Scene7
若干の視線を感じながら、家に帰るために席を立った。
最近は帰る時間になるとこうやって視線を浴びることが増えた。理由は分かっているが、どうしようもできない。
以前は悪戯の標的としての好奇の視線だったと思うが、今は別の感情で見られているのをなんとなく把握している。聞こえた会話から察するに、「小崎さんは他の学校に彼氏がいる」という噂が流れているらしい。
少し前に神谷さんが校門に来て私を連れ出したことによって噂が広がり、私が帰る時にまた迎えにくるのではないかという、期待の視線を浴びている。生憎恋人でもなければ迎えに来ることもないので期待には応えられない。
でも、彼との関係は悪くないと思う。もう二回も電話しているが、今では会話が途切れることはほとんどないし、表情は勿論見えないのだが微笑みながら会話してくれているように思う。時折、控えめな笑い声が聞こえたりもする。
実際に会っている時はほとんど会話することなく、周りの目を気にしているようだった。本人も言っていたが、彼はあまり評判が良くないとのことで、私にまで影響が出てしまうのを懸念していたらしい。ライブラリーラウンジで初めて会話した時も頻繁に会う関係性になることはないと思っていたらしく、矢代さんとの会話をあまり邪魔しないようにしていたとのことだった。
彼が周りを気にしているというのは私自身が学校生活で体感した。一部の男子…とりわけ見た目が怖かったり、あまり良くない噂のある男子が、私を見てあからさまに怯えた顔をするようになった。
彼のことを知っている人間は寄ってこなくなる、ということを身を以って知った。確かに「自分と関わるとその後の人間関係が不利になる」という言葉は、人によってはそうなのかもしれない。
私にはもちろん当てはまらない。そもそも私と仲良くなろうとする生徒は男子女子問わずこの学校にはいない。私自身も既に改善不可だと理解しているので不利になりようがない。
そんな私が何故期待の視線を浴びているのかというと、その視線を向けているのは主に女子生徒。彼のことを知らない生徒は、一目彼を見たいと期待の視線を向けているらしい。あの状態の彼を一度見てしまうと、もう一度見たくなるというのはとてもよく分かる。そして、人に話したくなるくらいに記憶に残ることもよく分かる。
あの日、私がロングホームルーム終了直後一番手を競うくらいに早く校門に移動したことも噂を広める一因になっていた。帰ろうとする生徒が多数いる中、校門を塞ぐように私達がやり取りをしていたので、彼の姿を見た人間が予想以上に多くいたらしい。
以上から、彼のことをもう一度見たい、もしくは初めてお目にかかりたい、という気持ちから期待の目で見られているらしい。
「小崎さん」
靴箱からローファーを取り出していつも通り靴の中を確認していたら、声をかけられた。当然ながらほとんど会話したことはないものの、誰なのかはすぐに分かった。
「…」
椎名さん。神谷さんと初めて会ったダンスクラブ…ではなくバーに一緒にいた女子生徒だった。そして、遅れてやってきた神谷さんに対して一番最初に声をかけ、即座に門前払いをされた女子生徒でもある。
同姓の私でも、椎名さんが男子生徒から人気があるのが簡単に納得できるくらい見た目が良い。SNSに写真を載せればすぐにメッセージやリアクションが何千、下手をすると何万と届くだろうし、スタイルだっていい。綺麗な茶色の髪は何度も試してようやく辿り着くくらい顔の造りとマッチした色合いだし、同じ制服を着ている筈なのに椎名さんが身に着けるだけで何十倍も魅力的に見える気がする。それなのに校則から大きく外れるくらい着崩している訳ではないのが不思議になる。
「あの日ぶりだね」
「…はい」
椎名さんとは仲が良い訳ではない。だが、仲が悪い訳でもない。いつもみたいな悪戯をされたこともなければ、するような人でもない。そもそもクラスが違うので関わったこともあまりなく、廊下ですれ違ってもお互いに挨拶さえしないし視線を合わせることもない。
要するに、同じ建物の同じ催し物にたまたま一緒にいただけの関係。
だからこそ、何故話しかけてきたのかが分からなかった。普段なら私は椎名さんを認識しただけで何事もなく帰路につくし、彼女も靴の中に何かされていないかと疑う私を見たとしてもおそらく声をかけない。
「…この間、彼が迎えにきたんでしょ?」
「…」
答えられなかった。この場合の、「彼」が何を指すのかが分からなかった。恋人という意味であれば当然ノーなのだが、神谷さんのことを言っているのであれば…イエス、なのだろうか?待ち合わせはしていなかったので迎えと言うには微妙な気もするが。
「付き合ってるの?」
「いえ、全く」
今度は即答した。さっきの質問がどっちの意味だったとしてもこれで解決した。
椎名さんは考えたように目を逸らした。私も少し考えて、口に出す。
「ただの、知り合いです」
何か言葉を付け加えようかとも思ったが、やめた。神谷さんは私の身を案じて関わることを躊躇していたらしいが、神谷さん側にも私と関わっているということを誰かに知られると何かデメリットがあるのかもしれない。とはいえ全くの無関係というのはバーでの出来事と校門での出来事がある以上無理があるので、知り合いという曖昧な表現で留めておいた方が良い気がした。それに間違いでもない。
「そう。まあ、見かけて声かけただけだから」
「…はい」
椎名さんは私に手を上げて別れを告げると、靴箱の裏側に移動した。おそらく別の人を待っているのだろう。何故声をかけてきたのか分からなかったが、本当にたまたま見かけて思わず声をかけたのか、噂を聞いて気になったから声をかけたのかもしれない。
相変わらず感じる居心地の悪い視線から逃げるように、いつもより足早に校門を出た。
◆
「五冊目、読み終わりました」
通話して軽くやり取りをした後にそう告げると、電話の向こうの神谷さんが言葉に詰まった。
「…ご都合が悪ければ、来週でも」
「いや、そういう訳ではないんだ」
五冊目、つまり九冊借りたうちの半分を読み終えたら一度本を返しに来て欲しい、という提案を事前にいただいていた。なので、約束通りに読み終えたことを告げたつもりだった。もちろん都合が悪ければ次の週に変更すればいいだけではある。
「…まあ、大丈夫かな。時間は前話した通り午前で大丈夫?」
少し気になるが、私の方から聞く訳にもいかないので気にしないことにした。
「はい。十時半に、エントランス前ですよね?」
本を返すだけなら午後に訪れるだけで問題はないのだが、どうやら矢代先生が私と話したいということで午前に来て欲しいと言われた。私自身もお借りした本の感想を言い合えるのは楽しいし嬉しい提案だったので、二つ返事で受けることにした。
「うん。でも、事前に伝えてた部屋番号だけ変更させて」
「あ、はい。少々お待ちください」
受話器を頭と肩で挟み、電話機を置いている棚からメモ用紙を取り出す。
エントランスにお二人がいなかった場合、共用インターホンから呼び出してほしいと伝えられていた。呼び出す部屋番号に変更というのも少し不思議だが、矢代先生の身体的ハンデを考えると何か仕掛けがあるのかもしれない。
「ああ、でも大して変わらないから」
そう言うと、以前に伝えられていた部屋番号と一つだけ違う番号を告げた。神谷さんと矢代先生は隣に住んでいるとのことなので、どちらかがどちらかの番号なのだろう。ちゃんとメモを取っておく。
「…というより、本当に迎えに行かなくて大丈夫?」
「はい。道も覚えてますし、そこまで遠くないので」
お世辞ではなく、本当に遠くない。少なくとも通っている学校に比べると格段に近いし、なんなら普段通っている図書館よりも近い。これだけの距離のために彼がこっちに来るのが申し訳ないと思うくらいではある。
それに、彼のためにも人の目があるところでは一緒にいない方がいい気がする。私も一緒にいる間はできるだけ今みたいに友好的に会話したいので尚更だ。
「明るいから大丈夫だとは思うけど…気を付けてね」
「ありがとうございます」
知ってはいたものの、電話するようになってから彼の優しさを感じる瞬間がより増えた。以前私の学校に来た時の柔らかくて甘い雰囲気も、元々の彼の性格に近いからこそ完璧に演じることができるのだと思う。というより、元があっちで普段は敢えて意識して仏頂面をしているようにも思う。
「五冊目は何を読んだの?」
こうして本の感想を話すのも定番になっていた。実際に会って話す機会は矢代先生に譲る、という方針のようで、彼との感想会は電話で既に行っていた。実際矢代先生は知識が深いので自ら神谷さんに話を振らない限りは無限に話せるし、神谷さんは以前のように茶菓子を作ったりと席を外すこともあるのでいいのかもしれない。
「『雑草譚歌』を読んでました。短編集はあまり読んだことがなかったんですが、すごく面白かったです」
『雑草譚歌』は神谷さんが私に合いそう、ということで持ってきた本の中の一冊だった。矢代先生もお墨付きの一冊で、様々な作家が雑草の種類一つ一つに焦点を当てて物語を書いた短編集だった。
「ああ、あれは面白いね。一番記憶に残ってるのは『ダンデライオン』かな」
神谷さんは最近読んだ訳ではないと思うのだが、それでも内容を覚えていることが多い。記憶力がいいのか、それとも印象に残った本だから覚えているのか。
「私はどれも良かったんですが、特に『伸びすぎた土筆』が印象的でした」
ダンデライオン…つまりタンポポとつくしは植物の中でも一般的な植物なものの、雑草として扱われることが多い。「雑草という草はない」という言葉を残した偉人が言った通り実際に雑草という名前の草はなく、全ての植物に名前があるが、生物学や社会学のような観点で定義した場合、雑草として扱われてしまうらしい。
「小さい頃に読んだおかげで、目に見える全ての物に名称があったんだなって思うようになって、一時期は色んなものを調べる習慣がついてたな」
「わかります。登下校で歩いている時に、今までずっと目に入ってた草の半分の名前を知らないことに気付かされました」
電話の向こうで彼が笑ったのが分かった。特に私の言葉で好意的に笑ってくれる人なんて今まで全然いなかったので、他愛もないと理解しつつも嬉しくなる。
そのまま感想会は続き、遅い時間になっても着るのが名残惜しいと思うくらいに楽しい時間を過ごした。
最近の暗い出来事を吹き飛ばすような夜は、すぐに更けていった。
◆
日曜日、予定より少し早く到着する十時に家を出た。特に理由はないが、強いて言うならば楽しみすぎて早めに家を出てしまったと言うべきだろうか。
天気は雲が少し出ているくらいの晴れ。夏も近付いてきているので少し汗ばむくらいの暑さになっている。とはいえ長い距離を歩く訳でもないので汗だくになることはないと思う。
それに、今日は風もかなり強い。学校の制服は除いて、ヒラヒラした服やスカートはほとんど身につけない上に髪も常に後ろで一つにまとめているのであまり影響はないが、それでも伸びてきた前髪と右手に持っている本の入った布バッグが風が吹くたびに揺れてしまう。これから人に会うので汗をかかないのはまだいいことだが、借りた本が少し心配になってしまう。
昼だというのに相変わらず人通りのない道を歩いていく。今日は何を話そうか、自分と違う感想が聞けるかもと考えていた時だった。
「!」
癖で俯いていた所、いつもは聞こえない筈の音が聞こえてふと顔を上げると、目の前に白い何かが現れた。すぐさま顔を横に倒すように避けると、私の右肩の辺りを通り過ぎていった。一瞬の後、白いビニール袋が飛んできたのだと理解した。
風が強かったため、何処かから飛んできたのだろう。かなり驚いてしまったが、避けられて良かった。
同じ目に遭う人が出ないようにキャッチしておけば良かった、と思いながら振り返ると、ビニール袋は既に走っても追いつけないほどの距離に、それもジャンプしても到底届かない上空に舞い上がっていた。
「…」
そのまま、元々の進行方向に向かって歩き出す。さっきと同じように、俯いたまま。
本を確認するようにして、布バッグの中を探った。でも、本以外は財布と水筒、それと手土産のバームクーヘンしか入っていない。普通の女子高校生が持ち歩くような手鏡もなければ、当然化粧ポーチのようなものもない。
早めに家を出たので時間には余裕がある。思いついたように方向転換をして、少しだけ人通りの多い道へ移動してコンビニに向かった。
「…いらっしゃいませー」
休みの日なのに…休みの日だからなのか、私以外のお客さんがいない。ゆっくりと商品を見て回った後、店の壁掛け時計を確認して一番安い無香料の制汗シートを購入した。
「あざっしたー」
若干迷惑そうな視線を浴びながら、コンビニを出る。このまま歩けば、時間ぴったりくらいでお二人のマンションに到着する。
いつもの道とは違う道を歩いているので、信号もいくつかある。勿論それも計算に入れているので時間的には問題ない。
一つめの赤信号に立ち止まる。またしても正面から強風が吹いてきたので、身を守るように背中を向けた。
「…」
前にも後ろにも、数人くらいしかいない。信号の意味があるのだろうかと思うくらいに車通りもないが、今の私には助かっている。
風が少し弱まったので前を向く。ちょうど信号も青になったので、今までと同じ早くもなく遅くもないペースで歩き出す。
同じように俯いてはいるが、目線はずっと前に向けていた。
「!」
顔を上げて、二つめの横断歩道に向かって走り出す。信号は青で点滅していて、今にも赤に変わりそうになっていた。ほとんど全速力で走ったものの、私が渡り終わる前に信号は赤に変わった。それでも八割は渡っていたので、ギリギリセーフ…と言えないだろうか。
信号を渡り終えた後、走った勢いで少しだけ足早に進み、一つめの道を右に曲がる。
そして、すぐさまもう一度全速力で走り出す。
たぶん、誰かに尾けられていた。単なる偶然か被害妄想と言われればそれまでかもしれないが、家を出た時から今までずっと、同じ人物がほとんど同じ距離を保ちながら私の後ろにいた。
家を出た時は珍しく同じ進行方向に人がいると思っただけだったが、ビニール袋の行方を確認するために振り返った際に明らかに私から隠れるようにして動いた。コンビニに入った時は中までは入ってこなかったが、結構時間をかけた後にコンビニを出てもまだ外にいて、一つめの信号で偶然を装って振り向いた時にも同じ距離を保ち続けていた。
わざとギリギリで信号を渡った後、誰かが走って追いかけてくる気配はなかった。今は信号待ちしてるか、迂回して信号のない道を走って追いかけてきているか。それか、本当に私の気のせいで追いかけてきてなんかいないか。
でも、偶然にしては重なりすぎている。尾けられていなかったとしても、用心しておくに越したことはない。
もしビニール袋が飛んでこなかったら。元々選んだ道が人通りが多くて、同じ進行方向に人がいることに少しも気が行かなかったら。一つめの信号待ちの時に強風が正面から来なかったら。もしかしたら、私は全く気が付かなかったかもしれない。
…それ以前に、今まで気が付いていなかっただけかもしれない。
目的地のマンションに駆け込み、エントランスに入る。ただ、エントランスだけは誰でも入ることができてしまう。周りは一応確認したので姿を見られてはいないと思うものの、もしも尾けられていたのが初めてじゃなかったとしたら、私を見失ったとしてもここには辿り着くことになる。
「…大丈夫?」
神谷さんがエレベーターの前にいた。途端に安堵感で身体の力が抜ける。
神谷さんは不思議そうな顔こそしているが、もう前までの周りを寄せ付けないような雰囲気は出していなかった。電話で話している時のような柔らかい雰囲気に近い。
呼吸が整わずに会話がままならない私を待っていたようだったが、後ろにあるエレベーター二つのうちの一つが上にいったことに気付き、もう一度私の方を見た。
「一旦移動しようか」
私が頷くと、エレベーターのボタンを押して中に入った。続いて私も中に入ると、神谷さんは鍵を取り出してエレベーターのボタン付近に差し込んだ。
おそらく、防犯対策で特定の階にしか移動できないようになっているのだろう。今まで実際に見たことはないが、何かでこういうエレベーターがあることは知っていた。
何はともあれ、これで後ろにいた人が追いつけることはなくなった。
「…今日、先生が缶詰なんだよね。だから…嫌じゃなければ、俺の部屋で待つことになるけど大丈夫?」
「…はい」
ようやく話せるようになってきたので、頷いた。同時に、さっきまでとは違う緊張感が私を襲う。友達の家に遊びに行ったのは、小学校低学年が最後。それも、女の子の家だけ。男の子の家に行ったことは人生で一度もない。今日がその一度目になる。それも、憧れる人の。
「元々昨日で間に合う予定だったから、そんなに時間はかからないと思うけどね」
「お邪魔します…」
玄関を通ると、ふわっとコーヒーの香りがした。アロマ代わりと言えるくらい、玄関を通った時だけ気付くようなほんのり香る程度だが、緊張感が少しだけ落ち着く。
部屋は一人暮らしには少し広いくらいの1LDKだった。私の家と同じくらいだろうか。それでも築年数三十年は超えるであろう私の家とは圧倒的に部屋の高級感が違う。
内装はシンプル且つ質素で、必要最低限とまでは言わないが余計な物が無いように思える。良く言えば綺麗に整頓されていて、悪く言えばあまり個性が無い。
LDKと一部屋が引き戸で仕切られているようだが、今はフルオープンになっているので余計に部屋が広く見える。ただ、奥の部屋には机とデスクトップパソコン、それに棚が一つあるだけでベッドがない。その代わり、LDK側の部屋にダブルベッドくらいの大きさのソファがある。これがソファとベッド兼用になっているのだろう。
「…変な意味じゃなく、シャワー浴びる?」
「…」
少しドキっとしたが、彼が口を出すくらいに私が汗だくなのが問題だ。身に着けているシャツは雨に濡れたかのようにびっしょりと濡れているし、下着も身に着けているのが煩わしいと思ってしまう。部屋の温度を下げてくれているからこそ、この濡れた衣服がさらに気持ち悪くなる。
他人の家のシャワーを借りるのは色々と壁があるものの、今の私の状況はそれを軽く飛び越える力を持っていた。今の状態でソファに座るのも気が引けるし、そもそも私自身も何かに座るのが嫌になるくらい汗を掻いている。神谷さんもこういう状態の人を家に居させたくはないのではないだろうか。
「衣類乾燥機もあるから、先生が来る前に洗濯と乾燥も終わると思うよ。待ってる時間も暇だし」
神谷さんの後押しも受けて、私の心の中の複数の壁は音を立てて崩れた。
「すみません、お借りしてもいいですか…?」
彼は悩むことなく即答で快諾すると、私を脱衣所に促した。
洗面所も新築かと思うくらい綺麗にされていて、水垢どころか蛇口の金属部分までピカピカだった。彼と通話をした時の世間話で矢代先生の身の回りの家事全般を行っていることは聞いていたが、自分の家の掃除も完璧なようだ。
神谷さんは洗濯機と乾燥機の使い方をひと通り説明して、洗濯用洗剤やシャンプー、ドライヤー等の位置も丁寧に教えてくれた。ほとんど経験はないが、まるでホテルにでも来たような感覚だ。
「タオルはストックがあるからいいけど…着るものが困るか」
「いえ、あの、そこまで気を遣わなくても…」
誰がどう見ても百パーセント私が悪いので、正直あまり手を煩わせたくはない。捨てる予定だった古着とかでも構わないのだが、それを着られるのももしかすると嫌がられるかもしれない。
神谷さんは透明な袋に入った、明らかに新品のタオルを開けて私に渡しながら考えたように斜め上を見た。
「先生から色々借りられればいいんだけど、編集者の人が来てるから俺も入れないんだよね。連絡がこないってことはまだ缶詰だろうし」
電話で教えてもらったが、矢代先生は現役の小説家先生だった。それも、彼と会った時に名前を出した霜月八城先生とのことで、本に造詣が深いのも、私に読んだ本の感想を聞きたいというのもお仕事の影響らしい。矢代先生本人も私に伝えていいと言ったらしく、私が訊かずとも神谷さんの方から教えてくださった。
霜月八城という作家は読み手を選ぶものの、ハマる人はどっぷりと漬かるくらいにはコアなファンを引き入れる。万人受けするというよりも、受けた人間の人生に変化を与えるくらい強い影響を持つタイプの作家のため、ライトなファンが少ない代わりに熱狂的でヘビーなファンが大半を占める。
その影響もあってか、本来の執筆活動と並行で定期的に短編や掌編を雑誌に掲載している作家でもある。定期的とは言ってもかなりの頻度で作品の代わりに「今回は休載です」という文章が掲載される人でもあるので編集者が監視しないと書き上げない時もあるのだとか。
ここのところ休載が続いていたので、おそらく今日はそういう日なのだろう。
「プロット消してやり直しした辺りで怪しいとは思ってたけどね。本人は昨日で終わるって断言してたけど」
思えば、一昨日神谷さんが今日の都合が悪そうな反応をしていたのはこれが理由だったのだろう。神谷さん自身は間に合わないと予想していたものの、矢代先生が間に合うと言っていたので予定を延期せずに私を招いたようだ。
「…一応新品だし、これでいいか。最悪先生が来たら何か借りれるだろうし」
私に衣服を渡し、困ったら扉叩いて、と告げて引き戸を閉めた。矢代先生とは身長に大きな差はないが、体型、というよりも上半身に絶望的なまでの差があるので少なくとも下着のサイズは間違いなく合わない。機械の表示を見る限り洗濯と乾燥にさほど時間がかからなさそうなので借りることもないような気もする。
衣類を洗濯機に入れて、言われた通りに洗剤と柔軟剤を入れてスイッチを押した。眼鏡を渡されたタオルの上に置いてそのままお風呂場に入り、少し緊張しながらも身体を洗い始めた。




