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ナポレオン戦争に迷い込んだ女子大生、おねぇ提督とフランス軍を救います  作者: サミダレもふ太
第一章:未来から来た航海士

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戦場の聖域、秘密の香油

この世界に拾われて、今日で6日目。



現代の清潔な日本の女子大生である渚は、鏡の前で限界を迎えていた。



「……最悪。もう、自分の匂いで吐きそう。」


これまでは、シャルル、アドリアン、ジャンという、この時代では異常なほど「清潔」な3人に守られ、彼らの私室という隔離された聖域にいた。



しかし、今日。



アドリアンの部下を護衛につけて船内を歩き回った瞬間、渚の精神は限界を迎えた。



饐すえた体臭が充満する船底。


下水が混じったような泥水の樽。



そして、護衛の兵士が黒く汚れた爪で、親切心から自分の腕を引こうとしたこと。



「……無理。もう、一分一秒だって耐えられない!」



甲板に出ると、モンキーパウダーの少年が走り寄ってきた。


「ナギ様、オレはピエールってんだ。この前のお礼をしたいんだ!」


泣き出しそうな渚の前に現れたのは、火薬運びの少年・ピエールだった。


渚の脳裏には数日前の記憶が蘇る。



突風で甲板を滑り落ちそうになったピエールの手を、なりふり構わず掴んで引き寄せたあの嵐の日。



「俺にできることなら何でも言ってよ!」


必死なピエールに、渚は微笑んで煤けた頬を撫でた。



「ピエール。あなたが無事でいてくれる。それだけで僕は幸せ。……でもね、もし願いを叶えてくれるなら……『お風呂』に入りたいな」



男装の渚は、女とバレぬよう男言葉に務めた。


「風呂……?」

しかし、ピエールは困り果てた。


「お風呂」なんて言葉、この船の誰も知らないからだ。


 渚は「大きな桶にお湯を張って、体を浸ける」と切実に説明した。


「……うーん、よくわからないけど、何とかして叶えてあげるよ!」


ピエールが頼ったのは、軍医でありながら東方(オスマン帝国)の医療知識を持つジャンだった。



「風呂? へぇ、こんな船でよくそんなこと思いつくな。お前、なかなか無茶言うじゃん」



ジャンは渚が「検分」の際に見せた震えに罪悪感を感じてた。


「風呂っていうのできる?ジャン先生?」


「……いいだろう。その『風呂』、ちゃんと形にしてやる」



ジャンは少し面白そうに笑って偽造した指図書を渡した。


(全身を湯に浸し、汚れを落とす……。フランスの貴族でさえ忌避するそれを、彼女は望んだか) 



 渚の望みが単なるわがままではなく、彼女が元いた世界の「高度な衛生観念」の現れだった。



 ジャンは、エジプト遠征で見聞きしたオスマン帝国の「ハムマム」を即座に連想した。



(あそこの連中は、肌を磨き上げることを神聖な儀式のように尊んでいた。)



「……彼の望んでいるのは、この野蛮な船には存在しない。ピエール、火を熾せ。酒樽を運び出し、海水を沸騰させるんだ」



  ピエールは力強く頷くと、暗い船底へと駆け出していった。



 しかし、木造船の軍艦で「お湯をたっぷり用意する」のは、渚が想像するより遥かに困難な、文字通りの命がけの作業だ。



 船内で唯一、火の使用が許されているのは厨房の竈かまど。



 ピエールは厨房のコックに必死に頭を下げ、ジャンが「急を要する医療処置のためだ」と書いた偽の指図書を盾に、大きな鍋で雨水と海水を沸かしてもらった。



 問題はそこからだ。



 煮え立つ大鍋を、揺れる船内で、人目を避けながら船底の酒樽まで運ばなければならない。



「熱っ……! くっ……」



熱気が皮のバケツ越しに伝わり、手のひらが真っ赤に焼ける。



 飛沫が飛ぶたびに、ピエールの痩せた腕に火傷の跡が増えていった。



だが、足を止めなかった。

転べば大火傷では済まない。


それでも、あの嵐の中で自分の手を離さなかった。


笑顔を思い出すたび、足に力が入った。


重い湯を抱え食らい階段を何往復も、何往復もした。



最後の一杯を酒樽に注ぎ込んだとき、額からは汗が滝のように流れ、手足は疲労と熱さでガクガクと震えていた。


「……準備、できたよ……っ」


疲労困憊のピエールに、ジャンは手際よく軟膏を塗ってやり、ポンと肩を叩いた。


「よくやった。これ以上ここにいるとサボりがバレて体罰もんだ。ほら、さっさと持ち場に帰れ。誰かに突っ込まれたら、俺の診察の手伝いをしてたって言え。……いいな?」



(渚は男装だ。入浴中を見られてはお仕舞いだ。頑張ってくれたのだがいたしかないだろう。)



「ナギ様、こっちき来てください!」



 甲板で風に当たっていると、ピエールに呼ばれて船底へ降りた渚は、目の前の光景に目を見開いた。



薄暗い船底にゆらゆらと立ち昇る白い湯気。


大きな酒樽になみなみと湛えられた、温かなお湯。



「うそ……本当にお風呂だ……!」



でも立ち上る湯気には潮の香りがただよい、渚の常識のただのお風呂ではないと察する。



感激する渚の隣で、ジャンが壁に寄りかかりながら口を開いた。



「あいつ、必死だったぞ。何度も海水をくんで、熱湯を手のひらを火傷して真っ赤にしながら、何往復もしてこのお湯を運んだんだ。全部、お前を喜ばせるためだってさ」



ジャンの言葉に、渚は胸が熱くなった。



「ピエール……。お礼をしなきゃいけないのは僕のほうだよ。ありがとう」

(後でこっそりとなにかお礼をあげよう)



しかし、樽の前にはアドリアンの部下の衛生兵が「離れるなと言われている」と立ち塞がっていた。



 ジャンはそいつの肩を掴み、低く笑いながら囁いた。

ジャンは護衛に告げる。



「悪いけど、外してくれ。彼には今、特別な『洗浄処置』が必要なんだよ。それとも君は男色(ソドミー)なのかな?……それとも何か? 明日から死体解剖の助手として、ずっと俺の隣で過ごしたいか?」


「い、いえそのような事はありせん!!失礼します!」


軽口の裏にある本気の脅しに、衛生兵は退散した。

ピエールも手を振り持ち場へと戻る。


二人きりになった船底。


ジャンは渚に布を放ってよこした。


「本来なら下女がやるべきなんだろうけど、この船には俺か、さっきの火薬まみれのガキしかいない。……だから、俺で我慢しろ。」



( 俺でって、何を我慢するの???)



 困惑しながら、ジャンが後ろを向いている間に、ジャケット、シャツ、さらしと全てを脱ぎ、投げ渡された布を巻いた。



「でもな、俺だってこれ以上アドリアンの反感は買いたくはない。だから体は自分で洗え。俺は、お前の髪だけ洗ってやるから」


「ひっ、一人で全部できます!!!」



その叫びはジャンには届かなかった。



渚を無理やり酒樽に身を沈めると、ジャンの指が髪に触れた。



お湯は塩分のせいでピリピリとした感覚があるが、それよりも温かい湯この6日間で張り詰めていた体がときほぐれていく。


(気持ちいい。生き返る……当たり前の事がこんなにも幸せなんて)


ジャンが髪に貴重な雨水をかけ、石鹸を手で泡立て髪を洗う。


(……美容室みたい)


その手つきは驚くほど繊細で、頭皮を完璧に揉みほぐしていく。現代のヘッドスパを凌駕する心地よさに、渚の喉から吐息が漏れた。



「……っ、ふ…………、ん……」



その時、ジャンの手が止まった。



「……おい。変な声を出すな。襲われてると勘違いされるだろ」


 突き放すような、けれどどこか「余裕のない」声。


「あの……、違うんです!」


 ジャンはわざと意地悪く笑い、仕上げに東洋の香油を髪に馴染ませた。


 ジャスミンとアンバーの甘い香りが、潮風の吹く船底に漂う。


(すごくいい香り……、さっきまでのすえたような艦の匂いが嘘みたい)


 それは、過酷な航海の中で渚が初めて得た、二人だけの「秘密の時間」だった。


「なんかピエールに頼んだお願いを、ジャンさんが叶えたみたいになっちゃっいましたね……ありがとうございました」


「ふん。ジャンでいい、敬語もいらない。また気が向いたら洗ってやるよ」


「ふふ。お願いします」


 リフレッシュして執務室に戻った渚。


 彼女を包む甘い香りに、シャルルとアドリアンの目が冷徹に細められたが――。


 渚は、まだそれに気づく由もなかった。

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