第142話:ヤ・フーの街と、第5の旅
渚が静かに拳を握りしめるのを見て、ルブランは満足げに口角を上げた。
「セシル! 預けている俺の荷物……あの革張りの箱を持ってこい」
セシルは怪訝そうに眉を寄せながらも、一度奥へ去り、重々しい大きな木箱を抱えて戻ってきた。ルブランはその蓋を無造作に開け、中から一冊の古びた、けれど丁寧に装丁された本を取り出した。
「これをお前にやろう。……予習だ」
「何ですか? 本? ……えっ」
差し出された表紙には、見覚えのある、けれど少し古めかしい書体でタイトルが刻まれていた。
「『ガリヴァー旅行記』……ジョナサン・スウィフト作。スウィフト…『ヤ・フー』って、この物語のことだったんですね!?」
渚は思わず叫んだ。
現代ではアニメや検索エンジンの名前として馴染み深い言葉が、まさか100年以上も前のイギリス文学が起源だったなんて。
「そうだ。俺がさっき言っただろう。お前がパリの市民をそう呼んだのだと。……なんだ、その顔は。まさか知らなかったのか?」
「知らなかったっていうか……こんなに昔の作品だったんだ。ルブランさん、これ、いつ出版された本なんですか?」
「これはロンドンで刷られた初版本の写しだ。確か……1726年だったか。スウィフトがこの世を去って久しいが、人間の本質を突いた鋭さは、いまだに色褪せん」
「1726年!? 今(1804年)よりも80年も前……」
渚は、少し黄ばんだ紙の感触に驚愕した。
現代の絵本がここでは現役の「ベストセラー」であり、知識人の教養として流通している事実に。
「でも、ヤ・フーなんて話は知らないです。だって、私の知ってる『ガリヴァー』はこんなに分厚くないし、子供向けの絵本で……えーと、そう! ジャンみたいな医者が、ある日突然、体が大きくなったり小さくなったりして旅をする、ワクワクする冒険の話なんです!」
渚の言葉に、ルブランは片眉を跳ね上げ、信じられないものを見るような目を向けた。
「……なんだと? 大きくなったり小さくなったりするだけ? それではただの『見世物小屋』ではないか。ナギ、お前の知るその本には、フウイヌム(理知的な馬)は出てこないのか?」
「ふうぬ……何ですか、それ。馬? 出てこないですよ。ガリヴァーが縛られたり、手のひらに乗ったりするだけです」
「……ふっ、ははは! なるほど、ジャポンではそんな無害な骨抜きにされているのか! スウィフトが聞いたら憤死するだろうな」
ルブランは愉快そうに、けれどどこか憐れむように鼻で笑った。
「いいか、ナギ。この本の真髄は、その『馬』の国にある。気高く理性的な馬が支配する国で、最も卑しく、最も救いようのない、知性を捨てた裸の獣として描かれるのが……人間そっくりの姿をした『ヤ・フー』だ」
「人間そっくり……の、獣……」
(多分、現代の倫理観でいうと差別的な表現になるから、その部分は排除されてるのかな……)
「お前がさっきパリの住民を見て叫んだ言葉だろう? 俺はてっきり、お前がその真実を知っていて、この不潔な街を皮肉ったのだと思ったのだが……。どうやら『ジャポン』の絵本には、肝心な毒気が足りないようだな」
ルブランは机を指先で叩き、教え子を導くような、鋭くも熱を帯びた瞳で渚を見た。
「だが、好都合だ。明日、閣下の前でその『毒』を少しばかり混ぜてみせろ。ただの可愛い小鳥ではなく、人類の醜さを知った上で、それでも未来を語る『賢者』の毒だ。その本を持って、ヤ・フーの正体を叩き込んでおけ」
「……なんか、思ってた冒険活劇と全然違う。マリオ(土管工)も、ガリヴァーも……」
渚は、ずっしりと重い皮表紙の本を抱きしめた。
自分が知っていたはずの知識が、この時代の熱量に触れて、全く別の形に姿を変えていく。
「さあ、着替えろ。時間は待ってくれないぞ。閣下は『時間』に最も厳しい男だ」
「……信じられない。その本、あなたにあげちゃうのね」
「え……?」
渚が聞き返すと、セシルはルブランが去った方向を流し目で追い、どこか切なげで、けれど意地の悪い笑みを浮かべた。
「あの偏屈な男が、命の次に大事にしてた初版本の写しよ。私にさえ、指一本触らせてくれなかったのに……。まさか、拾ってきたばかりの小鳥にね」
「えっ、そんなに大事なものなんですか、これ……?」
「価値なんて言葉じゃ足りないわ。……ふふ、嫉妬しちゃうじゃない」
セシルは渚の肩を指先でなぞり、そのまま乱暴に、けれど手際よくローブを剥ぎ取った。
「いいわ。ルブランがあれほど入れ込むんだもの。私がパリで一番の『毒婦』に……いえ、皇帝陛下さえも跪く、最高に気高く恐ろしい『魔女』に仕立て上げてあげる」
セシルの宣言とともに、サロンに控えていたお姉様たちが一斉に動き出す。
肌を刺すような贅沢なシルクとレースが渚の体を覆っていく。
◇
セシルたちの賑やかな声が響くサロンを後にし、ルブランは別室のバルコニーへと出た。
冷たい夜気が、ワインで火照った頬を撫でる。
彼は懐から銀のシガレットケースを取り出し、ゆっくりと紫煙をくゆらせた。
(……ジャポン、か)
先ほど渚が口にしたその響きを、ルブランは頭の中で反芻する。
東方の果て、地図の端に霞む神秘の島国。
1726年にスウィフトが記したあの一冊の中で、ガリヴァーが最後に訪れ、そして長崎から帰還したあの国。
「……あの物語で、空飛ぶ島『ラピュタ』の英知を唯一受け入れ、ガリヴァーを文明世界へ送り出した場所。それがジャポンだったな」
単なる偶然か。
それとも、あの娘が「ジャポン」を自称するのは、自分たちが失ってしまった——あるいは、これから手に入れるべき「未来の英知」をその身に宿しているという暗喩なのか。
彼女が持ち込む、見たこともない劇薬。
「土管工」という奇妙な寓話や、目に見えない「除菌」という概念。それらは、スウィフトが風刺として描いた空想の科学よりも、ずっと鮮やかに、そして恐ろしいほど論理的にこの時代を侵食し始めている。
(あいつの持ち込む知識には、あの本に通ずる『毒』と、それを凌駕する『真実』が混ざっている)
ルブランは暗い夜の底を見つめ、不敵に目を細めた。
かつて自分が守れなかった「彼女」は、絶望の淵でパリの民衆を、貴族たちを、そして何より己自身さえも「ヤ・フー」だと言って蔑み、この世界に背を向けた。彼女にとって、この時代は救いようのない獣たちが泥を投げ合う地獄でしかなかったのだ。
だが、渚はどうだ。
汚物を浴び、嘔吐しながらも、自分自身まで「ヤ・フー」だと呪うことはしなかった。
むしろ、その汚泥の中から高く跳ぶために叫び、力強く前を向いた。
(……ならば。お前の運命の先が彼女が焦がれ、ついぞ辿り着けなかった『馬』の国だというのか、ナギ)
もし、あの娘の持つ「未来」が、この不潔な時代を浄化する鍵なのだとしたら。
「……やはり、面白い。あんたが読みたがった『第5の旅』が、今ここから始まるのかもしれんぞ」
ルブランは短くなった煙草を銀の灰皿に押し付けた。
亡き人に捧げるように呟いたその言葉は、静かな夜の闇に吸い込まれていった。
明日の昼、皇帝という名の「怪物」と、未来から来た「魔女」が相まみえる。
歴史という名の巨大な歯車が、一人の女子大生の手によって、軋んだ音を立てて逆回転を始める予感に、ルブランの胸はかつてないほど激しく波打つのだった。




