第141話:断頭台の記憶と、誓いの体温
「ナポレオン……。あの、歴史の教科書に載ってる、辞書に不可能はないとか言っちゃう、あのナポレオンですか!? 肖像画の、あの……!?」
渚の脳裏を、有名な「アルプス越え」の肖像画が駆け巡る。
白馬に跨り、赤いマントを翻して指を差す英雄。
レモンジュースを差し入れたり、フルトンさんと協力して炭酸水を作るよう手紙でやり取りしたり……。文通相手のような、どこか実体のない「偉い人」だと思っていた存在が、突如として現実の厚みを持って迫ってきた。
「辞書? 不可能? ……フッ、あの方がそんな殊勝なことを言うかは知らんが、とにかく今、世界で最も『不可能』を『可能』に塗り替え続けている男だ。俺やシャルル、そしてジャンもアドリアンも……あの男の巨大な野心という嵐に巻き込まれた、ただの木の葉に過ぎん」
ルブランの瞳が、ふと真剣な色を帯びた。
「ナギ殿。お前にとっては『歴史上の人物』かもしれん。だがな、俺たちにとっては、今この瞬間のパリを、そして未来の欧州を丸ごと飲み込もうとしている、生身の、腹を空かせた『怪物』なんだよ。そしてあの方は今、喉から手が出るほど『救い』を欲している。……そこへ、お前が現れるんだ」
ルブランはニヤリと笑い、渚の額を指先で弾いた。
「お前の劇薬を閣下に突き刺して、あの不敵な顔を驚きで歪ませてやろう。……想像するだけで、ゾクゾクするだろう?」
「……しないですよ! 怖いだけですって!」
渚はローブの上から自分の肩を抱いた。
おしっこを浴びて嘔吐し、高級娼館で薔薇の香りに包まれる。そんなカオスな一日の終わりに、世界史最大の巨星との対面。
(本当に、この世界は生きているんだ……。インクの匂いのする教科書じゃなくて、アンモニアと薔薇の香りが混ざり合った、この酷い匂いのするパリで……)
窓の外、夜のパリが不気味に、そして熱狂的に脈動している。
「さあ、セシル! ナギ殿を、閣下が思わず跪くような最高の『魔女』に仕立て上げてくれ。明日の昼には、歴史がひっくり返るぞ!」
「ま、魔女は嫌です! 魔女だけは……火炙りにされちゃう!!」
「そんな心配をしてるのか?」
「きゃ!」
不意に、ルブランの大きな手が渚の両肩を強く掴んだ。逃げ場を塞ぐような、けれど不思議と力強い体温。
「火炙りはない。だが、もしお前が首を落とされる運命ならば……」
そこでルブランの言葉が一瞬、湿った砂を噛んだように途切れた。
彼の脳裏をよぎったのは、かつて愛した女性——シャルルの姉の最期。革命の狂気の中、貴族の嫁ぎ先で断頭台へと消えた彼女を守れなかった、若き日の後悔。
「……次こそは、絶対に。……いや、その時は、俺も共だ。地獄の底まで付き合ってやる」
「次こそは」という呟きに込められた、祈るような執念を見た。
ルブランの真摯な、それでいて絶望を知る男の眼差しに、渚は息を呑んだ。
(この人は、知っているんだ。教科書に載っている『革命』や『処刑』が、単なる文字じゃなく、温かい血の流れる人間の死だったことを……)
薔薇の香りが漂う贅沢なサロン。けれど、その足元には、かつての断頭台から流れた血の記憶がまだ沈んでいる。
セシルたちが艶やかな衣装を手に迫ってくる。渚はルブランの手に残った熱を、自らの覚悟として受け止めるように、ゆっくりと深呼吸をした。
遠い未来の、平和なキャンパス。
もう、そこには戻れないかもしれない。
けれど、ジュースや手紙で繋がったあの「皇帝」も、目の前で肩を掴むこの「共犯者」も、この時代で必死に生きている人間なのだ。
(いいわ、やってやる……! ドブの中でも、マリオみたいに跳んでやるんだから!)
渚は震える拳を握りしめ、皇帝ナポレオンが待つチュイルリー宮殿という「歴史の深淵」へ向けて、自らの足で一歩を踏み出す決意を固めるのだった。




