第116話:潮騒の遠鳴り、黄金の門出
1804年3月15日。
カディスの空は、嵐の前触れのような不思議な静寂に包まれていた。
石畳を叩く馬の蹄の音が、海風に乗って高く響く。
パリへ向かう馬車の前には、数ヶ月の激動を共にした面々が、それぞれの想いを胸に顔を揃えていた。
「……本当に行ってしまうのですね。ナギ様」
レオノールは、寂しさを隠すように無理な微笑みを浮かべて渚の手を取った。
海の道を開き、カディスに繁栄をもたらした女神。
だがレオノールにとって、彼女はそれ以上の存在だった。
突飛なレシピを共に完成させて笑い合い、傷つきながらもまた戻ってきてくれた。
姉のようであり、守るべき友人であり、そして何よりこの街の希望そのものだった。
「うん。貴女たちと守ったこの海を、私は忘れない。……またいつか、私の思い付きレシピに付き合ってくれる?」
問いかけに、レオノールの鼻がつんと熱くなった。 必死に涙を堪え、鼻をすする。
(きっと、二度と会えない)
そんな予感があった。
今、この温かな手を離してしまえば最後なのだと分かっている。けれど、彼女は言わなければいけなかった。最高に前向きな、別れの言葉を。
(ナギ様、大好き。ずっと、ずっと、大好きよ)
「ええ! 勿論ですわ!」
レオノールは顔を上げ、ジャンとアドリアンを真っ直ぐに見据えた。
(シャルル様は……分からない。あの人はナギ様を危険に晒す。この方が何を望み、何の為にナギ様を連れて行くのか私には分からないけれど……)
スカートを握る手が震えているのを、二人は見逃さなかった。
「ジャン様、アドリアン様……ナギ様を、どうかよろしくお願いしますわ」
「レオノール。ナギサを、命に代えても守ると誓う」
アドリアンの言葉には、騎士としての、そして一人の男としての真っ直ぐな情熱が宿っていた。
対してジャンは、いつも通りの調子で鼻を鳴らす。
「ふん……ナギの無茶を止めるのが俺の仕事だからな。これ以上余計な怪我をしないよう、俺の目が届く範囲に置いておくよ」
「ええ。ナギ様は私より年上なのに、本当に手がかかりますから!」
レオノールは精一杯の笑顔で応じ、渚は「もぅ! 私はこれでもれっきとした成人女性だよー!」と頬を膨らませた。
その光景から少し離れた場所で、ロドリゴの声が地を這うように響く。
「この街の『裏』は、俺の野郎どもがネズミ一匹通さず見張っておく。二度と、あの日(ナギが襲われた日)のような不覚は取らせん」
軍服を着ぬ街の傭兵として、魂を込めた決意表明だった。アドリアンはその覚悟を受け取り、深く、重々しく頷いた。
一方、馬車の陰ではニコラとエミールが言葉を交わしていた。
若き特使エミールは、重責を果たし、どこか晴れ晴れとした顔をしている。
「ニコラさん。……貴方に教わった『交渉術』、一生忘れません」
「よしてください、エミールくん。何だか私が死んで思い出になるように聞こえますよ。それとも、ここでさっさとうるさい上司に死んでほしいとでも?」
「そ、そんなことありませんよ! 何を言ってるんですか!?」
ニコラは皮肉げに唇を歪めながらも、エミールの肩を一度だけ、激励を込めて強く叩いた。
ニコラはこれから、ロドリゴら街の実力者たちと連携し、フランス軍の公式な命令系統すら通さない「非公式な防衛網」を構築する。
それは、一介の文官にできる範疇を遥かに超えた、冷徹な統治の始まりでもあった。
「さぁ、あなたの『親熊』――バディスト殿がマドリードで待っていますよ。パリまでの長い道中、また温めてもらいなさい」
「結局、僕はニコラ様の馬には乗せてもらえませんでしたね……」
「ふん。それは私の役目ではないと言ったでしょう。パリへ着いたら、ルブランに乗せてもらうがいい。……ただし、決して手綱を離してはいけませんよ」
ニコラの鋭い眼差しが、これからのパリの運命を予見しているようで、エミールは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「ナギ様、これ……」
別れの間際、レオノールが馬車の窓越しに、小さな刺繍の入った袋を渚に手渡した。
中には、カディスの太陽を浴びたオレンジの花のポプリが詰められていた。
「パリは、ここよりずっと寒くて、空気も濁っていると聞きます。……道中、この香りを嗅いで、どうかカディスの春を思い出してくださいね」
「……ありがとう、レオノール。また、必ず会いに来るから。その時はまた髪を結って、一緒に市場に行こうね」
渚の笑顔に、レオノールは今度こそ心からの笑みを返した。
「出発するわよ、みんな!」
シャルルの凛とした号令と共に、御者が鞭を振るった。
黄金と女神を乗せた馬車は、カディスの潮騒と、ロドリゴら「街の守り人」たちの視線を背に受け、泥濘の北――ピレネーの檻、そして狂乱のパリへと走り出した。




