番外編:湯浴みと軍医の指先
この世界に拾われて、今日で6日目。
現代の清潔な日本の女子大生である渚は、鏡の前で限界を迎えていた。
「……最悪。もう、自分の匂いで吐きそう。」
これまでは、シャルル、アドリアン、ジャンという、この時代では異常なほど「清潔」な3人に守られ、彼らの私室という隔離された聖域にいた。
しかし、今日。アドリアンの部下を護衛につけて船内を歩き回った瞬間、渚の精神は限界を迎えた。
饐えた体臭が充満する船底。下水が混じったような泥水の樽。
そして、護衛の兵士が黒く汚れた爪で、親切心から自分の腕を引こうとしたこと。
「……無理。もう、一分一秒だって耐えられない!」
甲板に出ると、モンキーパウダーの少年が走り寄ってきた。
「ナギ様、オレはピエールってんだ。この前のお礼をしたいんだ!」
泣き出しそうな渚の前に現れたのは、火薬運びの少年・ピエールだった。渚の脳裏には数日前の記憶が蘇る。
突風で甲板を滑り落ちそうになったピエールの手を、なりふり構わず掴んで引き寄せたあの嵐の日。
「宝石はないけど、俺にできることなら何でも言ってよ!」
必死なピエールに、渚は微笑んで煤けた頬を撫でた。
「宝石なんていらない、ピエール。あなたが無事でいてくれる。それだけで僕は幸せ。……でもね、もし願いを叶えてくれるなら……『お風呂』に入りたいな」
男装の渚は、女とバレぬよう男言葉に務めた。
しかし、ピエールは困り果てた。「お風呂」なんて言葉、この船の誰も知らないからだ。渚は「大きな桶にお湯を張って、体を浸けるの」と切実に説明した。ピエールはそれを「聖人の願い」として、何としても叶えることを誓った。
ピエールが頼ったのは、軍医でありながら東方(オスマン帝国)の医療知識を持つジャンだった。
「風呂? へぇ、こんな船でよくそんなこと思いつくな。お前、なかなか無茶言うじゃん」
ジャンは渚が「検分」の際に見せた震えに罪悪感を感じてた。
「……いいだろう。その『風呂』を、形にしてやる」
ピエールから事情を聞いたジャンは、少し面白そうに笑って偽造した指図書を渡した。
(全身を湯に浸し、汚れを落とす……。フランスの貴族でさえ忌避するそれを、彼女は望んだか)
ジャンは、渚の望みが単なるわがままではなく、彼女が元いた世界の「高度な衛生観念」の現れであることを明確に理解した。
ジャンは、エジプト遠征で見聞きしたオスマン帝国の「ハムマム」を即座に連想した。あそこの連中は、肌を磨き上げることを神聖な儀式のように尊んでいた。
「……いいだろう。彼の望んでいるのは、この野蛮な船には存在しない『聖域』だ。ピエール、火を熾せ。酒樽を運び出し、海水を沸騰させるんだ」
ピエールは力強く頷くと、暗い船底へと駆け出していった。しかし、木造船の軍艦で「お湯をたっぷり用意する」のは、渚が想像するより遥かに困難な、文字通りの命がけの作業だった。
船内で唯一、火の使用が許されているのは厨房の竈だけだ。ピエールは厨房のコックに必死に頭を下げ、ジャンが「急を要する医療処置のためだ」と書いた偽の指図書を盾に、大きな鍋で海水を沸かしてもらった。
問題はそこからだった。
煮え立つ大鍋を、揺れる船内で、人目を避けながら船底の酒樽まで運ばなければならない。
「熱っ……! くっ……」
熱気が皮のバケツ越しに伝わり、手のひらが真っ赤に焼ける。飛沫が飛ぶたびに、ピエールの痩せた腕に火傷の跡が増えていった。
だが、彼は足を止めなかった。転べば大火傷では済まない。それでも、あの嵐の中で自分の手を離さなかった「聖人」の笑顔を思い出すたび、足に力が入った。
ピエールは何往復も、何往復もした。狭く暗い階段を、重い熱湯を抱えて。
最後の一杯を酒樽に注ぎ込んだとき、彼の額からは汗が滝のように流れ、手足は疲労と熱さでガクガクと震えていた。
「……準備、できたよ……っ」
疲労困憊のピエールに、ジャンは手際よく軟膏を塗ってやり、ポンと肩を叩いた。
「よくやった。これ以上ここにいるとサボりがバレて体罰もんだ。ほら、さっさと持ち場に帰れ。誰かに突っ込まれたら、俺の診察の手伝いをしてたって言え。……いいな?」
渚は男装をしているので、入浴中を見られてはお仕舞いだ。頑張ってくれたのだがいたしかないだろう。
「ナギ様、こっちき来てください!」
甲板で風に当たっていると、ピエールに呼ばれて船底へ降りた渚は、目の前の光景に目を見開いた。
薄暗い船底にゆらゆらと立ち昇る白い湯気。大きな酒樽になみなみと湛えられた、温かなお湯。
「うそ……本当にお風呂だ……!」
でも立ち上る湯気には潮の香りがただよい、渚の常識のただのお風呂ではないと察する。
感激する渚の隣で、ジャンが壁に寄りかかりながら口を開いた。
「あいつ、マジで必死だったぞ。何度も海水をくんで、熱湯を手のひらを火傷して真っ赤にしながら、何往復もしてこのお湯を運んだんだ。全部、お前を喜ばせるためだってさ」
ジャンの言葉に、渚は胸が熱くなった。
「ピエール……。お礼をしなきゃいけないのは、僕のほうだったね」
後でこっそりとお菓子をあげよう。
しかし、樽の前にはアドリアンの部下の衛生兵が「離れるなと言われている」と立ち塞がっていた。ジャンはそいつの肩を掴み、低く笑いながら囁いた。
ジャンは護衛に告げる。
「悪いけど、外してくれ。彼には今、特別な『洗浄処置』が必要なんだよ。それとも君は男色なのか?……それとも何か? 明日から死体解剖の助手として、ずっと俺の隣で過ごしたいか?」
軽口の裏にある本気の脅しに、衛生兵は退散した。
二人きりになった船底。
ジャンは渚に布を放ってよこした。
「本来なら下女がやるべきなんだろうけど、この船には俺か、さっきの火薬まみれのガキしかいない。……だから、俺で我慢しろ。」
何を我慢しろ???
渚は困惑しながら、ジャンが後ろを向いている間に、ジャケット、シャツ、さらしと全てを脱ぎ、投げ渡された布を巻いた。
「でもな、俺だってこれ以上アドリアンの反感は買いたくはない。だから体は自分で洗え。俺は、お前の髪だけ洗ってやるから」
「ひっ、一人で全部できます!!!」
その叫びはジャンには届かなかった。
渚を無理やり酒樽に身を沈めると、ジャンの指が髪に触れた。
お湯は塩分のせいでピリピリとした感覚があるが、それよりも温かい湯この6日間で張り詰めていた体がときほぐれていく。
ジャンが髪に貴重な真水をかけ、石鹸を手で泡立て髪を洗う。
その手つきは驚くほど繊細で、頭皮を完璧に揉みほぐしていく。現代のヘッドスパを凌駕する心地よさに、渚の喉から吐息が漏れた。
「……っ、ふ……あ……、ん……」
その時、ジャンの手が止まった。
「……おい。変な声を出すな」
突き放すような、でもどこか余裕のない声。
「外にいる連中に聞かれたら、俺がお前を襲ってるって勘違いされるだろ。……それとも、本当に襲われたいのか?」
渚は顔を真っ赤に染めた。それは湯船の熱さではないだろう。
顔をブンブンと横に激しくふる渚。
ジャンはわざと意地悪く笑いながら、再び髪を洗い上げた。貴重な真水で流し、髪に香油を馴染ませる。
渚は、この過酷な船で初めて、心から安らぎを感じていた。
ジャンは憎まれ口を叩きながらも、手は優しく髪をふきあげた。
船底には潮の香りと、香油のジャスミンとアンバーの「東洋香り」が漂っていた。
そして、それは数日に一度続く渚とジャンの秘密の時間となるのだった。
リフレッシュして執務室に戻った渚と、包まれる香りにシャルルとアドリアンが冷徹な目で見つめていたが、それに渚は気づく由もない。




