第17話:沈黙の福音
ジブラルタル港を見下ろす、街で最も壮麗なホテルの最上階。
提督アーサーは艦隊を入港させたその足で、本宅へは戻らずこの「密室」へと向かった。遠征中ともなれば、入港先のホテルに必ずルカを伴わせるのがアーサーの常だった。
ルカを荒れる戦場に乗せることはないが、自らの支配が及ぶ最短距離に置いておかなければ、アーサーの独占欲は収まらない。
ルカ――またの名を成瀬。
彼はアーサーの愛人として情欲を受け止める一方で、その美貌と予言を武器に、暗躍する参謀でもあった。
「……ルカ。フランク軍が、君の予言を覆した」
アーサーの低い声が、薄暗い寝室に響く。
彼はルカの細い首筋を大きな手で掴み、壁へと押しつけた。
「ありえないはずだ。君が『沈む』と断言した老朽艦が無傷で戻り、記録にない巨艦が現れた。必ず裏がある。盤上に、私が知らない『駒』が紛れ込んでいるはずだ。そうだろ?」
アーサーの鋭い眼光が、ルカの瞳の奥を覗き込む。その瞬間、ルカの胸にかつてない衝撃が走った。
(……え……?)
ルカにとっての「予言」とは、かつて自分が学んだ歴史をただなぞるだけの、残酷なまでに退屈な脚本に過ぎなかった。
自分が「死ぬ」と告げれば、歴史通りに死ぬ。その絶対的な安定こそが、ルカをこの世界で誰よりも孤独にさせていた。
だが今、その「歴史」が書き換えられた。運命を捻じ曲げる力を持つ者が、この世界のどこかにいる。
(まさか……渚。君なの? 君が、俺の知っている『地獄』を壊しているのか……?)
ルカの表情が一瞬だけ、驚きと歓喜に揺らいだ。その刹那の綻びを、アーサーは見逃さなかった。
「……ほう。心当たりがあるようだな、ナルセ。」
アーサーの瞳に、黒い嫉妬が灯る。そして、彼はルカの耳元で、世界で自分しか知らないはずの、奴隷として買い上げる前のルカの本名を低く、這うような声で囁いた。
「――、私の可愛い『予言者』。その瞳は、誰を求めている?」
本名を呼ばれた瞬間、ルカの身体が大きく跳ねた。それはルカにとって、自分がかつて何者であったか、そして今はアーサーに魂まで買い取られた私物であることを思い出させる呪縛の言霊だった。
逆上したアーサーは、ルカを寝台に叩きつけ、彼の身体を幾度も蹂躙し始めた。支配と暴力の快楽。絶頂の淵へと強制的に突き落としながら、アーサーは呪詛のように問い続ける。
「答えろ! どこにいる! その女は今、どこでシャルルにその身を捧げている!」
執拗な行為に、意識が混濁し、肉体が限界を迎えていても、ルカの唇が真実を語ることはなかった。
(……言わない。絶対に。君も同じ地獄を見ているのなら、渚……君だけは、俺が救い出す。何がなんでも……)
翌朝、アーサーは傷だらけで眠るルカを見下ろし、冷酷な微笑を浮かべた。
ルカの「希望」を餌に、フランク軍に介入している異物を釣り上げればいい。アーサーは影のように控えていた部下を呼び寄せた。
「……ルカを連れてガディスへ向かえ。フランク軍が入港したことを伝えた。あいつを泳がせろ。ルカがナギサという東洋人と接触する瞬間を狙う。手を取るその刹那に、私はその女を、ルカの目の前で絶望の底へ突き落としてやる」
数時間後、ルカは「成瀬」としての黒い外套を纏い、監視のもとガディスへと向かう船に乗っていた。まだ疼く身体の痛みさえ、ルカにとっては渚へと続く道標だった。
(渚……君を、この地獄から連れ出す)
ルカは外套の襟を立て、冷たく笑った。
アーサーが自分を監視しているように、自分もまた、アーサーの目を利用して渚を地獄から連れ出す「隙」を狙う。
蜘蛛の糸を渡るような命懸けの綱渡り。
だが、渚がこの退屈で残酷な歴史を壊してくれたのだ。
ならばその報いに、今度は自分が彼女の盾になり、この脚本を最後まで狂わせてやる。
(……待っていてくれ、渚!)
自分がアーサーの張り巡らせた罠の「駒」であることを自覚しながらも、その心はすでに支配者の檻を飛び越えていた。
ルカは熱を帯びた瞳で、歓喜の渦に沸くガディスの港を、静かに見据えていた。




