重圧からの解放
ある日、国王の寝室から悲鳴が上がった。以前ならすぐに様子を見に駆けつけていた。
……いえ、同じ寝室を使っていたら、その前に気がついたわね。
わたくしは二つ隣の王妃の部屋で、廊下を忙しなく行き交う人々の足音や声を聞いていた。
「今日は執務室まわりではなく、寝室で寝ていらしたのね」
「最近は西翼の客室にお泊まりのことが多うございます。ですが、さすがに連日致されるほどの体力はなかったのかもしれませんね」
言外にもう若くはないのだからと言っているのだ。
「あら、不敬だわ」
「くすくす。申し訳ございません」
侍女とそんな会話をしながら、身支度を調えた。
わたくしはいつもどおりに朝食をとり、午前中の仕事に取りかかった。次の芸術祭の審査員をどうするか。その顔ぶれで、我が国がどんな文化を創っていきたいのかが測られる。
夫の不調のことなどすっかり頭から抜けた頃に、宮廷医師が執務室に来た。国王は排尿時に激痛が走る病に感染したという。
「あらあら、一大事ね」
他人事のように言うわたくしに、医師は一瞬悲しそうな眼差しを向けた。結婚前の身体検査や息子を取り上げてくれた医師には、わたくしの変化が痛々しく見えるのだろうか。
「痛み止めを処方するか否か、ご相談にあがりました」
「わたくしに相談するということは、政務に影響が出る可能性があるのね?」
「はい、その通りでございます」
説明を始めようとした医師の言葉を、わたくしは遮った。
「では、宰相と一緒にうかがいましょう」
わたくしがそう言うと、女官の一人が宰相補佐に伝え、あっという間に約束が取り付けられた。
わたくしは三階から二階に降りた。二階には大会議場や国王の執務室があり、諸外国の使者なども多く行き交う。三階は、王妃の執務室や医療、福祉事業などの国内向け部署が集まっていた。
滅多に二階に降りなくなったわたくしが、医師を連れて歩く。それだけで、人々は噂話に花を咲かせる。
「まず、陛下の最善の治療方法は、病原菌を体外に排出することです。薬草を煮出したものを飲んでいただきます。必然的にトイレの回数が増えます。
それが辛くて耐えられないと痛み止めを求められました」
医師がわたくしと宰相を前に説明を始める。
「その痛み止めが、相談をしなければいけないほどのものなんだね?」
宰相が話を促した。
「はい。治療効果を落とさないことを優先した場合、副作用の少ない痛み止めは飲み合わせが悪く使えません。
使える痛み止めは痛みを感じなくさせると同時に、思考力を落とします。困ったことに、陛下の病状が進んでおり、短期間で治療が終わりません。この痛み止めは、気持ちが楽になるという方が一定数おられ、常習性が懸念されるのです」
「つまり、痛み止めを服用している間は思考力の低下が見られ、依存症になる可能性が高いということか」
「はい。政治的に、大問題かと……」
医師の懸念は、宮廷医師としてまっとうなものだ。
「宰相から見て、王子はどうですか?」
わたくしの問いかけに、宮廷医師が体を硬くした。
「陛下のここ数年のお姿に危機感を覚え、いつでも立てるように精進なさっています。あとは経験を積みながら、自信をつけていけばよろしいかと」
「わたくしが数年ほど後見すれば、国政は回せるかしら」
「及ばずながら、全力でお支えします」
それはまるで騎士の誓いのようだった。宰相の娘も婚約者として頑張ってくれている。
わたくしも覚悟を決めた。医師と目を合わせて、はっきりと告げる。
「では、先生。陛下には、痛み止めの副作用を全て説明し、それでも求めるということでしたら処方してください」
医師はぎゅっと唇を引き締めた。立ち上がり深く一礼してから、国王の私室へ向かった。
「国王のお相手をした方々へも連絡をしないといけませんね」
宰相が囁くように言った。
「そうね。新聞に『心当たりがある女性は、王宮に名乗り出るように』と記事を出しましょうか。
国王が治るけれど人に感染する病を得たためと書いたら、王家の権威が落ちてしまうかしら?」
「多少の陰りはあるでしょうが、これで野心家の家門の下心をくじくことができます。その娘は政治的な駒として使えなくなり、次の縁談が難しくなる。家名も泥を被るとなれば、緩やかに家が傾いていくでしょう。
王子殿下が王位に就く前に、害虫のあぶり出しができますよ」
「あら、あの人も最後に役に立ったわね」
そう軽口を叩く。
分不相応な野心を持つ家門が、これほどわかりやすく釣れるとは。息子の代には持ち越したくない。
とりあえず、王妃を軽んじても構わないと考えた方々に反省を促しましょうか。どう反省の意を表するか――それも試金石となるわね。
「ご病気が原因なのは、ある意味幸いですね。王子殿下に早期に即位するか、療養中の陛下の代理として動くかを選ぶ余地がありますから」
そう宰相が言い、わたくしたちは視線を交わす。
自分が表に立って自由に動きたい人もいれば、お飾りでも上に人がいて後ろで動く方が好きな人もいる。
「果たして、息子はどちらを選ぶのかしらね」
話の流れで、夫か息子のことを口にする――そんな状況でわたくしは息子の話題を選んだ。
前国王から託された、一人の青年が堕落するのを止められなかった無力感。それは、口に出さずに呑み込んだ。
密談をした三人にはわかっていた。
おそらく、国王は痛み止めを飲んでしまうだろう。迷いもせずに――
それを合図に、国王が表舞台に立つことはなくなる。
数ヶ月後、夫が愛人に暴言を吐いていたらしい。
何もかもが狂い出したのは、愛人が図々しく王宮に乗り込んできたせいだと喚きながら。愛人を平手打ちにしたところで、近衛騎士が間に入った。
国王が「こんなものでは気がすまない」と暴れるため、近衛騎士はやむなく羽交い締めにし、医師が鎮静剤を投与した。
思考力が落ち、衝動的な暴力衝動を抑えられなくなっている。もう人前に出さない方がいいだろう。退位か療養かは、息子が決める。
寝室で目を覚ました国王に、王妃は告げた。
「もう、重圧に苦しむ必要はございませんよ。愛人と離宮でのんびりお過ごしください」
原因を作った愛人を放逐してやるほど優しくはない。お二人には、しっかり最後まで責任をとってもらうわ。愚か者への見せしめとして。
「ち、違う。大事なことは君たちが決めてしまう。だから、私だけが誇れることを探して……」
国王はイヤイヤをする子どものように、首を横に振った。
「その結果が、これですか。我々が陛下のご意見をお伺いしたときには、何もおっしゃらなかったのに」
「それは、自信がなかったから……」
若い頃の方が、自分を客観的に見ることができていたのかしら。
王妃の後ろで、宰相が静かに頭を下げた。
「ご自分の欲のためではなく、国民のためにお考えいただきたかった――」
「国王である前に、一人の人間として許される行いでしたか?」
王妃である前に、わたくしも一人の人間。心を持つ妻でしたのよ。
「あ、ああ、あぁー」
国王の軽い嘆きは、もはや誰の胸も打たなかった。




