当たり前みたいに部室にいた。「だってお前ら、なんか、面白そうだったから」と、日焼けした歯を見せて笑って。単純で、暑苦しくて、こいつがいるだけで、墓場みたいな部室が、少しだけ、体育館みたいに明るくなった。


 しかも鯨井は、少しでも本気を出すと、なぜか上半身裸になった。「こっちの方が息が入るんだって」と言い張って、真夏でもないのにシャツを脱ぎ捨て、日焼けした筋肉を、頼んでもいないのに惜しげもなくさらす。累が「素敵……生きた彫像ですわ」とうっとりスケッチを始め、桃井が「暑苦しい」と半眼で切り捨て、詩織は心底うんざりした顔で目をそらした。チューバを吹くたびに脱ぐので、俺たちの部室は、やたらと肌色の面積が広かった。


 ――そう。ここまでは、良かったんだ。


 崩れたのは、その週の、金曜だった。


 全体練習。三十人が、詩織の指揮のもと、一斉に自分の一音を置いていく。だが、その日はどうしても、揃わなかった。誰かの音が早く、誰かの音が、わずかに遅れる。積み上がるはずの音が、途中でぐしゃりと崩れる。何度やっても、同じだった。


 詩織の眉間の皺が、だんだん深くなっていくのが、遠目にも分かった。彼女はもともと、本物だ。妥協ができない。ずれた音の一つ一つが、たぶん、彼女には物理的な痛みだった。


「——止めて」


 十何回目かの崩壊のあと、詩織の声が、部室を凍らせた。彼女は、まっすぐ鬼頭を見ていた。


「あなたのリズム。速すぎます。それに、勝手に走る。あなたが自分のノリで叩くたびに、全員が引きずられて、崩れるんです。……ここは、あなたのメタルバンドじゃない」


 部室が、しん、となった。


 鬼頭の、こめかみが、ぴくりと動いた。それから、そのままの姿勢で、俺のほうを、じろりと見た。


「……おい、律。話が、違うぞ」低い声だった。「お前、言ったよな。俺は、好きにリズムを刻んでりゃいい、誰にも合わせなくていい、全員が俺に合わせる、って。だから、俺は入ったんだ。……なのに、なんだ、今の。俺に、合わせろってのか?」


 ――しまった。


 俺は、言葉に詰まった。あれは、口説くための、方便だった。実際に三十人で音を出せば、全員が好き勝手なリズムに乗ったら、崩れるに決まってる。誰かが、リズムを、揃えなきゃならない。……でも、それを、鬼頭に、最初に、言っていなかった。


「それは……」


「はっ」鬼頭は、俺の言い淀みを、鼻で笑った。それから、スティックを手の中で、くるりと回して、今度は詩織に、矛先を向けた。「じゃあ聞くけどよ」低い声だった。「その正しいリズムとやらで、お前、いつ、人前で弾いたんだ?」


 詩織の肩が、びくりとした。


「噂、聞いたぜ。音大附属だか目指してて、本番で手が止まって、それっきりピアノやめたんだろ」鬼頭の口の端が、歪んだ。「本物、本物ってさ。正しさに逃げてんのは、どっちだよ。俺は少なくとも、まだ、叩いてる」


 ――やめろ。


 俺が口を開くより、早かった。


 詩織の顔から、すうっと色が引いた。何か言い返そうとして、その唇が、震えた。言葉が、出てこない。あの日、ホールで途中で止まった、あの手のように。


 鬼頭は、ふん、と鼻を鳴らし、スティックを床に放り投げた。乾いた音が、二回、跳ねた。


「ばからしい。素人集めて、ごっこ遊びで、大ホール? 付き合ってらんねえよ」


 そう言い捨てて、鬼頭は部室を出ていった。金髪が、ドアの向こうに消えた。


 残されたのは、宙ぶらりんの三十人と、青ざめた詩織と、その足元に転がった二本のスティックだった。誰も、動かなかった。鯨井が「お、おい、どうすんだよこれ」と、珍しく困った顔で俺を見た。


 どうすればいい。俺には、分からなかった。


 リズムがなければ、全員の一音は、繋がらない。海老名がそう言っていた。鬼頭は、この楽団の要だった。そして俺は——その要に、ただ「叩いてくれ」と頼んだだけで、あいつが本当は何を抱えているのか、何も、知ろうとしていなかった。


 詩織が、うつむいたまま、逃げるように部室を出ていく。一人、また一人と、寄せ集めの三十人が帰っていく。


 気がつくと、俺は、がらんとした墓場に、たった一人で立っていた。壁の写真の中で、三年前の先輩たちが、変わらず笑っていた。


 窓の外は、もう暗い。遠くの工業地帯の灯りが、平べったい町の際で、にじんでいた。


 ――やっぱり、無理だったのかもしれない。


 その考えが、初めて、俺の胸に、本物の重さで、居座った。



### 第五章 心臓


 それから三日、部室のドアを開ける気になれなかった。


 鬼頭は学校に来ていなかった。詩織は、廊下ですれ違っても、目を合わせなかった。寄せ集めの三十人からは、ぽつぽつと「やっぱやめときます」の連絡が届いた。復活したばかりの管弦楽部は、復活したときと同じ速さで、また墓に戻ろうとしていた。


 四日目の放課後、俺はやっと部室に足を運んだ。散らかった椅子を、なんとなく片付けていると、背後で声がした。


「片付けるのか。もう、仕舞いか」


 立花さんだった。今は、この部の"外部指導員"――名ばかりの顧問だ。モップの代わりに、湯呑みを持っていた。


「……立花さん。俺、たぶん、最初から無理なこと、言ってたんです」


「そうかもな」立花さんは、あっさり頷いて、壁の写真の前に立った。三年前の、笑う先輩たち。「なあ律。この子らがな、この部の、最後の代だ」


 俺は、顔を上げた。


「わしは長いこと、大貝ホールの舞台係でな。袖から、いろんな本番を見てきた。この子らの最後の演奏も、あそこで見た」立花さんの指が、色褪せた写真を、そっとなぞった。「上手かったよ。県のコンクールで賞も獲った。……なのに、その年の暮れに、あっさり潰れた。誰が悪いわけでもない。ただ、一人抜け、二人抜け、気づいたら、誰もいなくなってた」


 湯呑みの湯気が、ゆっくり揺れた。


「才能はあったんだ。全員にな。でも、あの子らは、自分が"いなくてもいい"と思ってた。代わりはいる、自分一人抜けたって曲は鳴る、と。……だから、抜けた。わしは袖で、それを、ただ見てた。止め方が、分からなくてな」


 立花さんは、ようやく俺を見た。その目は、笑っていなかった。


「律。お前、あの金髪の坊主に、なんて言って頼んだ?」


 俺は、言葉に詰まった。思い出す。あの倉庫で、俺は、鬼頭に、何と言った?


「……"君の、そのリズムが要る。だから、入ってくれ"。……それしか、言ってないです」声が、掠れた。「あいつの音に、用があっただけ、だったんです」


「そういう場所からはな」立花さんは、静かに言った。「人は、いつか、黙って去る。才能に用があるだけの場所は、そいつにとって、いてもいなくても同じ場所だからだ。……逆だよ、律。あの奏法の、いちばんの肝は、なんだったかな」


 ――一人が、欠けたら。その一音は、永遠に、空く。


 海老名の理屈が、初めて、別の意味を持って、俺の中に落ちてきた。あれは、ただの練習方法じゃない。あれは、「君がいないと、この曲は完成しない」ということが、誰の目にも、耳にも、はっきり分かる仕組みなんだ。


 俺は、部室を飛び出していた。


 鬼頭が、学校を抜け出すと、決まって河川敷にいる――というのは、この学校では、わりと知られた話だった。橋の下でバケツを叩いていて補導された、なんて武勇伝まである。俺は、その場所へ、まっすぐ走った。


 鬼頭は、いた。橋の下、平べったい川の際で、伏せたバケツを、たった一人で叩いていた。大きな空の下、金髪が、風にあおられていた。イヤホンから漏れる爆音のメタルに合わせて、そのリズムは、相変わらず、狂いなく正確だった。


「戻ってこい」


 俺が言うと、鬼頭は叩くのをやめずに、鼻で笑った。「才能様に、用か。代わり、探せよ。バケツ叩くだけなら、そこらの奴でも――」


「代わりは、いない」


 スティックが、止まった。


「鬼頭くんじゃなきゃ、駄目なんだ」俺は、息を切らしたまま言った。「あの三十人のばらばらの一音はな、鬼頭くんのリズムがないと、一生、繋がらない。海老名が保証してる。君は、あの楽団の――心臓だ。道具じゃない。心臓が抜けたら、体ごと死ぬ。だから、戻ってこい。君のリズムじゃなくて、君が、要るんだ」


 鬼頭は、しばらく、川面を睨んでいた。金髪の隙間で、その目が、迷っていた。


「……詩織の、あれは」ぽつりと、言った。「言い過ぎた」


「あいつも、たぶん、分かってる」俺は言った。実際、詩織はこの三日、ずっと様子がおかしかった。あんなに人を責めておいて、いちばん傷ついた顔をしていたのは、彼女の方だった。「あいつも、本番で手が止まった夜から、ずっと一人で、バケツ叩いてるようなもんなんだよ。……君と、同じだ」


 鬼頭は、長いこと黙っていた。それから、スティックを、くるりと回して、立ち上がった。


「……ふん。心臓、ね」金髪をかき上げて、にやりと笑った。「上等だ。止まったら承知しねえからな」


 スティックをポケットに突っ込んで、鬼頭は歩き出した。俺も、隣を歩いた。しばらく、川の音だけがしていた。


 それから鬼頭は、訊いてもいないのに、ぽつぽつと話し始めた。


「……中学んとき、バンド、組んでたんだ」川面を見たまま、言った。「俺のドラムだけは、みんな、褒めた。すげえすげえって。……初めて、居場所ができた気が、してたよ」


 俺は、黙って聞いていた。


「けど、ある日、聞いちまってな。いちばん仲がいいと思ってた奴が、他の連中と、俺のことで笑ってた。『鬼頭って、頭は悪いけど、手だけは動くよな』って」鬼頭は、足元の石を、川に放った。ぽちゃん、と間の抜けた音がした。「……手だけ、な。俺はあいつらにとって、ずっと、"手"だったんだ」


 それきり、鬼頭は誰とも組まなくなった。一人で、バケツを叩くようになった。バケツは、上手いとも下手とも言わない。裏切りもしない。ただ、叩いた音を、返してくるだけだ。


「才能才能って寄ってくる奴は、みんな同じだ」鬼頭は、俺を横目で見た。「使えるうちはちやほやして、飽きたら笑い者にして、消える。……お前も、そうだと思ってた。倉庫で"そのリズムが要る"って言われたとき、ああ、また"手"扱いか、ってな」


 俺は、言葉に詰まった。実際、あの日の俺は、あいつの"手"にしか、用がなかったんだから。


「でも、さっきのは」鬼頭は、ふっと笑った。「"お前が要る"って、言いやがった。……手じゃなくて。俺が、だ」


 金髪が、風に揺れた。


「まあ、覚えとけよ。裏切ったら、次はねえからな」


 その声は、まだ少し、怖がっているみたいに聞こえた。人を信じるのが、こいつはたぶん、いちばん怖いんだ。……俺は今日、やっと、その顔を、一つ、知った。


 次の日、鬼頭は部室に戻ってきた。


 そして、待っていた詩織が、鬼頭の顔を見るなり、深々と頭を下げた。「……この前は、ごめんなさい。あなたのリズムは、うるさいんじゃなくて――生きてました。わたしのが、正しいだけで、死んでたんです」不器用な、けれど、まっすぐな謝罪だった。鬼頭は「おう」とだけ言って、ばつが悪そうに、そっぽを向いた。


 その日の全体練習で、初めて、奇跡が起きた。


 鬼頭の刻むリズムに乗って、三十人が、それぞれの一音を置いていく。ばらばらだった破片が、繋がって、伸びて、ほんの八小節だけ――ブラームスの、あの重厚な旋律の断片が、確かに、部室に立ち上がった。


 誰かが、息を呑んだ。累が、涙ぐんで、胸の前で手を組んだ。鯨井が「鳴った……鳴ったぞ!」と叫んで、なぜかまたシャツを脱ぎかけて、桃井に「今じゃない」と止められた。


 繋がった。たった八小節。でも、確かに、全員の一音が、一つの音楽になった。


 その夜、帰り際に、詩織が、ぽつりと言った。「……でも、これだけじゃ、足りない」


「え?」


「音は、繋がった。でも、"歌"がない」彼女は、遠くを見た。「旋律を、心臓じゃなくて、魂で歌える人が、一人もいない。……本当は、一人、知ってるんです。中学のとき、コンクールで何度も見ました。化け物みたいに上手い子だった。……今は、音楽を、やめてるらしいけど」


 その名前を、詩織は、少し痛そうに、口にした。


「――春名、ひなた」



### 第六章 歌


 春名ひなたは、探すまでもなく、同じ学校にいた。


 二年二組。地味で、目立たなくて、休み時間はいつも机に伏せて寝たふりをしている、影の薄い女子。誰も、彼女がかつて、全国レベルの吹奏楽名門で、ソロを任されるほどのトランペット吹きだったなんて、知らなかった。


 ただ、一つだけ、妙なことがあった。廊下ですれ違ったとき、俺はふと思ったのだ。この人、たぶん、背が高い。俺と、そんなに変わらないんじゃないか。


 なのに、教室で見る春名は、いつも小さかった。机に覆いかぶさるように背中を丸めて、肩をすぼめて、首をすくめて、長い手足を持て余すみたいに折り曲げて――自分の体を、折り紙みたいに、小さく畳んでいた。まるで、大きいことを、誰かにずっと謝り続けているみたいに。


「話しかけるだけ、無駄だと思うけどな」


 そう言ったのは、意外にも、吹奏楽部の鷲尾だった。音楽室の前で春名の名前を出した俺に、彼はいつもの涼しい顔で、少しだけ、影のある表情を混ぜた。「うちも、入部届、渡したことがある。あいつの中学時代の演奏、聴いたことあるからな。……本物だった。でも、断られたよ。『もう吹きません』ってな。理由は言わなかった」


 鷲尾は、肩をすくめた。「才能を捨てる人間ってのが、俺には、いちばん分からない。……せいぜい、頑張れよ。オーケストラごっこでも、あいつが吹くなら、少しは聴く気になる」


 その日の放課後、俺は二年二組の教室で、春名を捕まえた。


「オーケストラ? ……ごめんなさい、人違いです」


 春名は、目を伏せたまま、蚊の鳴くような声で言った。立ち上がっても、肩は丸まったままで、背丈のわりに、その背中は、ひどく小さく見えた。俺の隣で、詩織が、静かに口を開いた。


「久しぶり。……菊池杯の、県大会。あなたのソロ、今でも覚えてる」


 春名の肩が、跳ねた。ゆっくり顔を上げて、詩織を見て――その目に、怯えと、懐かしさと、それから、隠しきれない何かが、混ざった。


「……遠野さん。ピアノの」春名の声が、震えた。「知ってます。あなたも……本番で、手が」


 二人の視線が、宙で、ぶつかった。潰れた者同士にしか分からない、何かが、そこで通じたのが、俺にも分かった。


「わたし、もう、無理なんです」春名は、うつむいた。「中学の、最後のコンクール。ソロの、いちばん大事なところで――音が、出なかった。指は動くのに、息が、喉で、固まって。それから、人前に立つと、どうしても……。だから、もう、いいんです。音楽は」


 いちばん大事なところで、音が出ない。詩織は手が止まり、春名は息が止まる。壊れ方は違っても、同じ場所で、二人は折れていた。


 俺は、しばらく考えて、それから、たぶん、いちばん正直なことを言った。


「じゃあ、ちょうどいい」


 春名が、顔を上げた。


「うち、全員、下手なんだ」俺は言った。「楽譜も読めない不良と、脱ぎたがりの水泳部と、宇宙を計算する物理部と、棺桶みたいな服着たお嬢様。しかも、一人が、一音しか吹かない。だから――春名さんがもし失敗しても、たぶん、誰も気づかない。プレッシャーとか、ゼロだ。ソロも、ない。君一人が背負うものなんて、この部には、一個もない」


 春名は、ぽかんと、口を開けた。


「見に来るだけでいい。吹かなくていい。……ただ、うちの音、一回、聴いてみてくれよ」


 次の日、春名は、部室の隅に、そっと座っていた。


 その日の練習は、いつも通り、ひどかった。鯨井のチューバは相変わらず暴れ、累のチェロは断末魔で、寄せ集めの三十人は半分ずれていた。でも、鬼頭のリズムに乗って、詩織のピアノに支えられて、ばらばらの音が、ときどき、繋がった。誰かが音を外すたびに、笑いが起きた。下手でも、笑って、また鳴らす。そういう、ふざけた楽団だった。


 春名は、その光景を、ずっと、食い入るように見ていた。


 練習の終わり、俺は、廃部の棚に眠っていた古いトランペットを、彼女の前に、そっと置いた。何も言わずに。


 春名は、長いこと、それを見ていた。それから、震える手で、そっと持ち上げた。誰も、注目しなかった――俺が、目で全員に、「見るな」と合図したから。鯨井が空気を読んで、わざとらしく大声で馬鹿話を始めた。


 その、ざわめきの陰で。


 春名が、マウスピースに、そっと唇を当てた。


 最初の一音は、かすれて、消えた。二度目も。喉が、固まっていた。彼女の目に、涙が滲んだ。


 それでも、三度目。


 そのとき――春名の、背中が、伸びた。


 丸めていた背が起きて、すぼめていた肩が開いて、すくめていた首が、上がる。二年半のあいだ畳まれていた体が、ゆっくりと、ほどけていった。椅子に座ったまま、背筋が、一本の線になる。折り紙が、元の一枚の紙に戻るみたいに。……この人、こんなに、大きかったのか。


 そして、息を吸った。


 息を吸うって、あんなに深いものなのか、と俺は思った。腹の底まで、体の内側を全部、空気で満たしていくみたいな、静かで、途方もなく長い呼吸だった。俺たちが顔を赤くして絞り出しているものとは、そもそも別の生き物だった。


 ――ああ、そうか。


 この人は、鳴らすためにできた体を、二年半、小さく折り畳んで、隠して生きてきたんだ。


 ――鳴った。


 トランペットの音が、一音、部室の空気を、まっすぐに、切り裂いた。


 馬鹿話が、やんだ。全員が、振り返った。


 それは、俺たちが、どれだけ音を繋げても、一度も出せなかった音だった。上手いとか、正確とか、そういう次元じゃない。その一音には、"歌"があった。誰かに、何かを、伝えたくてたまらない、震えるような、まっすぐな歌が。


 あの日、大貝ホールで、詩織のピアノに胸をつかまれた、あの感じ。あれが、もう一度、ここにあった。


 音が消えると、春名の背中は、また、ゆっくりと丸まった。癖なんだろう。畳んで、小さくして、隠す。二年半かけて体に染みついた形。でも、さっきまでとは、少しだけ違って見えた。畳み方が、ほんの少し、緩かった。


 春名は、自分の出した音に、自分でいちばん驚いた顔をして、それから、ぼろぼろ泣き出した。二年半ぶりに鳴らした、たった一音。誰も、拍手なんてしなかった。ただ、鯨井が、洟をすすって、また、シャツを脱ぎ始めていた。


「……八人目」俺は、そっとつぶやいた。しかも、歌える本物。


 これで、心臓と、背骨と、歌が、揃った。


 あとは――弦だ。バイオリンや、チェロ。弓で鳴らす、あの弦楽器たちの音が、俺たちには、まだ、決定的に、足りていなかった。



### 第七章 二兎


 弦が、足りない。


 "弦"という言い方を、俺は最近、詩織から覚えた。バイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバス――弓で弾く弦楽器のことを、音楽の世界では、まとめて、ただ「弦」と呼ぶらしい。オーケストラの音の、半分以上を支える、主役たちだ。それが、うちには、いない。


 正確に言うと、弦は一応、あった。廃部の棚から発掘したバイオリンが四挺、ビオラが一挺、そして棺桶——ではなくコントラバスが二本。数だけなら、形にはなる。


 問題は、それを構えている人間だった。


「もう一度だけ確認しますが」海老名がノートパソコンを閉じて言った。「この奏法の要は、一人が一音を"置く"ことです。管も打楽器も、置けます。息を吹き込めば、叩けば、とりあえず音は出る」


「弦は?」


「弦は、置けません」海老名は、累のチェロを指した。「あれは、音を出す動作そのものに技術が要る楽器です。弓を弦に当てて、真っ直ぐ引く。それだけで、素人は必ず失敗します。……つまり、一音でも下手なんです」


「失礼な。あれは断末魔の様式美ですわ」


「様式美です」海老名は真顔で頷いた。「ですが、様式美が三十人ぶん重なると、たぶん、事故です」


 俺は天井を仰いだ。ブラームスの交響曲第一番は、弦が主役の曲だ。あの重く、うねって、地の底から立ち上がってくる旋律。そこが猫の悲鳴で埋まったら、俺たちは二千人の前で、壮大な動物虐待をやることになる。


「一人でいい」詩織が、ピアノの蓋を閉じながら言った。「弦を、本当に鳴らせる人が一人。その人が旋律の芯を、一本の糸みたいに通してくれれば、周りの素人の一音は、ビーズみたいに、その糸に通っていける。……逆に、その糸がないと、いくら数を集めても、ばらばらのまま。床にこぼれて、転がるだけです」


 芯。つまり、また"本物"を一人、掘り出さなきゃならない。


 俺と桃井は、放課後の校舎をもう一周した。結果は散々だった。「バイオリン? できるよ」と胸を張った二年の男子は、よく聞くとエレキベースだった。「小学校のときヤマハに通ってた」という一年の女子は、鍵盤ハーモニカだった。「弦なら任せとけ」と胸を張ったバドミントン部の男は、よくよく聞くと、ラケットに張るガットの話をしていた。張り替えなら三十分でできる、と自慢された。いらない。


「この学校、弦楽器やってた子が、絶滅してるのよ」桃井が名簿を放り投げた。「吹奏楽部が強すぎるから。音楽やりたい子は、全員あっちに吸われるの。で、吹奏楽に、弦はないでしょ。……つまりこの学校じゃ、弦は、生きていけないの」


 転機は、その週の、水曜に来た。


 いや――正確に言えば、転機は、三日も前から、ずっと、部室の前の廊下に、立っていたのだ。俺が、水曜まで、気づかなかっただけで。


 その日も、廊下に、あの男がいた。


 白瀬圭。二年一組。学年一位。校内の全模試で名前が上から動いたことがない、うちの学校の生きた伝説だ。国立大の医学部志望。眼鏡。きっちりと整えられた黒髪。歩き方まで、几帳面な男だ。


 その白瀬が、単語帳を開いて、部室の前の廊下の壁にもたれて立っている。


 三日連続で。


「あのさ」俺は、とうとう声をかけた。「白瀬くん、そこ、埃すごいけど」


「知っています」白瀬は顔も上げなかった。「静かなので」


「静か?」


 部室の中では、ちょうど鯨井がチューバで地響きを起こし、鬼頭がバケツを乱打し、累が断末魔を上げていた。校内でいちばんうるさい場所の、真ん前だ。


「……ここは、集中できるんです」白瀬は単語帳を持ち上げた。「雑音があるほうが、効率が上がるという研究があります」


「研究」


「あります」


 雑音、ねえ。……俺たちの必死の練習も、学年一位さまにかかれば、雑音か。まあ、間違っては、いないけど。


 俺の背後で、詩織が、じっと白瀬の手を見ていた。


 単語帳の背を支えている左手。その指が、動いていた。人差し指、薬指、小指。かすかに、規則正しく、押さえて、離して、押さえて。単語を追う目の動きとは、まったく別のリズムで。


「白瀬くん」詩織が、静かに言った。「今の、指。……ブラームスの、二楽章の、頭のところですよね。三日間、廊下で、聴きながら、弾いてたんですね。頭の中で」


 白瀬の指が、止まった。


 単語帳が、ぱたん、と閉じた。ゆっくりと上げた顔は、耳まで真っ赤だった。学年一位が、廊下で、赤信号みたいになっていた。


「……し、失礼します」


「待った待った待った」


 俺は逃げる白瀬の前に回り込み、鯨井が反対側から壁になり(なぜか上半身裸で)、累が「逃がしませんわ」と黒い日傘を広げて退路を塞いだ。学年一位は、変質者三名に包囲された。


 部室に連行された白瀬は、椅子に座らされて、しばらく黙っていた。その間に、鯨井は桃井から「初対面の相手の前で脱ぐな」と説教され、しぶしぶシャツを着せられていた。白瀬が、その一部始終を、これ以上ないほど冷たい目で、観察していた。それから、観念したように口を開いた。


「小学四年まで、習っていました。バイオリンを」その声は、事務連絡みたいに平坦だった。「中学受験の塾が週四になったので、やめました。以上です」


「以上って」


「六年、触っていません。ですから、僕は戦力になりません。合理的な結論です」白瀬は眼鏡を押し上げた。「それに、僕は医学部志望です。この時期に部活を始めるのは、控えめに言って、自殺行為です」


「じゃあ、なんで三日も廊下にいたんだ」


 白瀬の口が、ぴたりと閉じた。


 しばらく、部室は静かだった。鬼頭がスティックを弄びながら、にやにやしていた。海老名が「三日間で通算四時間十二分です」と余計な計測結果を発表した。「初日は下校時刻まで動きませんでした」


 俺は、棚から一挺のバイオリンを取り、白瀬の前に差し出した。


「一回だけ。鳴らしてみてくれないか」


「お断りします」


「頼む」


「合理的でない要求には応じません」


 完全な鉄壁だった。俺は二回、正面から弾き返された。


 そのとき、詩織が、俺の横をすっと通って、白瀬の前に立った。そして、たった一言だけ言った。


「白瀬くん。聴きたい」


 白瀬は、バイオリンを、受け取った。


「……一回だけです」


 早い。俺は思った。今のは、いくらなんでも、早すぎないか。俺、五分粘ったんだけど。


 鬼頭が俺の肩を叩いて、「どんまい」と言った。累が「まあ」と両手を頬に当てて、なにかとんでもなく面白いものを見つけた顔をしていた。桃井は無言で天井を見ていた。俺だけが、状況を分かっていなかった。


 白瀬が、バイオリンを構えた。


 それだけで、部室の空気が変わったのが、素人の俺にも分かった。顎の当て方。左手の角度。肩の落とし方。それは、六年前に子どもがやめた形じゃなかった。体が、勝手に、正しい場所に収まっていく形だった。


 弓が、下りた。


 最初の音は、ひどかった。かすれて、揺れて、途中でざらついた。白瀬の眉が険しくなる。二音目、三音目——指が、明らかに、体より遅れていた。白瀬は小さく舌打ちをして、弓を持ち直した。


 四音目から、違った。


 音が、通った。細くて、まだ頼りなくて、六年ぶんの錆が乗っていたけれど、それは間違いなく"弦の音"だった。空気を切るんじゃなく、空気を撫でて、伸びて、部室の壁まで届いて、そこでゆっくり溶けた。


 誰も、口を利かなかった。鯨井が、シャツを脱ぐのも忘れて、口を開けていた。


 白瀬は、四小節ほど弾いて、ぴたりと止めた。


「……ひどいものです」白瀬は、弓を下ろした。声が、震えていた。「六年前の自分に、負けています。こんな音では——」


 そこで、言葉が途切れた。


 白瀬は、バイオリンを抱えたまま、長いこと、動かなかった。ネックを握る左手に、指の先が白くなるほど、力がこもっていた。眼鏡の奥の目が、何かを必死に計算するみたいに、揺れて――でも、その計算は、たぶん、いつまでも、合わなかった。


「……すみません。少し、取り乱しました」


 取り乱してなど、いなかった。姿勢は、定規みたいに、まっすぐなままだった。ただ、声だけが、少し、掠れていた。桃井が、黙ってティッシュの箱を差し出し、白瀬は「不要です」と、几帳面に、押し返した。


 それから、ぽつりと言った。


「僕、あの日、自分でやめると言ったんです」


 誰も、遮らなかった。


「母は、続けてもいいと言いました。でも、塾と両方は無理だと分かっていたので、僕が、自分で、やめますと言いました。……賢い選択でした。実際、志望校に受かりましたし。好きなものを諦められるのが、大人になるということだと思っていました」


 白瀬は、膝の上のバイオリンを見た。


「バイオリンをやめた、あの日の選択は、正しかった。……六年間、ずっと、そう思ってきたんです。一度も、疑わずに。なのに、この学校に来て、廊下の向こうから、めちゃくちゃな音が聞こえてくるようになって」白瀬の口元が、少しだけ、歪んだ。「……ひどい音でした。本当に、ひどい。下手で、ずれていて、聴くに堪えなくて。なのに、通るたびに、足が止まるんです。三日目には、単語帳を持って立っていました。自分でも、意味が分かりません」


「意味なんか、いいだろ」俺は言った。「白瀬くんの足が、勝手に止まったんだ。それが答えだよ」


「非論理的です」


「うん。でも当たってる」


 白瀬は、しばらく俺を睨んだ。それから、眼鏡をかけ直して、鞄からノートを出し、恐ろしい速さで何かを書き始めた。


「……条件を提示します」


「え」


「一、週の練習参加は、火・木・土の三日、一日九十分まで。二、模試の判定がA判定から落ちた時点で、即日退部。三、直前期の一か月は、完全に離脱します」白瀬はノートを破いて、俺に突きつけた。「これ以外は、認めません。合意しますか」


 契約書だった。学年一位の、鬼のような契約書だった。


「合意する」俺は即答した。


「即答しないでください。読んでから合意してください」


「読んだ。ぜんぶ守る」


「……なら、いいです」


 白瀬圭は、ノートを閉じ、姿勢を正して、深々と頭を下げた。


「白瀬圭です。よろしくお願いします。……申し遅れましたが、僕は、両立という言葉が、この世でいちばん嫌いです」


「なんで」


「あれは、たいてい、どちらも中途半端な人間が、言い訳に使う言葉だからです。両立って、要するに、"どっちも、そこそこ"って意味でしょう」白瀬は眼鏡の奥で、初めて、ほんの少しだけ笑った。「僕は、そこそこ、が嫌いです。だから、両立は、しません。——両方で、勝ちます」


 部室が、わっと沸いた。鯨井が「かっけえ!」と叫んでシャツを脱ぎ、累が「これぞ滅びに抗う者の宣言ですわ」とスケッチブックを取り出し、鬼頭が「うるせえ、リズムが乱れる」と大太鼓を一発鳴らした。


 九人目。


 これで、揃った。心臓と、背骨と、歌と、そして——弦の、芯。


 騒ぎが収まったあと、俺は、ふと気になっていたことを、聞いてみた。


「なあ。白瀬くんが、廊下で、頭の中で弾いてたっていう"二楽章"って……どんな曲なんだ?」


「……言葉で説明するのは、難しいです」と、詩織。


「なら」春名が、そっと、トランペットを構えた。「……こう、です」


 静かな、歌だった。悲しいのに、あったかい。夕暮れの部室に、その旋律は、驚くほど、よく似合った。吹き終わった春名は、みんなの視線に気づいて、真っ赤になって、小さくなった。……説明としては、反則だと思う。


「……これを、あの騒音の廊下で、単語帳をやりながら、頭の中で弾いてたのか」俺は、白瀬を見た。「相当、好きなんだな。バイオリン」


「データにないことは、答えかねます」白瀬は、眼鏡を押し上げた。耳が、少し、赤かった。


 その日の帰り道は、たまたま、詩織と二人きりだった。夕暮れの、潮の匂いのする道を、並んで歩きながら、俺は聞いてみた。


「なあ。白瀬くん、なんで詩織の一言だけで、あっさり折れたんだ?」


「知りません」


「あれ絶対、俺のときと態度が」


「知りません」詩織は歩調を速めた。耳が、少しだけ赤かった。誰かに向けられる"特別"の話は、彼女には、居心地が悪いらしかった。それとも、赤いのは、別の理由なのか。「……須賀くんは、そういうところ、本当に、鈍いです」


 どういうところだよ。白瀬くんのことか。それとも――いや、分からん。


 俺が首をひねっていると、後ろから鯨井が「気づいてねえのお前だけだぞ!」と大声で言い、桃井が「言うな」と脇腹に肘を入れた。累が扇子の陰で「青春ですわ」と目を細めていた。


 俺だけが、ずっと、分かっていなかった。


 ——だが、その浮かれた空気は、次の日の朝、桃井が持ってきた一枚の紙で、あっさり吹き飛んだ。


 彼女は、青い顔で、職員室から走ってきた。息が上がっていた。


「律。……大貝ホール、無理かも」


 その紙には、市の文化課の判子が押されていた。


「取り壊し前の、最後の日。あそこ、もう、押さえられてる」桃井は言った。「花森高校吹奏楽部。——鷲尾たちの、定期演奏会」



### 第八章 二千人


 その紙は、たった一行で、俺たちの半年を潰しにきていた。


 《花森市民会館 大ホール/十一月十四日(土)・十五日(日)/花森高等学校吹奏楽部 第三十二回定期演奏会》


「一年前に押さえてる」桃井が、机に紙を叩きつけた。「文化課に確認した。手続きに不備はゼロ。あいつら、毎年この時期に、あのホールでやってんの。三十二回。……つまり三十二年、あそこが定演の場所だったってこと」


 俺は、その日付を、何度も読んだ。読んでも変わらなかった。


「取り壊し前の、最後の土日」海老名が静かに言った。「大貝ホールが客を入れる、最後の週末です。……そこは、もう、埋まっています」


 部室が、しんとした。誰かが小さく笑った。乾いた笑いだった。


 ――ああ、そうか。俺たちは、あの日、誰もいないホールで勝手に誓っただけだ。世の中は、俺の誓いなんかとは無関係に、一年も前から、粛々と予定を組んでいた。


 俺は立ち上がって、音楽室に向かった。


「話がある」


 四十人の視線が、一斉に俺に刺さった。鷲尾は譜面台から顔も上げずに、「まだ生きてたのか、オーケストラごっこ」と言った。


「十一月の、大貝ホール」


「ああ、それか」鷲尾はやっと顔を上げた。涼しい顔だった。「悪いな。先に取った」


「どかしてくれとは言わない」俺は言った。「でも、なんで、あそこなんだ。鷲尾くんたちなら、県のホールでも、もっといい音のところ、いくらでも借りられるだろ」


 鷲尾の指が、譜面の上で止まった。


 しばらく、彼は黙っていた。四十人の部員が、部長の背中を見ていた。


「……音は、悪いよ」鷲尾は言った。「あそこ、天井が低くて、後ろが死ぬ。冷房もうるさい。今どき、あんな古い箱で定演やる学校なんて、うちくらいだ」


「じゃあ」


「三十二年だ」鷲尾は、俺の言葉を切った。「うちの初代の先輩から、去年の代まで、全員、あの舞台に立った。俺も一年のとき、あそこの袖で震えてた。あの、緞帳の匂いも、床の軋みも、全部覚えてる。……あそこが無くなるって聞いたとき、うちの部で泣いた奴が、何人いたと思う?」


 俺は、何も言えなかった。


 この男は、俺の敵じゃなかった。俺と、同じ側の人間だった。あのホールで、ちゃんと、最後を締めくくりたい、という側の。……ただ、動くのが、俺より、一年、早かっただけだ。


「……柄にもなく、湿っぽい話をしたな。忘れろ」鷲尾は、ふっと息を吐いて、また涼しい顔に戻った。「一つだけ、譲ってやってもいい。開演前の三十分。前座だ。ロビーでも、舞台でもいい。二十分やるなら、二十分くれてやる」


 音楽室の空気が、ざわりと動いた。


 悪くない話だった。いや、客観的には、破格の譲歩だった。あの舞台に、立てる。二千人の前で、鳴らせる。……もっとも、二十分では、四十五分あるブラームスは、第一楽章すら、鳴らしきれない。でも、俺が首を横に振った理由は、そこじゃ、なかった。


「それは」俺は、自分でも意外なくらい、静かな声を出していた。「俺たちが、満席にしたことには、ならない」


 鷲尾の眉が、動いた。


「前座の客は、鷲尾くんたちが呼んだ客だ。俺たちの音を聴きに来た客じゃない。……あのホールの最後の夜に、二千人を"俺たちが"呼ぶって、俺、決めたんだ。あそこで、たった一人でピアノ弾いてた奴の前で」


 俺の後ろで、詩織が、息を呑む音がした。


 長い沈黙のあと、鷲尾は、初めて薄笑いを消した。


「……ばかだな、お前」


「よく言われる」


「勝手にしろ」鷲尾は譜面に目を戻した。「言っとくが、俺は手加減しない。うちの定演は、二日で、三千人入る。あの二千席のホールですら、一日じゃ、埋めきれたことがない数だ。花森でいちばん客を呼べるのは、三十二年前からうちだ。——お前らが、どこで、誰を呼ぶつもりか知らないが」


 音楽室を出た廊下で、桃井が「よく言った」と俺の背中を叩き、直後に「で、当てはあんの?」と真顔で聞いた。


 当ては、なかった。


 その日の夕方、俺は、藁にもすがる思いで、立花さんに電話をかけた。定演のことを話すと、受話器の向こうから、意外なほど、のんきな声が返ってきた。


「知っとるよ。吹奏楽部の定演は、毎年のことだ。四十年、あそこで働いとって、知らんわけがなかろう」


「し、知ってたんですか!? だったら、なんで――」


「律。わしはな、はなから、十四日や十五日の話だとは、思っとらんかった」立花さんは、静かに言った。「お前が誓った"最後の日"ってのは、客を入れる、最後の営業日のことか? ……それとも、あのホールが、ほんとうに、息を引き取る日のことか」


「……え?」


 言っている意味が、分からなかった。最後の営業日と、息を引き取る日? 同じことじゃ、ないのか。取り壊しの前に客を入れる、最後の週末。それが、最後の日だろう。それ以外に、何がある?


「あの、立花さん。それ、どういう――」


「ホールの最後ってのはな、貸館のカレンダーには、載っとらんのだよ。……まあ、調べてみることだ」


 それだけ言って、なぜか楽しそうに、電話は切れた。……なんだよ、それ。謎かけか。


 その謎を解いたのは、その夜の桃井だった。


 深夜零時過ぎ、俺のスマホが鳴った。市のホームページのスクリーンショットが、五枚連続で送られてきた。


《花森市民会館 閉館記念式典のお知らせ》

《日時 十一月十六日(月)午後六時》

《会場 大ホール》


「……十六日?」


 俺は、飛び起きた。


 定期演奏会は、十四日と十五日。閉館式典は、その翌日の、十六日。


 ――最後の夜は、まだ、空いていた。


 次の日の放課後、俺たちは市役所の四階、文化課の窓口の前に並んでいた。


 控えめに言って、異様な集団だった。ゴスロリの一年生が黒い日傘を差し(室内で)、金髪パーマの不良が壁にもたれて舌打ちし、日焼けした巨漢が「暑い」と言ってシャツのボタンを外し始め(桃井が全力で止め)、眼鏡の理系がノートパソコンを開き、学年一位が資料をクリップで綴じ、その全員の先頭に、緊張で顔が固まった俺が立っていた。


 窓口の職員が、あからさまに、後ずさりした。


「――で、閉館記念式典で、高校生が、交響曲を、演奏したい、と」


 出てきたのは、文化課長の門脇さんという人だった。四十代半ば。にこやかで、腰が低くて、そして一ミリも動かなそうな人だった。


「はい」


「素晴らしい熱意ですね」門脇さんは、優しく微笑んだ。「本当に、素晴らしい。若い人が地域の文化財に関心を持ってくれるのは、市としても大変ありがたい。ええ、本当に」


 そう言いながら、門脇さんの視線は、俺の肩越しに、後ろの連中の上を、ゆっくりと、一往復した。……その目が、雄弁に、語っていた。この子たちが? 交響曲を? ご冗談を。口元の笑みは、一ミリも、崩れていなかった。むしろ、崩れていないことが、いちばんの返事だった。大人が、本気にしていない相手にだけ向ける、あの、完璧に親切な顔だった。


 褒め言葉が三回続いた時点で、俺は嫌な予感がした。


「ただですね、式典というのは、こう、次第が決まっておりまして」門脇さんは、次第表を広げた。「市長挨拶、来賓祝辞、感謝状の贈呈、テープカット。所要、約六十分。……交響曲というのは、その、どのくらい」


「ブラームスの第一番は」白瀬が即答した。「演奏時間、約四十五分です」


「四十五分」門脇さんの笑顔が、少しだけ硬くなった。「式典と、同じ長さですね」


「式典を、圧縮できませんか」海老名が真顔で言った。「テープカットは、物理的には三秒で終わります」


「いや、そういう問題では、なくて、ですね」


 門脇さんは、いくつもの理由を、丁寧に、順番に並べた。前例がないこと。式典は市の公式行事であること。音響設備の管理者がすでに引き上げていること。安全管理の問題。取り壊し工事の日程。学校側の承認が要ること。予算の裏付けがないこと。


 どれも、正しかった。腹が立つくらい、一つ残らず、正しかった。


「それにね、須賀くん」最後に、門脇さんは、少しだけ声を落とした。それは初めて、大人が本音を言う声だった。「式典の来場見込み、何人だと思う?」


「……」


「八十人だ。市の職員と、来賓と、あとは近所の常連さんが少し。二千席のホールに、八十人」門脇さんは、次第表を閉じた。「あのホールの最後の姿が、がらがらの客席で四十五分の交響曲、というのはね。……先生には、悪いと思ってるんだよ、私も」


「先生?」


「立花さんだよ。四十年、あそこの舞台にいた人だ」門脇さんは、窓の外を見た。「ホールに、最後まで、いい顔をさせてやりたいのは、私も同じなんだ。だからこそ、失敗する企画には、判子は押せない」


 ――失敗する企画。


 その言葉が、腹の底に、重く沈んだ。


 沈黙を破ったのは、意外な人物だった。


「門脇さま」


 黒い日傘が、しゃら、と鳴った。累が一歩前に出て、優雅に一礼した。窓口の職員が、また後ずさりした。


「一つだけ、伺わせてくださいまし。あのホールは、四十年のあいだ、何度、満席になりましたの?」


「……え?」


「二千の席が、一つ残らず埋まった夜。何度、ございました?」


 門脇さんは、口を開けたまま、答えられなかった。


「わたくし、調べましたの」累は、うっとりと目を細めた。「開館二年目の、市民合唱祭。それきりですわ。四十年で、たった一度。あとはいつも、どこかが空いていた。……あのホールは、四十年、満たされないまま、死んでいくのですわ」


 文化課の空気が、しんとした。


「がらがらの客席で最後を迎えさせるのが忍びない、と仰いましたわね」累は、日傘を畳んだ。「わたくしたちが申し上げているのは、その逆ですの。——最後に一度だけ、あの子に、満席を見せてやりたいんですのよ」


 誰も、何も言わなかった。俺は、この変人に、生まれて初めて、心から感謝した。


 ……感謝すると、同時に、背筋が、すっと寒くなった。累のやつ、市の偉い人の前で、堂々と、宣言してしまったのだ。俺たちが、あの二千の席に、満席を見せてやる、と。つまり、これから俺たちは、本当に、二千人を、集めなければならない。感謝の隣に、二千人ぶんの重圧が、ずしりと、のしかかっていた。


 門脇さんは、長いこと、腕を組んでいた。それから、深い溜め息をついて、机の引き出しから、一枚の用紙を出した。


「……市民提案制度、というのがあってね」


 桃井の目が、光った。


「市民から一定数の賛同署名を添えて提案があった場合、文化課は審議しなければならない。形骸化してて、ここ十年、誰も使ってないけどね」門脇さんは、用紙を滑らせた。「必要署名数は、二千。市の人口の、一パーセントだ」


 二千。


 偶然じゃない、と俺は思った。あのホールの、席の数と、同じだ。


「締め切りは、八月三十一日。それを過ぎると、工事の入札日程に間に合わない」門脇さんは、ようやく、少しだけ意地の悪い顔をした。「……つまりね、須賀くん。君たちは、演奏する前に、二千人を、集めなきゃならない」


 頭の中で、ゆっくり、整理した。……壁は、二枚、あるんだ。


 一枚目は、署名の二千。八月三十一日までに、二千筆。これが集まらなければ、そもそも、式典の舞台に立つ資格すら、もらえない。


 二枚目は、客席の二千。十一月十六日の夜、二千人の聴衆。署名が集まって、演奏が許されたとしても、当日、席が埋まらなければ――俺の誓った"満席"には、ならない。


 署名の二千人が、そのまま全員、聴きに来てくれる保証なんて、どこにもない。……どっちの二千が欠けても、駄目なんだ。


 俺たちは、市役所の階段を降りながら、しばらく黙っていた。


 夕方の風が、平べったい町の向こうから吹いてきて、うっすら潮の匂いがした。


「三か月で二千筆」白瀬が電卓を叩いた。「一日あたり、約二十二筆。九人で割ると、一人、一日、二、三筆。……達成不可能な数字ではありません」


「そういう問題じゃねえだろ」鬼頭が舌打ちした。「街で紙持って突っ立ってる高校生に、誰がサインするんだよ。宗教だと思われて終わりだ」


「僕もそう思います」海老名が頷いた。「無名の署名活動の平均獲得率から逆算すると、必要な声かけ回数は、およそ四万回です」


「四万」


「はい。ですから、方法を変えるべきです」海老名は、いつもの卵みたいな顔で、俺を見た。「人は、紙にはサインしません。……音になら、するかもしれません」


 俺は、足を止めた。


 鯨井が「どういうことだ?」と首をひねり、桃井が「あ」と声を上げ、詩織が、静かに、まっすぐ俺を見た。


「――路上で、やろう」俺は言った。「聴かせて、集める。主題の十六小節しか繋がらない、下手くそな俺たちで」


「正気?」桃井が言った。


「たぶん、正気じゃない」


 俺たちは、顔を見合わせた。それから、なぜか、全員が笑い出していた。累が「素敵。滅びゆくものの、最後の行進ですわ」と目を輝かせ、鯨井が「よっしゃあ!」と叫んでシャツを脱ぎ、白瀬が「公然わいせつは署名活動の妨げになります」と冷静に指摘した。


 二千の席。二千の署名。


 その夏、俺たちは、まだ一度も、最後まで曲を演奏できたことがなかった。



### 第九章 路上


 七月最初の土曜日、午前十時。花森駅の南口ロータリー。


 俺たちは、生まれて初めて、街に出た。


 桃井は、まず警察署で、道路使用許可をもぎ取ってきた。あとで聞いた、窓口でのやりとりが、こうだ。


 警察官「未成年の署名活動なんて、前例がねえ」


 桃井「あります。ここに、前例の資料が」


 警察官「……君、何年生?」


 さらに市の広報課に問い合わせ、駅前商店会の会長のところへは、菓子折りを持って三回通った。書類の魔術師は、この夏、完全に本気だった。


 そして俺たちは、折りたたみの机と、模造紙で作った看板と、廃部の棚から持ち出した楽器一式を、駅前に並べた。


 看板には、桃井の几帳面な字で、こう書いてあった。


《大貝ホールの最後の夜に、演奏させてください。署名にご協力を》


 その横に、累が勝手に描き足した黒バラのイラストが、全体を一気に不吉にしていた。


「では、行くぞ」


 俺は手を挙げた。鬼頭がスティックを鳴らして、四つ数える。


 ワン、ツー、スリー、フォー。


 ――ブラームス、交響曲第一番。第四楽章の、いちばん有名な、あの、歌うような主題。


 最初の奇跡の夜には、八小節しか繋がらなかった。それが、この二か月の練習で、どうにか、主題まるごと――十六小節、通せるようになっていた。俺たちの、持ち歌の、すべてだ。


 なぜ、数ある中から、第四楽章の主題なのか。街頭用の演目を決めたのは、例によって、理屈の二人だった。


「第四楽章は、全体で、約十七分あります。しかも、あの主題が出てくるまでに、暗い序奏が、五分、続きます」と白瀬。「往来で、五分の暗闇は、自殺行為です」


「なので、序奏は全部カットして、主題の十六小節だけを、繰り返します」と海老名。「曲の、いちばんおいしいところだけです。弁当でいえば、から揚げだけを詰めた、から揚げ弁当です」


「あんたの喩え、初めて分かりやすいわね」と、桃井が言った。


 鳴った。


 三十人はいない。この日集まれたのは、俺たち九人と、寄せ集めの部員のうち十二人だけだ。だから穴だらけで、いくつもの一音が抜けていて、それでも鬼頭のリズムと、詩織のピアノ(電子ピアノを鯨井が担いできた)と、白瀬のバイオリンの芯があって、確かにそれは、ブラームスの、断片だった。


 十六小節が、終わった。


 駅前は、何事もなかったみたいに、動いていた。


 誰も、立ち止まらなかった。


 バス待ちの列は、こっちを見なかった。買い物客は、俺たちを避けるように、少し外側を歩いた。塾帰りらしい小学生が二人、指を差して笑って、走って行った。パチンコ屋の音楽のほうが、俺たちより、ずっと大きかった。


「……もう一回」


 俺たちは、もう一回やった。もう一回。もう一回。


 昼を過ぎた頃には、日差しが真上から俺たちを焼いていた。累は日傘の下で優雅に汗をかき(黒いフリルの内側の温度は想像したくなかった)、鯨井は三十分でシャツを脱ぎ捨てて交番から職務質問を受け、白瀬は九十分だけ現れて折りたたみ椅子で英単語をやりながら仕切り、時間が来るときっかり撤収し(例の契約は、署名活動にも適用されるらしい)、海老名は通行人の歩行速度をノートパソコンで記録していた。


 午後四時。俺たちは机の前に集まって、署名用紙を数えた。


 六筆。


 うち一筆は立花さん。一筆は桃井の母親。一筆は「がんばれよ兄ちゃん」と言ったほろ酔いのおじさんで、住所欄が「地球」になっていた。


「……有効、三筆」白瀬が、電卓を置いた。「一日あたり必要数、二十二筆。達成率、十三・六パーセント」


「言うなよ」桃井が机に突っ伏した。


 俺たちは、しばらく、誰も口を利かなかった。


 海老名が、ノートパソコンを開いて、いつもの卵の顔で言った。


「データが取れました」


「聞きたくない」


「聞いてください。今日、僕たちの前を通ったのは、推計で千九百人です」海老名は画面を回した。「そのうち、こちらに顔を向けた人は、二百四十人。足を止めた人は、十一人。平均の停止時間は、〇・八秒です」


「〇・八秒」


「はい。人は、〇・八秒で、"聴くか、聴かないか"を決めています」海老名は淡々と続けた。「そして、僕たちの十六小節は、およそ一分あります。……つまり僕たちは、〇・八秒で勝負がつく戦いに、一分の武器で挑んでいます。構造的に、負けます」


「じゃあ、どうしろってんだよ」鬼頭が苛立った声を出した。「もっと上手くなれって? 二か月で?」


「無理です」


「即答すんな」


「上手さでは勝てません。僕たちは下手ですから」海老名は、初めて、ほんの少しだけ身を乗り出した。「ですから、勝つ土俵を変えるべきです。……人が〇・八秒で立ち止まるのは、"上手い音"ではありません。"自分に関係のあるもの"です」


 その意味が分かったのは、それから三十分後、まったくの偶然からだった。


 撤収の準備をしていた俺の足元に、小さな影が立った。


 五歳くらいの女の子が、鬼頭が床に置いたタンバリンを、じっと見ていた。母親が「ごめんなさいね」と手を引こうとして、その手を振りほどいて、女の子は言った。


「……やっていい?」


 部室なら、誰かが「駄目だ」と言っていたかもしれない。だがそのとき、いちばん近くにいたのが、よりによって鬼頭だった。


 停学記録校内一位の金髪の不良は、しゃがみ込んで、タンバリンを女の子に差し出した。


「一発だけな」低い声で言った。「合図したら、思いっきりいけ」


 女の子は、こくん、と頷いた。


 鬼頭が、スティックで四つ数えた。俺たちは、慌てて楽器を構えた。十六小節。その、ちょうど真ん中あたりで——鬼頭が、顎で合図した。


 シャン、と、タンバリンが鳴った。


 思いきりずれていた。半分、遅れていた。台無しだった。


 なのに、女の子は、振り返って、母親に向かって、太陽みたいな顔で笑った。


「わたし、いま、鳴らした!」


 ――そのとき、俺の背中を、何かが走り抜けた。


 俺は、看板を裏返して、油性ペンを掴んだ。そして、模造紙に、でかい字で書いた。


《あなたの一音を、ください》

《この曲は、一人が一音だけ鳴らせば完成します。二千人ぶんの一音を、集めています》


「律、なにを」


「一人一音だろ」俺は言った。自分の声が、少し震えていた。「俺たちがやってるのは、それだ。……なら、通りすがりの人にも、できるはずだ」


 その日の夕方から、俺たちのやり方は、変わった。


 曲を、聴かせるのをやめた。


 代わりに、通行人に、楽器を渡した。タンバリン、トライアングル、鈴、鍋の蓋(鯨井の私物)。そして詩織が、その場で色と番号の紙切れを書いて渡す。「あなたは、ここです。緑の三番。合図したら、一回だけ」


 所要時間、四十秒。


 サラリーマンが、鈴を一回鳴らした。買い物帰りの主婦が、タンバリンを叩いた。塾帰りの小学生三人が奪い合って、結局全員鳴らして、全員ずれた。ずれるたびに、周りで見ていた人が笑った。笑い声が、人を呼んだ。


 人が、止まった。


 自分が鳴らした一音が、へたくそなブラームスの中に、確かに混ざる。その瞬間、みんな、同じ顔をした。あの女の子と、同じ顔だ。


 ――わたし、いま、鳴らした。


 演奏が終わると、その人たちは、たいてい自分から、机のほうへ歩いてきた。桃井が「署名、お願いできますか」と言うより先に、ペンを取った人も、何人もいた。


 その日の最終集計は、四十七筆だった。


 俺たちは、駅前で、ばか騒ぎをした。四十七。一日の必要数の、倍以上。鯨井が脱ぎ、白瀬が止め、累が「滅びゆく者たちの祝祭ですわ」と黒い日傘を回し、鬼頭が「うるせえな」と言いながら、いちばん長く、その辺のバケツを叩いていた。


 そこから、地獄の夏が始まった。


 平日は放課後の駅前で二時間。土日は朝から夕方まで。場所を変え、商店街、スーパーの軒先、市民プールの前、盆踊りの会場の隅。桃井が許可を取り、海老名が人通りを予測し、白瀬がスケジュールを分刻みで組んだ。


 七月の終わりに、三百二十七筆。


 八月十日に、八百六十筆。


 誰もが、真っ黒に日焼けした。累だけは、日傘と長袖のせいで、真夏なのに幽霊みたいに白かった。「わたくし、日光は主義に反しますの」と言い張り、代わりに脱水で二回倒れて、二回とも鯨井に担がれて日陰に運ばれた。鯨井は運びながらシャツを脱いだ。何の役にも立たなかった。


 白瀬は、宣言通り、火・木・土の九十分しか来なかった。九十分たつと、どんな盛り上がりの最中でも、きっかり帰った。だがその九十分の集中力は異常だった。来ない日の分まで、資料も、シフト表も、全部作ってから帰った。ある日、俺がふと「勉強、大丈夫か」と聞いたら、白瀬は妙な顔をした。


「……それが、不思議なんです」白瀬は、眼鏡を押し上げた。「今月の模試、上がりました」


「え」


「以前は、一日十時間、机の前にいました。座ってはいました。でも、たぶん、半分は、座っていただけです」白瀬は少し言いにくそうにした。「今は、一日の真ん中に、部活の九十分が、どんと居座っているので……勉強に使える時間が、目に見えて、減りました。減ると、残った一分一分が、怖くなるんです。……怖いと、進みます」


「なんだそれ」


「非論理的です」白瀬は真顔で言った。「ですが、事実です」


 そして、八月十五日。


 俺たちは、壁にぶつかった。


 白瀬が、集めた署名用紙の全数チェックを終えて、青い顔で戻ってきたのだ。


「……報告があります」白瀬は、机に用紙の束を二つに分けて置いた。「市民提案の要件は、"花森市に住所を有する者"です。市外の署名は、無効です」


 左の山が、右の山より、ずっと低かった。


「現在の総数、千百四筆。うち、市外在住が、三百九十一筆」


 部室が、静まり返った。


「有効署名、七百十三筆」


 夏休みは、あと二週間。締め切りまで、十六日。


 残り、千二百八十七筆。一日あたり、八十筆。


 これまでの最高記録が、一日七十二筆だった。それも、盆踊りの日の、たまたまの記録だ。


「……駅前じゃ、無理ね」桃井が、乾いた声で言った。「もう、あの辺の花森市民、だいたい書いた」


「もっと人が集まる場所は」


「この街に、そんな場所、ない」


 誰も、何も言えなかった。扇風機の音だけが、部室を回っていた。


 そのとき、詩織が、ぽつりと言った。


「……鳴らしてもらうだけじゃ、もう、駄目なんだと思います」


 全員が、彼女を見た。


「あの人たちは、"参加した"から書いてくれた。でも、それは四十秒の思い出です。千人以上の人に、あのホールのために、住所と名前まで書かせるには」詩織は、まっすぐ俺を見た。「一回、本気で、"聴かせない"と駄目です。……十六小節の主題だけじゃなく、ちゃんとした音楽を。人の足を、止めるんじゃなくて、動けなくするような」


「それって」


「歌です」詩織は言った。「わたしのピアノでも、白瀬くんの弦でもない。……"歌"を、聴かせるんです」


 部室の隅で、それまで一言も喋っていなかった春名が、びくりと肩を震わせた。


 全員の視線が、そこに集まった。


 春名は、青ざめた顔で、うつむいていた。その背中が、みるみる、小さく丸まっていくのが分かった。肩をすぼめて、首をすくめて、あの、折り紙みたいに畳まれた形に、戻っていく。


「……む、無理です」


 蚊の鳴くような声だった。


「わたし、人前だと……あの、部室なら、みんななら、大丈夫なんです。でも、知らない人が、いっぱいいるところで、一人で吹くのは……無理、なんです。すみません。ほんとうに、すみません」


 春名は、立ち上がって、頭を下げて、部室を出て行った。


 ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。


 俺は、追いかけなかった。追いかけて、何を言えばいいのか、分からなかった。


 ――「春名さんがもし失敗しても、たぶん、誰も気づかない」。


 俺は、あの日、そう言って彼女を口説いた。その俺が、今、彼女に、たった一人で二千人ぶんの重さを背負ってくれと言おうとしている。



### 第十章 緞帳


 春名は、二日、部室に来なかった。


 三日目の夕方、俺は彼女の家の近くの、小さな公園でその背中を見つけた。ブランコに座って、地面を見ていた。近づいても、顔を上げなかった。


「頼みに来たわけじゃない」


 俺が言うと、春名の肩が、少しだけ動いた。


「うちの部の、いちばん最初の約束、覚えてる?」俺は、隣のブランコの鎖に手をかけた。「一人が、一音だけ。誰も、一人で全部を背負わない。……それが、俺たちのやり方だ」


 春名は、黙っていた。


「なのに俺は、春名さんに、二千人ぶんを一人で背負ってくれって言おうとした。それは、うちのやり方じゃない」俺は言った。「だから、頼まない。この件は、俺たちで、どうにかする」


「……でも」春名の声は、掠れていた。「わたしが、吹けたら、済む話です。みんな、分かってるのに、誰も言わないだけで」


「済まないよ」


 俺は、本気でそう思っていた。


「春名さんが無理して吹いて、それで署名が集まって、それで本番までいったとして。……そんなの、たぶん、途中でぜんぶ壊れる。うちは、そういう部じゃないんだ」


 春名は、長いこと黙っていた。それから、ぽつりと言った。


「須賀くんは、ずるいです」


「え」


「そう言われると、……よけいに、吹きたくなるじゃないですか」


 彼女は、初めて顔を上げて、泣きそうな顔で、少しだけ笑った。


 残り、十三日。


 その日の夜、部室の電話が鳴った。この部室に電話があること自体、俺はその日まで知らなかった。埃をかぶった黒い受話器の向こうから、聞き慣れた声がした。


「律。門脇を、口説いてきたぞ」


 立花さんだった。


 八月二十二日と二十三日。花森市民会館は、二日間、市民に開放される。《お別れ見学会》。四十年ぶんの写真を並べ、楽屋も奈落も客席も、誰でも自由に見て回れる。市が最後に用意した、ささやかな行事だ。


「二日で、たぶん二千人は来る。あそこを使った奴らが、みんな最後に顔を見に来るんだ」立花さんは言った。「ロビーに、机を一つ、出していい。門脇の許可も取った」


「立花さん、それ」


「それとな」立花さんの声が、少しだけ変わった。「二日目の、閉館三十分前。……三十分だけ、緞帳を、上げてやる」


 受話器を握る手に、力が入った。


「わしはな、四十年、あそこの緞帳を上げ下げしてきた。最後に上げるのは、わしの仕事だ。誰にも文句は言わせん」立花さんは、ふん、と鼻を鳴らした。「舞台の上で、何をやるかは、律、お前らが決めろ」


 八月二十二日。俺たちは、朝八時に、大貝ホールのロビーに机を出した。


 人は、来た。想像していたより、ずっと、来た。


 昔ここで演奏したという白髪の老人。娘の発表会の写真を探しに来た家族。「四十年前、俺はここで告白したんだ」と自慢して奥さんに小突かれるおじいさん。かつてこの舞台で吹いたという、スーツ姿のOBたち。部活帰りらしい、制服姿のどこかの高校生たち。ベビーカーを押した若い夫婦。壁一面に貼られた古い写真の前で、みんな、やたらと長いこと立ち止まっていた。


 俺たちは、一人ずつ、声をかけた。


「このホールの、最後の夜に、演奏させてください」


 署名は、面白いほど集まった。午前だけで、百八十筆。この人たちは、俺たちのために書いたんじゃない。このホールのために書いたのだ。それが、はっきり分かった。


 もっとも、机の周りが常時異様だったことは、認めざるを得ない。


 喪服みたいな黒フリルの累は、この日ばかりは奇跡的に場に馴染んでいて、老婦人に「あなた、このホールの幽霊?」と真顔で聞かれ、「ええ、そのようなものですわ」とうっとり答え、老婦人は納得して帰っていった。鯨井は写真パネルの運搬で大活躍し、三十分に一回シャツを脱ぎ、そのたびに桃井が羽交い締めにした。海老名は来場者数をカウントし、白瀬はこの二日間だけ"契約の特例"を自分に認めて朝から居座り、署名用紙を住所別に即時仕分けし(「市外です」「市内です」「……この方、字が読めません。追跡します」)、鬼頭は入口で仁王立ちしていたら小さい子に泣かれ、本気で落ち込んで、そのあと一日中その子と遊んでいた。


 二日目の夕方、集計が出た。


 有効署名、千八百四十一筆。


 残り、百五十九筆。締め切りまで、八日。


 あと少しだった。あと少しが、いちばん遠いことを、俺たちはこの夏でもう知っていた。見学会は、あと三十分で終わる。この人波が引いたら、次はもう、ない。


「――時間だぞ、律」


 立花さんの声が、ロビーに響いた。


 俺たちは、顔を見合わせた。それから、走った。


 大ホールの扉が開いて、俺たちは舞台に上がった。客席には、帰りかけていた人たちが、何事かと、ぱらぱらと戻ってきた。二百人か、三百人か。二千席の中では、寂しい数だ。それでも、俺が今まで人前で立った、いちばん大きな場所だった。


 緞帳が、ゆっくりと、上がった。


 舞台の袖で、立花さんが、四十年やってきた手つきで、レバーを握っていた。


 舞台の中央には、古いグランドピアノが一台。もう調律もされていない、閉館とともに処分される予定のピアノだ。


 その前に、詩織が座った。


「わたしが、弾きます」


 部室で、そう決めたのは彼女自身だった。春名には、頼まない。ならば、旋律を歌えるのは、自分しかいない。詩織は、そう言って、誰の反対も聞かなかった。


 ――俺は、そのとき、気づいてやるべきだった。


 詩織が最後に人前でピアノを弾いたのは、三年前のコンクールで、途中で手が止まった、あの日だということに。


 詩織が、鍵盤に手を置いた。


 最初の一音が、鳴った。二音目。三音目。ブラームスの、あの旋律が、閉館前のホールに、静かに立ち上がった。客席が、しん、となった。


 ――四小節目で、音が、止まった。


 詩織の手が、鍵盤の上で、止まっていた。


 肩が、震えていた。指が、まったく動かなくなっていた。彼女は必死に、もう一度、指を下ろそうとして、下ろせなかった。客席が、ざわりと揺れた。誰かが「大丈夫かい」と声を上げた。


 あの日と、同じだった。俺が、この誰もいないホールで見た、あの背中と、同じだった。


 俺は、舞台の袖から一歩、踏み出しかけた。


 その俺の横を、風みたいに、誰かが通り過ぎた。


 春名だった。


 トランペットを提げて、彼女は、舞台の真ん中へ、まっすぐ歩いて行った。ピアノの横で立ち止まって、動けない詩織の背中に、そっと手を置いた。


 そして、客席のほうへ、体を、向けた。


 三百人が、彼女を見ていた。


 春名の背中が、伸びた。


 丸めていた背が起きて、肩が開いて、首が上がって、二年半のあいだ折り畳まれていた体が、一枚の紙に戻るみたいに、ほどけていった。二千席の空気を、全部吸い込むみたいな、静かで、途方もなく長い息が、入った。


 ――鳴った。


 トランペットの音が、二千席のホールを、まっすぐに、貫いた。


 俺の腕に、鳥肌が立った。


 部室で聴いた、あの一音とは、まるで別物だった。天井の低い、音の悪い、四十年ものの古い箱。その空気が、丸ごと、震えていた。彼女の一音は、いちばん後ろの、誰も座っていない席まで、届いていた。


 春名は、一人で、旋律を歌った。誰の伴奏もなく。


 その音に、押し出されるみたいに、詩織の指が、動いた。


 和音が、一つ、追いついた。二つ。三つ。震えたままの手で、詩織は、春名の歌の下に、必死で背骨を敷いていった。


 鬼頭が、舞台の床を、スティックで打った。白瀬の弓が下りた。鯨井の低音が、床から立ち上がった。累のチェロが、相変わらずひどい音で、それでも堂々と混ざった。海老名も、桃井も、寄せ集めの部員たちも、それぞれの一音を、置いていった。


 穴だらけの、下手くそなブラームスだった。


 でも、そこには、歌があった。


 演奏が終わったとき、客席は、静かだった。


 それから、拍手が来た。三百人ぶんの拍手は、二千席のホールでは、頼りない音だった。頼りないのに、いつまでも、やまなかった。


 白髪の老人が、立ち上がっていた。ベビーカーの若い母親が、泣いていた。「四十年前に告白した」おじいさんが、大声で「よし!」と叫んだ。


 舞台袖で、立花さんが、緞帳のレバーを握ったまま、動かなかった。


 その日、ロビーの机の前には、列ができた。


 春名は、机の後ろで、ぼろぼろ泣きながら、来る人来る人に頭を下げていた。背中は、また少し丸まっていた。でも、もう、隠す形ではなかった。


 最終集計、千九百四十七筆。


 残り、五十三筆。


 ――そして、そこで止まった。


 次の日も、その次の日も、街に出た。だが、俺たちに書いてくれる花森市民は、もう、あらかた書き終えていた。二十九日、千九百六十一筆。三十日、千九百七十筆。


 残り三十筆で、俺たちは、干上がった。


 八月三十一日。締め切り当日の、朝。


 部室のドアが、乱暴に開いた。


 立っていたのは、鷲尾だった。


 その手に、分厚い署名用紙の束があった。


「四十二人ぶんある」鷲尾は、それを机に放った。「うちの部員と、その家族と、OBだ。市内在住だけ選んである。……足りるか?」


 誰も、声が出なかった。


「な、なんで」


「勘違いするな」鷲尾は、いつもの涼しい顔で言った。「見学会の、あれを聴いた。うちの部員が、何人も、見に行ってたんだ。……帰ってきて、口を揃えて言うんだよ。"あのトランペット、やばかった"って」


 鷲尾の目が、部室の隅の春名に向いた。春名が、びくりと縮こまった。


「入学早々、勧誘を断られた、俺の立場も考えろ」鷲尾は、鼻で笑った。「まあいい。……はっきり言っておく。俺は、お前らを応援してるわけじゃない。あのホールの最後に鳴る音が、下手くそなオーケストラごっこだってのは、正直、今でも我慢ならない」


 彼は、ドアの前で振り返った。


「だから、舞台に上げてやる。上げた上で、二日前の、うちの定演と、聴き比べさせてやる。……逃げるなよ」


 ドアが閉まった。


 部室が、しん、となって——それから、爆発した。鯨井が絶叫してシャツを脱ぎ、累が黒い日傘を振り回し、桃井が「あいつ、ほんっとに素直じゃない!」と叫び、白瀬が電卓を叩いて「二千十二筆。要件充足です」と宣言した。


 俺たちは、その足で、市役所の四階に走った。


 門脇さんは、二千十二枚の紙の束を、一枚一枚、丁寧にめくった。ずいぶん長い時間をかけて、最後の一枚まで見て、それから、静かに判子を出した。


「……見学会のあれ、私も、後ろで聴いてたんだよ」


 彼はそう言って、俺の目を見ないまま、書類に判を押した。


《花森市民会館 閉館記念式典》

《十一月十六日(月)午後六時 開演》

《第二部 演奏 県立花森高等学校 管弦楽部 ブラームス:交響曲第一番 ハ短調》


 本番まで、七十七日。


 俺たちは、まだ、一度も、この曲を最後まで演奏したことがなかった。



### 第十一章 巨人の影


 夏が終わって、秋が来た。


 カレンダーの数字が、一日ずつ、容赦なく削れていった。本番までの残りを数えるのが、朝の日課になった。


 俺たちの毎日は、単純だった。朝、練習。放課後、練習。日が暮れても、練習。旧・管弦楽部の墓場みたいな部室は、いつのまにか、いちばん人の集まる場所になっていた。楽譜も読めない三十人が、詩織の書いた色と番号の紙切れを握りしめて、来る日も来る日も、自分の一音を、置く練習をした。


 鬼頭がリズムを刻む。詩織のピアノが背骨を通す。白瀬の弦が芯を張り、鯨井の低音が土台を敷き、春名のトランペットが、旋律に歌をのせる。その周りに、三十人の、ばらばらだった一音が、少しずつ、貼りついていく。


 いい時は、繋がった。ほんの数十小節、ブラームスが、確かに、鳴った。


 "授業"も、続いていた。秋からの教材は、もっぱら、第四楽章だ。


「主題の前の、暗い序奏の、いちばん深いところで――ホルンが、鳴るんです」ある日の授業で、春名が、めずらしく、自分から手を挙げて言った。その目が、きらきらしていた。「霧が晴れた山の上から、呼びかけてくるみたいな、角笛の旋律が。ブラームスが、大切な人への手紙に、"高い山から、深い谷から、あなたに幾千回も挨拶を送る"って書き添えて、贈った旋律なんです」


「なにそれ。ラブレターかよ」と鯨井。


「ラブレターです」詩織と春名が、同時に言った。


「相手は、クララ・シューマン」詩織が、続けた。「ブラームスの恩人だった作曲家、シューマンの、奥さんです。当時、ヨーロッパでいちばん有名な、ピアニストの一人でした。ブラームスより、十四も年上で……ブラームスは、その人を、生涯、想い続けたんです。想い続けたまま、一生、独身で」


「重っ」と桃井。


「重いんですのよ、ロマン派は」累が、うっとりと、口を挟んだ。「その、決して届かない想いの相手に、山の上から、"あなたに幾千回も挨拶を送る"――ですのよ? そしてその旋律が、この交響曲の、夜明けにも、鳴る。……ああ、滅びと未練の、なんと美しいこと」


「褒めてんのか、それ」


「その角笛が、夜明けの合図なんです」詩織が、鍵盤に、そっと手を置いた。「――選曲のとき、言いましたよね。闇から、光へ。あの、最後の光は、この角笛から、始まるんです」


「それでね。その角笛――ホルンの旋律は」詩織は、そこで、部室の一角を、まっすぐ見た。「鯨井くんに、吹いてもらいます」


「……は?」チューバを抱えた鯨井が、自分の顔を、指差した。「お、俺!?」


「あの旋律は、細切れにできません。一人が、一息で、長く、歌い切らないと、山の呼び声に、ならないんです。とんでもなく、息の続く人じゃないと、吹けない。……この部で、それができるのは、一人だけです」


「ていうか」桃井が、口を挟んだ。「そんなに息が要るなら、鯨井、最初からホルンで良かったんじゃないの? なんで今まで、チューバ?」


「駄目です」詩織と海老名が、ほぼ同時に、首を振った。


「ホルンは、真ん中の音域の楽器です。曲の"床"には、なれません」と海老名。「僕たちの奏法は、チューバの低音が、床として鳴り続けてくれないと、全員の一音の、置き場所がなくなる。……鯨井さんのチューバは、この楽団の、土台です。代わりは、いません」


「その土台の人に、一か所だけ、いちばんきれいな旋律を、吹いてもらうんです」詩織が、続けた。「角笛の間、床は、他のパートで、なんとか支えます。……ほんの数十秒。でも、その数十秒のための特別任務です」


「俺が……ラブレターを、読むのか……」鯨井は、しばらく、口をぱくぱくさせていた。それから、真っ赤になって、立ち上がった。「よし! 吹く! 俺、吹くぞ!」そして、シャツを脱いだ。桃井が「まず座れ」と言った。


 その日から、鯨井は、チューバと掛け持ちで、ホルンの特訓を始めた。水泳部の朝練の前に、河原で、一人で。うるさいと通報されないよう、鬼頭が、例の橋の下の"防音スタジオ"を、譲ってやったらしい。


 闇から、光へ。あの日の詩織の言葉は、練習を重ねるほど、ただの説明じゃなくて、俺たちの、道順になっていった。


 問題は、いい時ばかりじゃない、ということだった。


 九月の終わり、俺たちは初めて、第四楽章を、頭から通しでやってみた。


 ――結果は、地獄だった。


 十六小節目で、後列の誰かの一音が、抜けた。ぽっかりと、穴が空いた。次の小節で、別の誰かが、わずかに遅れた。その乱れが、隣に伝染して、リズムから剥がれて、二十小節目で、全部が、ぐしゃりと崩れた。


「……止め」


 俺の声で、演奏が止まる。しん、とした部室で、俺は、初めて、この奏法の、いちばん怖いところを、思い知っていた。


「一人が、一音を落とすと」海老名が、いつもの卵の顔で、静かに言った。「その穴は、二度と、埋まりません。誰かが代わりに吹くことも、できない。だって、その音は、その一人だけの、持ち場だから」


 ――一人が、欠けたら。その一音は、永遠に、空く。


 海老名が、いちばん最初に言った理屈が、今になって、牙を剥いていた。まだ名前もない、この、俺たちの奏法。四十五分。何百、何千という一音。そのどれか一つが、たった一つでも欠けたら、俺たちの音楽には、はっきりと、穴が空く。そして、その穴は、誰にも、埋められない。


 しかも、本番は、一回きりだ。やり直しは、きかない。


「……無理じゃね?」


 誰かが、ぽつりと言った。寄せ集めの三十人の、いちばん後ろのほうで。


 その一言は、静かに、部室に広がった。無理じゃね。四十五分、一音も落とさず、三十人が。そんなの、プロだって――いや、プロは一人で何十音も受け持てるから、一人がこけても曲は死なない。俺たちは、逆だ。一人がこけたら、その穴は、絶対に、埋まらない。


 その日から、部室の空気が、少しずつ、重くなっていった。


 みんな、自分の一音が、怖くなり始めていた。俺が落としたら。俺のせいで、穴が空いたら。二千人の前で、その穴が、俺のせいだと、ばれたら。


 ――笑って、下手でも鳴らす。あの、ふざけた楽団の空気が、じわじわと、しぼんでいった。


 十月の、ある雨の日。


 その日の通し練習は、これまでで、いちばんひどかった。みんなが、ミスを怖がるあまり、音がどんどん、小さく、縮こまっていった。間違えないように、目立たないように。……その結果、全体が、ぼそぼそと、生気のない、幽霊みたいな音になった。


 春名の歌さえ、その日は、震えて、細かった。彼女の背中が、また、あの折り紙みたいに、小さく畳まれていくのが、遠目にも分かった。


「――こんなの、ブラームスじゃないですわ」


 声を上げたのは、意外にも、累だった。


 いつものゴスロリ姿で、彼女は、床に置いたチェロの横に立って、部室の全員を、ぐるりと見回した。芝居がかった、いつもの口調のはずなのに、その声には、初めて、本気の棘があった。


「みなさん、"落とさないこと"ばかり考えて、演奏していますわね。間違えないように、間違えないように、って。……それ、音楽じゃありません。ただの、地雷原の、そろそろ歩きですわ」


 誰も、言い返せなかった。図星だったからだ。


「ねえ、みなさん。ブラームスが、この曲を書くのに、何年かかったか、ご存じ?」


 累は、答えを待たずに、続けた。


「二十一年ですわ」


 部室が、しん、とした。


「交響曲第一番。たった一曲に、二十一年。……なぜだと思います? 才能がなかったから? まさか。彼は、当代一と謳われた天才でしたわ」累は、うっとりと、けれど、どこか痛そうに、目を細めた。「怖かったんですのよ。彼の、ずっと前を歩いていた、とんでもない巨人が」


「巨人?」俺は、聞き返した。


「ベートーヴェン」


 その名前が出た瞬間、俺の頭の隅で、あの、誰もいないホールの、震えるピアノが、小さく鳴った。――耳の聞こえなくなっていく男が、書いた曲。


「ベートーヴェンという巨人が、交響曲というものを、あまりに高く、完璧に、打ち立ててしまった。その後ろを歩く音楽家は、みんな、怯えましたの。特にブラームスは」累は、胸に手を当てた。「彼、こう言ったそうですわ。『巨人が、いつも自分の背後で、足音を立てて歩いているのが聞こえる。あの足音を聞きながら、交響曲を書くのが、どんな気持ちか、君に分かるか』と」


 巨人の、足音。


 なぜだか、その言葉が、俺の胸に、すとん、と落ちた。


「二十一年、彼は、その足音に怯えて、書いては破り、書いては破り、しましたの。そうしてやっと完成したこの曲を、人はこう言いましたわ。『第四楽章のあの旋律、ベートーヴェンの"歓喜の歌"に、そっくりじゃないか』と」


「……それ、褒めてるのか?」鬼頭が、眉を寄せた。


「嫌味ですわね。巨人の真似だ、と言いたいんですのよ」累は、ふっと笑った。「ブラームスは、むっとして、こう言い返したそうですわ。『そんなことは、ロバでも気がつく』と」


 誰かが、ぷっと吹き出した。張り詰めていた空気が、ほんの少し、緩んだ。


「わたくし、この話が、大好きですの」累は、いとおしそうに、チェロの弦を、指で弾いた。ぽーん、と、間の抜けた音が鳴った。「あの偉大なブラームスでさえ、巨人の足音に、二十一年、怯えたんですのよ。震えながら、それでも、書いた。……なら、わたくしたちが、震えるのは、当たり前ですわ。むしろ」


 累は、部室の全員を、まっすぐ見た。


「震えながら、それでも、でかい相手に挑む。それが、音楽ってものの、いちばん美しいところじゃなくって?」


 しん、とした。


 それから、鯨井が、洟をすすった。「……なんか、よく分かんねえけど、泣けてきた」そして、シャツを脱ぎ始めた。桃井が「今じゃないっつーの!」と、いつもの調子で止めた。


 俺は、笑った。それから、みんなの顔を、見回した。ミスを怖がって、小さく縮こまっていた、三十人の顔を。


「……なあ、みんな」俺は、言った。「穴が空くのが、怖いんだよな。分かる。俺も、怖い」


 誰も、何も言わなかった。


「でも、考えてみろよ。穴が空くのが怖いってことは――そこに、埋めなきゃいけない、自分の音があるってことだ」俺は、言葉を選びながら、続けた。「代わりがいたら、怖くないんだ。誰かが埋めてくれるなら、落としたって平気だ。……俺たちが怖いのは、俺たち一人ひとりが、代わりのいない、たった一つの音を、持ってるからだ」


 春名の、小さく畳まれていた背中が、ほんの少し、動いた。


「怖くていい。震えていい。……ただ、その怖さは、"俺がいないと、この曲は完成しない"っていう、証拠なんだ。誇っていい怖さなんだよ、それは」


 部室が、静かだった。


 やがて、鬼頭が、スティックを、くるりと回した。「――講釈は、もういいだろ」低い声で、にやりと笑った。「怖いなら、身体に叩き込むまで、やるだけだ。もう一回。頭から」


 その日から、また、音が、鳴り出した。


 今度は、縮こまった音じゃなかった。震えていても、まっすぐな音だった。落としたら、笑って、また鳴らす。ただし、前とは、笑い方が、少し違った。自分の一音を、本気で、大事に鳴らす笑い方だった。


 十月の下旬。俺たちは、初めて、第四楽章を、最後まで、穴を空けずに、通した。


 演奏が終わった瞬間、部室は、爆発した。鯨井が絶叫してシャツを脱ぎ、累が黒い日傘を振り回し、白瀬までが、めずらしく、こぶしを握って「……やりました」と声を震わせた。春名が、ぼろぼろ泣いて、その背中は、もう、伸びていた。


 その騒ぎの真ん中で、詩織が、俺の隣に来て、そっと言った。


「……あの旋律ね」


「ん?」


「第四楽章の、いちばん盛り上がるところ。累が言ってた、"歓喜の歌"に似てるっていう、あの主題」詩織は、少しだけ、遠い目をした。「いつか、本物の、"歓喜の歌"を、鳴らしてみたいな。……こんなわたしたちで」


 そのときの俺は、その一言が、どこへ繋がっていくのか、まだ、何も知らなかった。


 ――ベートーヴェン。巨人。歓喜の歌。


 その名前は、まだ、俺にとっては、ただの、遠い足音でしかなかった。


 演奏の練習と並行して、秋には、もう一つの戦いが、続いていた。


 客席の、二千だ。


 署名の二千人が、そのまま聴きに来てくれる保証は、どこにもない。本番は、平日の、月曜の夜。しかも式典は、もともと、来場見込み八十人の、地味な行事だった。


「署名してくれた人、全員に、招待状を出す」桃井がそう宣言して、俺たちは、秋の週末を、また駅前で過ごした。署名のお礼と、日時を刷った手作りの招待状を、配って回るのだ。夏に、一音を鳴らしてくれた、あの人たちに。「あのときの、タンバリンの」と言うと、たいていの人は、覚えていてくれた。


 門脇さんは、市の広報誌の片隅に、式典の告知を載せてくれた。「仕事ですから」と、素っ気なく。ただ、その記事の見出しは、《高校生たちの、最後の交響曲》だった。……仕事の域を、少し、超えていた気がする。


 立花さんは、四十年ぶんの人脈を、動かした。あのホールを使ってきた合唱団、ピアノ教室、劇団、OBたち。「あの箱の、最後だ。顔を見せてやってくれ」と、方々に、頭を下げて回ったらしい。


 そして――鷲尾。あいつは、定演の二日間、ロビーに俺たちのチラシを置くことを、許した。それどころか、二日目のアンコールの前に、ステージの上から、三千人の客に向かって、こう言ったらしい。「明後日、この同じ舞台で、閉館式典があります。うちの学校の管弦楽部が、ブラームスを演奏します。……聴き比べに、来てください」


 伝え聞いた俺は、椅子から、ずり落ちそうになった。


「宣戦布告ですわね」と累が言い、「宣伝だろ」と鬼頭が言った。……たぶん、両方だった。


 それでも。


 当日、席がどれだけ埋まるかは、最後まで、誰にも、分からなかった。招待状に、返信欄なんてない。広報誌が読まれたかどうかも、分からない。月曜の夜六時に、仕事や学校を終えて、取り壊し前のホールまで足を運んでくれる人が、二千人。……冷静に考えるほど、怖い数字だった。


「当日来場者数の、予測を言いましょうか」と海老名が言い、全員が「言うな」と、声を揃えた。


 そして、十一月十六日が、来た。


 朝、目を覚ますと、右肩の、もう投げられない古傷が、なぜか、少しだけ、疼いた。


 試合の日の、あの感覚だった。何年ぶりだろう。胃の底が、きゅうっと絞られるみたいな、あの、朝。


 今日、俺たちは、あの、静かな二千席のホールを、満席にして――生まれて初めて、最後まで、演奏する。



### 第十二章 ステンドグラス


 十一月十六日、午後五時。開演の、一時間前。


 大貝ホールの、楽屋。


 俺たちは、そこにいた。楽器を抱えて、そわそわと、落ち着かなく。鏡の前で、白瀬が眼鏡を三回拭き直し、鯨井が「暑い」と言ってシャツのボタンに手をかけ、桃井が「本番前に脱いだら、殺す」と真顔で止めた。海老名が、ホールの残響時間を、なぜか今さら測り直していた。鬼頭は、壁にもたれて、目を閉じて、指先で、膝を叩いていた。狂いなく、正確なリズムで。


 春名は、隅で、古いトランペットを、ぎゅっと抱えていた。その背中は、少し丸まっていた。でも、逃げる丸まり方じゃなかった。祈るみたいな、丸まり方だった。


 詩織は、一人、鏡の前で、自分の両手を、じっと見ていた。


 三年前、この舞台の、ちょうど真ん中で、止まった、あの手を。


 俺は、その隣に立って、何も言わずに、ただ、一緒に、その手を見た。かける言葉なんて、なかった。俺の右肩の古傷も、さっきから、じくじくと、疼いていた。たぶん、俺たちは、同じ場所に、立っている。ずっと前に、途中でやめた、あの場所に。


「須賀くん」詩織が、ぽつりと言った。手は見たまま。「わたし、もし、また止まったら」


「止まらない」


「もし、止まったら」


「そのときは」俺は、少し考えて、言った。「三十人が、鳴らしてる。詩織の手が止まっても、音楽は、止まらない。……それが、この楽団だろ」


 詩織は、しばらく黙って、それから、小さく、笑った。「……ずるい、その言い方」


 そのときだった。楽屋の扉が、芝居がかった軋み方をして、開いた。


 黒いドレス。黒い日傘。頭には黒いリボン。累が、いつもの葬式帰りみたいな全身黒ずくめで、両手を広げて、朗々と、言い放った。


「みなさま。名前を、差し上げに参りましたわ」


「名前?」


「わたくしたちの、この奏法の」累は、うっとりと、部屋を見回した。「ずっと、名無しでしたでしょう。一人が、一音だけを受け持つ。何十人ぶんも重ねて、一つの曲にする。……ずっと、"あれ"とか"これ"とか、呼んでいましたわね。でも、今日、名前を、つけて差し上げますの。生まれる瞬間に、名前がないなんて、あんまりですもの」


 累は、楽屋の窓に、歩み寄った。日暮れ間際の、最後の茜色の光が、埃をきらきらさせながら、斜めに差し込んでいた。


「みなさま、教会の、ステンドグラスを、ご存じ?」


 誰も、答えなかった。


「あれはね、一枚一枚は、ただの、小さな色硝子の欠片ですのよ。青、赤、金。ばらばらの、意味のない、破片。……でも、その欠片が、何百枚も集まって、光が、後ろから射したとき」累は、窓の光に、手をかざした。指の隙間から、光が、こぼれた。「初めて、一枚の、大きな絵になる。聖人の顔が、物語が、天国が、浮かび上がりますの」


 楽屋が、しん、とした。


「一枚欠ければ、そこだけ、光が漏れる。だから、どの欠片も、代わりがいない。……ねえ、わたくしたちと、そっくりでしょう?」


 累は、くるりと振り返って、俺たち一人ひとりの顔を、順番に、見た。


「一人一音。それが、わたくしたちの、光の集め方」累は、日傘の先を、床に、こつん、と突いた。「――ステンドグラス奏法。今日から、そう呼びますわ」


 誰も、しばらく、口を利かなかった。


 それから、鯨井が、洟をすすった。「……ステンドグラス」ぽつりと、繰り返した。「かっけえ」そして、シャツを脱いだ。今度は、誰も、止めなかった。


 名前が、ついた。


 ばらばらだった俺たちの、半年ぶんの時間に、たった今、名前が、ついた。不思議なもので、その一言があるだけで、俺たちの持っている紙切れの一音が、急に、色のついた、光の欠片みたいに、思えてきた。


「――時間だ、坊主ども」


 楽屋の入り口に、立花さんが、立っていた。


 いつもの作業着じゃなかった。皺は寄っているけれど、きちんとした、黒い、スーツ姿だった。襟元には、少し古びた、蝶ネクタイまで、結んであった。四十年、この舞台の袖にいた男の、正装だった。


「客席、見てきたか」立花さんは、にやりと笑った。


 俺は、袖のカーテンの隙間から、客席を、覗いた。


 ――埋まっていた。


 二千の、客席が。


 一階も、二階も。あの、がらんとして、埃をかぶって、静けさだけが詰まっていた、二千の席が。人で、びっしりと、埋まっていた。


 署名してくれた、花森の人たち。見学会で、春名の一音を聴いた人たち。「四十年前に告白した」おじいさん。ベビーカーの若い夫婦。制服姿の、どこかの高校生。……そして、いちばん後ろの席に、腕を組んで座る、吹奏楽部の鷲尾と、その仲間たちが、いた。


 二千人が、これから始まる、たった一つの音を、待っていた。


 あの日、俺が、たった一人で聴いた、この二千席の静寂。それが今、二千人ぶんの、期待の熱で、満たされていた。


 胸の底が、熱くなった。それから、猛烈に、怖くなった。……試合の日の、あの感覚だった。


「律」立花さんが、俺の肩を、ぽん、と叩いた。「四十年で、この客席が満席になったのは、二回目だ」


「二回目?」


「一回目は、開館二年目の、市民合唱祭。それきり、四十年、いっぺんもなかった」立花さんは、天井の、埃をかぶったシャンデリアを、いとおしそうに見上げた。シャンデリアには、今日、明かりが、灯っていた。「……こいつも、最後に、いい夢を見られる。ありがとうよ、律」


 立花さんは、緞帳のロープの、そばに立った。四十年、その手が、上げ下げしてきたロープ。


「行ってこい。舞台で、何をやるかは――お前らが、決めろ」


 舞台に、出た。


 二千人の視線が、いっせいに、突き刺さった。まぶしいライト。ざわめきが、少しずつ、引いていく。三十人が、それぞれの場所に着く。詩織が、舞台の中央の、グランドピアノの前に座る。鬼頭が、大太鼓の後ろに立つ。白瀬が弓を構え、鯨井がチューバを抱え、春名が、トランペットを、そっと、唇に近づける。


 俺は、指揮台に立った。楽譜は、ない。俺には、読めないから。あるのは、半年ぶん、身体に叩き込んだ、この曲の、形だけだった。


 緞帳が、ゆっくりと、上がりきった。


 しん、と、なった。


 二千人が、息を、殺した。


 ――あの静けさだ。立花さんが言っていた、たった一つの音のために、二千人が息を殺す、あの静けさ。俺は、生まれて初めて、その真ん中に、立っていた。


 俺は、鬼頭を、見た。鬼頭が、にやりと笑って、スティックを、構えた。


 ワン、ツー、スリー、フォー。


 ――ブラームス、交響曲第一番、ハ短調。


 鳴った。


 第一楽章。


 地の底から、鬼頭のティンパニが、重い鼓動を、打ち始める。ドン、ドン、ドン。同じ速さで、同じ強さで、決して揺れない、心臓の音。……巨人の足音に怯えながら、それでも書くことをやめなかった男の曲は、その"足音"そのものみたいな連打で、始まる。いつかの授業で、そう教わった。


 俺は、指揮台から、鬼頭を見た。裏切られて、たった一人で、河原でバケツを叩き続けてきた男が、いま、二千人の前で、怯えの足音を、自分の心臓の音に、変えて、叩いている。


 その鼓動の上を、白瀬と、寄せ集めの弦が、うめきながら、登っていく。詩織のピアノが、和音の背骨を、静かに、通す。鯨井の低音が、いちばん下で、床を支える。累のチェロは、今夜は、断末魔じゃなかった。低く、太く、祈りみたいに、鳴っていた。三十人の、色のついた一音が、一つ、また一つと、その上に、貼りついていく。


 第二楽章は、歌だった。


 悲しいのに、あったかい、あの歌。二十一年、書いては破り、書いては破りを繰り返した男が、疲れきった自分を、そっと慰めるために書いたみたいな楽章だと、詩織は言っていた。その慰めの旋律の芯を、白瀬のバイオリンが、六年ぶんの錆の落ちた音で、細く、まっすぐ、通していく。受験勉強の隙間を縫って、それでもここに立つと決めた男の、静かな音だった。


 第三楽章は、木漏れ日だった。


 優しい、間奏曲。海老名が、桃井が、名前を覚えるのがやっとの寄せ集めの仲間たちが、一音ずつ、丁寧に、光の粒を置いていく。ふと、客席の前のほうで、小さな影が、膝の上で、リズムを取っているのが見えた。……あの、駅前の、タンバリンの女の子だった。招待状は、ちゃんと、届いていた。


 穴は、ときどき、空きかけた。二楽章で、後列の一音が、遅れた。ひやりとした。だが、隣の誰かが、リズムにしがみついて、耐えた。三楽章で、緊張しすぎた一人が、音を、外した。小さな、光の漏れ。でも、崩れなかった。みんなが、その穴を、身体で、庇うみたいに、次の音を、置いた。


 ――落としても、笑って、また鳴らす。ただし、本気で、大事に。


 あの、部室の空気が、二千人の前で、生きていた。


 そして、第四楽章が、来た。


 暗い、重い、序奏。その、いちばん深い闇の底で――ホルンが、鳴った。


 鯨井だった。


 高い山の上から、深い谷の向こうから、挨拶を送るみたいな、長い、長い、一息の旋律。五十メートルを息継ぎ二回で泳ぐ肺が、その呼び声を、どこまでも、まっすぐに、伸ばしていく。二千人の頭の上を、音の霧が、ゆっくりと、晴れていった。……あの、単純で、暑苦しい男が、いま、この四十五分の物語の、夜明けを、告げていた。


 巨人の足音に、二十一年、怯えた男が、それでも書いた、あの旋律。


 春名の、トランペットが、立ち上がった。


 彼女の背中が、伸びた。肩が開いて、腹の底まで、息が入る。二年半のあいだ、小さく畳んでいた身体が、ほどけて、二千席の、いちばん後ろまで届く、まっすぐな歌が、ホールを、貫いた。


 "歌"が、あった。


 その歌に、押されるみたいに、三十人の一音が、集まって、繋がって、うねって、大きな、大きな、一つの音楽に、育っていく。ばらばらの光の欠片が、後ろから射す光で、一枚の、絵に、なっていく。


 俺は、指揮台で、腕を、振っていた。楽譜も読めない、指揮の勉強なんて一日もしたことのない、元・野球部のエースが、二千人の前で、無我夢中で、腕を、振っていた。


 なのに、みんなが、俺の腕を、見ていた。信じて、ついてきていた。俺の合図で、光の欠片を、置いていた。


 ――ああ、これだ。


 この感覚を、俺は、知っている。マウンドの真ん中で、ナインを背負って、投げていた、あの感覚。もう二度と、味わえないと思っていた、あの――


 主題が、二千人の頭の上で、大きく、うねる。……"歓喜の歌"にそっくりだ、と笑われて、「そんなことは、ロバでも気がつく」と言い返した男の、開き直りの、堂々たる歌。二十一年かけて、巨人の影の中から、自分の足で歩き出した男の歌を――楽譜も読めない俺たちが、いま、全員で、歌っていた。


 クライマックスが、来た。


 全員の、一音が、いっせいに、鳴った。三十人ぶんの、色硝子が、全部、光った。ハ長調の、まばゆい、勝利みたいな旋律が、二千席の、天井の、シャンデリアまで、震わせた。


 そして――終わった。


 最後の一音が、ホールの空気に、溶けて、消えた。


 しん、と、なった。


 一秒。二秒。三秒。


 ――二千人が、いっせいに、立ち上がった。


 拍手が、来た。津波みたいな、拍手だった。四十年、満たされなかったホールが、二千人ぶんの音で、内側から、割れそうなくらい、鳴っていた。「ブラボー」と、どこかで、誰かが、叫んだ。ベビーカーの母親が、泣いていた。「四十年前に告白した」おじいさんが、立って、両手を、上に突き上げていた。


 舞台の上で、俺たちは、ぼろぼろに、なっていた。


 鯨井が、号泣しながら、シャツを脱いでいた。累が、黒いドレスのまま、優雅に一礼して、その目から、涙を、こぼしていた。白瀬が、眼鏡を外して、袖で、乱暴に、拭いていた。鬼頭が、スティックを両手で握って、天井を、見上げていた。


 詩織は、ピアノの前で、動かなかった。


 両手を、鍵盤の上に、置いたまま。


 その手は――止まっていなかった。最後まで、一度も、止まらなかった。彼女は、震える肩で、その手を、じっと見て、それから、声を殺して、泣いた。三年前、この舞台に置いてきた"終わり"を、たった今、自分の手で、拾い上げた顔で。


 舞台の袖で、立花さんが、緞帳のロープを、握ったまま、動かなかった。皺だらけの顔が、くしゃくしゃに、なっていた。


 いちばん後ろの席で、鷲尾が、立ち上がっていた。


 拍手は、していなかった。ただ、まっすぐ、俺を見て――小さく、口の形だけで、何か言った。「悔しい」と、言ったように、見えた。それから、ふっと笑って、背を向けて、帰っていった。俺は、それを、最高の賛辞だと、受け取った。


 鳴りやまない拍手の真ん中で、俺は確かに、最高の瞬間の中にいた。


 拍手は、いつまでも鳴りやまなかった。


 大貝ホールの、四十年で二度目の、満席の夜。


 そして、俺たちのブラームスが、終わった。

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