余談18 ゴードンの話
侯爵夫妻の腕に2人目の御子が抱かれたとき、ゴードンは執事見習いから産まれたばかりの坊っちゃんお付きの世話係に任命された。
目端の利く青年だったゴードンは非常に不満であった。
何故あってこれほど有能な己を赤ん坊の世話係にするのか、あなたの眼は節穴か?と、執事長に直談判にも行った。
幼くして執事教育を学ぶ専門の学校に通い、16歳で念願の執事見習いとしてヴァンヘイデン家に仕官してから、10年間だれよりも優秀な見習いとして侯爵からも期待を受け、次期執事長候補として胸を張って仕事を熟してきた。
忠義に篤く、侯爵家に心を砕いてきた己が赤ん坊の世話役とは、情けなくて涙もでない。
赤ん坊など乳母に任せておけば、勝手に育つ!と乱暴な物言いで、彼は執事長に迫ったが、侯爵たっての希望である、と言い放たれて、言われるままにゴードンは内心の憤怒を押し隠して侯爵夫人の部屋に向かった。
これが出世なのか、左遷なのか。
正直なところ、屋敷で働く誰もが判断のできないところであった。侯爵の覚えが目出度いと考えれば出世だが、仕える御子は次男である。
嫡男として次期侯爵は長男のバージルがいるとすれば、この配置換えは左遷ともみえる。
謎の人事に屋敷の誰もが首を捻っていた。
普段からにこやかな笑みを顔に張り付けているゴードンは決してそれ以外の表情を面に現すことはないが、内面は実に熱く滾っている男であるのは周知の事実だった。
あれを怒らせると手に負えない、とみなが影で口にして密かに怖がる人物でもあった。
嘘かまことか、10年間で囁かれた彼の逸話なら数限りなく存在する。
茶器を扱う際にほんの少しでも音を立てた侍女に12時間以上の猛特訓を麗しい笑みをみせて課した。僅かな時間、訓練をサボった騎士を相手に剣をとり、にこやかな笑顔のままボコボコに打ち負かした。同じ執事見習いが就業時間内に軽口を叩いたと微笑みを浮かべて怒り、図書室に監禁して24時間の講義をした。長期休暇には実家に戻らず、屋敷に残り、帰りたがっていた料理長を引き留め、宮廷料理を作れるようになるまでにこやかに特訓させた、など挙げればキリがない。
そのどれもが彼の清廉潔白な人物を描き、完璧主義者であることを示し、己だけでなく他者にもそれを負わせる苛烈な性格であることを物語っていた。
だからこそ、誰もが思っていたのだ。
彼に優しささえあれば、人として本当に完璧なのに…と。
夫人の部屋へ向かうゴードンの姿は実に優美で、滑るように歩いていたが、彼は怒りに煮えたぎっていた。
だから入室許可の応えがあって、部屋に入り、夫人に言われるままに乳母から赤ん坊を抱かされたとき、己がこれほどまでに蕩けてしまうとは信じられない思いだった。
ほやほやの薄い銀髪が柔らかく、薔薇色に燃える頬は芳しい香りを放ち、まだうっすらとしか開かない瞳は微かに金色に輝いていた、美しい赤ん坊は小さく、弱々しく、そして温かかった。
身の内を渦巻いていた憤怒と失意など、瞬く間に霧散して、ゴードンは己の腕にある素晴らしい存在をこれから先、己が護るのだと思うと、感動で涙が溢れた。
泣いた本人も僅かに驚いたが、周囲で彼の涙を目撃したものたちの狼狽は凄かった。夫人でさえ、不安そうに彼を覗き込んでいたくらいだ。
ゴードンはこのときから坊っちゃんの忠実なる世話役として邁進していくことになる。
バージルはこのとき5歳。
アランは7歳になっており、彼が13歳になったら従者として本家に来ることがすでに決まっていた。
ゴードンの坊っちゃんはウィリアムと名付けられた。
バージルを護る騎士として、己の信念を見失わない騎士として、そして無辜之民を労れる騎士として成長するように願いを込めて。
意思ある兜、の意を持った名が彼には与えられたのだ。
ゴードンは身の引き締まる思いだった。
護るだけではない、導き糺してこその世話役だ、と彼はさらに己に過酷な努力を課した。
が、それさえも楽しく、今まで以上に充実した日々を送った。
赤ん坊の世話役といっても、ウィリアムが3歳を越えるまでは傍で護ること以外することはなかった。彼ひとりで世話をしたくとも、侍女も乳母もさせてくれるわけがなかったのだ。
彼女らにも彼女らの矜持があって仕事をしているのだから当然である。
しかし、言葉を理解するようになり、とことことでも歩けるようになるとゴードンが黙っていられなくなった。
毎日毎晩のように小難しい本を読み聞かせ、散歩と称した訓練を行い、食事という名のマナー教室が開かれた。
周囲からみれば、まだ幼いウィリアムには苛酷なまでのメニューに思えたが、本人は至ってけろりとして熟していた。
それ以外の生活を知らないので、ウィリアムはそういうものだと思って成長していたのである。
ゴードンの教育の賜物か、はたまた弊害か、たまに侍女が絵本を読み聞かせると、ウィリアムは不思議そうな表情で、物語に整合性がない、と一刀両断に投げ捨てるような可愛げのない子供に育ちつつあった。
ちょうどその頃、侯爵がバージルに従者を付けるのを諦めて、アランをウィリアムに仕えさせることを決めたので、ゴードンは侯爵から彼を紹介された。
よく陽に焼けた快活そうな少年はゴードンに紹介されるなり、腕が千切れるかと思うほどの力でぶんぶんと振り回して握手をして、大きく破顔した。
そして礼儀もなにも教わらなかったのかと眉を顰めるほどのざっくばらんな挨拶をしたのだ。
「俺はアラン、ウィリアムの遊び相手みたいなもんだ。宜しく頼むよ」
侯爵の甥とは知ってはいたが、ゴードンはこれを鍛え直さなければ大切な坊っちゃんに悪影響が出る、と恐怖した。
この初顔合わせからゴードンとアランの相容れない不幸な関係ははじまったのである。
ゴードンの教育により、厳格に礼儀正しく所作も優雅に美しく、アランの訓練により、雄々しく強くそして破天荒な行動力を持つ男にウィリアムは育っていった。
バージルも性格に嗜虐性が垣間見えつつも、賢く育ち、侯爵の補佐として職務を熟し、ウィリアムは騎士として美しく正しく成長し、侯爵家は安泰かと思われたとき、遠乗り中の落馬により侯爵が寝たりきりになる不幸に襲われた。
それからは坂道を転がり落ちるように災難が続いた。
侯爵が亡くなり、その死を悼んだ夫人が病んだ。
侯爵家に暗雲が垂れ込め、いかに祓おうともどうしようもないときに吟遊詩人のロベルトが彗星のごとく煌びやかに現れた。
これが更なる不運のはじまりだったが、夫人に笑顔が戻っただけでも屋敷のみなは単純に喜んだ。
だからこそ、ロベルトは歓待を受けたのだ。
ゴードンはこの男が嫌いだった。
彼のなにかが危険を察知して、決してウィリアムに近付けてはならないと激しく警告を発していたからだ。実際、急激に仲を深めたバージルの残虐性が増したのがいい証拠だと、ゴードンは考えていた。
暫くしてバージルの相貌に大きな変化があった。
もともと美しい男だったが、苛烈なほど耀く美を纏った、背の高い美男子に変貌したのだ。そして一切の食事を口にすることがなくなった。その代わりになぜか下働きの女が行方を眩ます事件が頻繁に起こるようになった。
それからすぐにウィリアムが倒れ、狂気に荒れるゴードンを押し退けてアランひとりがウィリアムの面倒を見るという事態が起こった。暫くすると今度はアランがふらりと姿を消して、1ヶ月以上も留守にする異常事態まで起きた。
さらにロベルトが何者かに首を落とされる悲劇が起き、それを見たバージルが気が狂ったようにろくに調べもせずに訴え捕らえたものを斬首に処するようになった。
このときほど処刑場に首が転がったときはないほどだった。
そしてうっすらと口許を緩めたバージルがどの処刑もひとつ残らず立ち会っていたので、その姿に怯えるものたちが続出した。
それによって、なにかを感じ取った夫人がある夜ゴードンを部屋に呼び出した。いかに未亡人とはいえ、深夜に伺うのは憚られる、と一度は断ったのだが、警備のものに拘束してでも連れてこい、とのお達しだと聞いて、ゴードンは渋々部屋を来訪した。
入るなり、蝋燭の灯りで照らされた、かつては耀くような美しさを誇っていた夫人が幽鬼のような顔を向けて彼に囁いたのだ。
「わたくしはバージルを廃嫡とし、ウィリアムを侯爵にします。バージルはすでにわたくしの子ではなくなりました。どうかウィリアムを護ってヴァンヘイデン家を頼みます」
ゴードンは夫人の決意に驚きはしたが、心のどこがでやはりな、と納得する己もあった。その翌日にバージル廃嫡の布令が出され、王家の許しも得て、ウィリアムは侯爵となった。
するとバージルはなんの未練もないように僅かな荷物と多額の金を持って侯爵家を出ていった。
どこまでヴァンヘイデン家に不運が相次ぐのかと、誰もが感じ、畏れおののいていた。
とどめが夫人の逝去だった。
このままヴァンヘイデン家は没落するのでは、と屋敷ものが覚悟をしたとき、急な成長を遂げたウィリアムが立ち上がった。
起きた不幸を払拭するが如くに使用人を立ち直らせ、侯爵家を盛り立て、磐石な基盤を築き上げたのだ。
ゴードンは誇らしさに何度も枕を濡らした。
けれど主の前に立つときは毅然とした態度とにこやかな表情を崩すことはなかった。
しかし10年経つ頃にはさすがのゴードンも首を捻るようになる。
己ばかりが年齢を重ねるのに、なぜかウィリアムは青年のまま歳を取らないのだ。気付けばアランも同じように変わらなかった。
ある日、アランがウィリアムのワインになにかを混ぜている現場を目撃し、ゴードンは彼と言い争いになった。そこへウィリアムがやってきて、ことの顛末を一瞥で理解した彼が珍しく口隠りながらロベルトによってヴァンパイアに成ってしまったことを告白した。
ゴードンは迷わなかった。
なんとしてもヴァンパイアに成らなければならない、とウィリアムに訴えたが、造り手であるロベルトは当のウィリアムによって弑されていた。
そこでゴードンはどのようにして成ったのかをウィリアムに詰問した。けれど彼は望まずに成ったので、詳細を記憶してなく、むしろ意識が朦朧としていた、としか話さなかった。
そのときアランがゴードンに言ったのだ。
「俺はなんとなくだけど、わかるよ」
彼はウィリアムのために望んで己の身体をロベルトに託したので、何をされたのかうっすらだが覚えがあるという。
ゴードンはアランを拐うように自室に連れ込み、問い質した。
そして本能的に成したい、と思うと、不思議と牙が萌え、そこから血が出されるのだ、とアランは説明した。
しかしアラン自身もまだ一度も成したことはない。
出会った瞬間、成したい、と強く渇望した人がひとりあったが、己の欲望のまま成してもいいものか、と恐怖に囚われ、結局成すことはなかった。
そのとき自然と牙がにょっきり萌えて血を牙先に滲ませたのだ。
ゴードンは黙考した。
アランの話が確かなら、ウィリアムがゴードンを求めない限り、主と同じものに成ることは叶わない。
どうすれば…
悩み続けて数ヶ月、ある明け方にウィリアムがゴードンの自室を突然来訪した。
「坊っちゃん、どうされました?」
何かあればベルで呼ぶウィリアムが来たのだから驚かないわけがない。思い詰めた表情を隠すこともなく、ウィリアムは部屋に入ると低く問うた。
「まだおまえは成りたいのだろうか?」
そしてウィリアムは成ったあとの苦しみを、血への渇求を滔々と語った。ゴードンはそれを聞いて恐れる以前に異常なまでに腹が立った。己の大事な坊っちゃんになんという苦行を課したのだと、すでに亡いロベルトへ激怒したのだ。
まだあれが生きていたなら、今すぐ殺してやるのに。
生き返らせてでも殺してやりたい。
ゴードンは拳を握り締め、歯を食い縛って、怒りをなんとか収めた。そしていつもの薄い笑顔を浮かべると、なによりも大切な坊っちゃんに誓った。
「わたくしは坊っちゃんの命が尽きるまでお傍に仕えると誓ったのです。そのために必要なことはなんでも致します。どうぞ、わたくしを坊っちゃんの忠実なる騎士として、ヴァンパイアにしてくださいませ」
ウィリアムはくしゃくしゃに顔を歪め、涙を堪えると彼の首筋に牙を当てた。
晴れてゴードンはヴァンパイアと成ったのである。
そこまで話を聞いた大輔は感極まったように喉を詰まらせた。それには無関心な態度でアランは大輔に身を寄せると小声で囁いた。
「ゴードンが凄いのはここからでな、どんなやつでも成ったばかりのときって大抵は自我を失って狩るんだが、あれは執務を熟しながら、夜な夜な悪党を狩りに出掛けてたんだぞ。それもウィルをひとりにはできないからって、夜になると俺にウィルを押し付けて、参ったよ。男ふたりで夜中に顔付き合わせて寝るにも寝れず、話すこともなくてさ。しかもゴードンが戻ったときに一緒にいないと半端なくキレるしな、なぁ、ウィル」
話を振られた逸朗は曖昧に笑って、大輔を抱き寄せた。
どうやらアランが近すぎるらしい。
シモンの復帰が叶い、それでもゴードンが帰らないので、とうとう焦れたアランがミーナを連れて再び日本へとゴードンを送ってきていた。
このまま日本を廻ってから帰国するらしいのだが、ミーナの腕には可愛らしい赤ちゃんが抱かれている。
幼子を連れた旅ほど大変なものはないだろうに、乳母から使用人から、ずらりと連れての大移動なので、団体移動の大変さはあれど、子供に関してはたいしたことはないそうだ。
大輔は連れ回される赤ちゃんの方が大変だろう、と同じ人として同情していた。
大輔のスマホがほわりと震え、メールの着信を報せた。ちらりとそれに眼をやって、彼はふわりと微笑んだ。
「近くの画廊で晃が個展してるんだ、顔を出してくるよ」
それから大輔は逸朗にキスをして、夕方そこに迎えに来て欲しいと強請った。彼は瞳を蕩けさせてキスを返すと、快く承諾した。
どうやらこちらも相変わらずのようだな、と思ってアランは破顔した。大輔の部屋で泣き声をあげる赤ん坊の声を耳にして、念願の穏やかな幸せが己の上にも従兄弟の上にも、惜しげなく降り注いでいるのだと実感していた。
晃は研究用の精密機器販売の営業マンですが、書家としても活動しています。出入り先の病院の経理担当の年上女性に惚れ込み、ジョシュアからアドバイスを貰いながら奮闘中で、今回大輔が行く予定の個展で勝負をかけるつもりです。
本当は第3部で晃の恋物語を書こうかと思っていましたが、それはまたいずれ、ご要望とチャンスがあれば書くことにしようかと思っています。
また読んでいただける日を夢見て、一旦さようならをします。
お付き合いくださり、感謝しております。ありがとうございました。
新しい物語を紡ぐことがあれば、どうかまた宜しくお願い致します。




