凛之助 ②
“スッー…スッー…”
木目調の立派なテーブルの前、座布団の上で正座をした凛之助が硯の中で墨を前後に動かす度に…純和風のその部屋の中、年代物の灯りとり用の灯りが静かに揺れ動く…。
“スッー…スッー…”
古びたタンスの上に飾ってある小さな写真立ての中には、神社の神職らしく全員が神職服姿で撮影された、笑顔の…家族写真。
“スッー…スッー…”
凛之助は、硯の中で擦っていた墨の動きを一旦止めると。
その写真立てをどこか切なそうな表情で数秒間見つめてから…硯に目を落とし、再びその中で墨をゆっくりと前後に動かし始める…。
“スッー…スッー…”
凛咲…、和彦くん…。
娘と婿の名前を…そっと、心の中で呼んで、みる。
“スッー…スッー…”
…わしの力及ばず、凛を救えぬこと。
“スッー…スッー…”
誠に、誠に申し訳ない…。
“スッー…スッー…”
…謝っても、謝り足りぬことじゃが。
“スッー…スッー…”
それでもこんなわしを…父を許しておくれ…。
“スッー…スッー…”
…ヨネよ、お主はきっと今頃、レッスン三昧の日々じゃろうか。
“スッー…スッー…”
そうなんじゃ、ヨネ…。
“スッー…スッー…”
お主がこの場におったのならば、この度の凛の再封印ままならず…。
“スッー…スッー…”
凛が凛自身でなくなり、悪鬼にそのすべてを支配されてしもうたとしても…。
“スッー…スッー…”
それでも凛の、孫娘の再封印を…。
“スッー…スッー…”
ヨネよ…お主が肯定することなど、決してなかったことじゃろう…。
“スッー…スッー…”
…分かって、おる。
“スッー…スッー…”
天秤に掛けようもないことじゃ。
“スッー…スッー…”
娘夫婦を失くした今では、愛おしい大事な孫娘の凛の命も…。
“スッー…スッー…”
それを放置することにより、奪われる可能性のある別の命達も…。
“スッー…スッー…”
…、…。
“スッー…スッー…”
…それでも、それでもいつかこうなることは。
“スッー…スッー…”
人封の札の術が使われたと知った、十年前のあの日から…。
“スッー…スッー…”
わしもヨネも心の中のどこかで、覚悟しておったはずじゃ…。
“スッー…スッー…”
…すまぬ、ヨネよ。
“スッー…スッー…”
お主が戻って来たときにはすべてが終わっておる…。
“スッー…スッー…”
万が一…わしが凛の再封印に失敗したとしても…。
“スッー…スッー…”
わしの身に何かが起こったとしても…。
“スッー…スッー…”
保険は掛けておいたからのぅ…。
“スッー…スッー…”
夕方ここへやって来たあの若者達…。
“スッー…スッー…”
凛の同級生じゃというあの三人が…。
“スッー…スッー…”
…今回の件のこと、依田先生に報告しておいてくれるはずじゃ。
“スッー…スッー…”
“我が家のことは心配せんでえぇ…” などと。
“スッー…スッー…”
年寄りの最後の強がりじゃ…。
“スッー…スッー…”
もしものときは…。
“スッー…スッー…”
そのときは…。
“スッー…スッー…”
…後のことは頼みますぞ、依田 頼務 先生。
“スッー…スッー…”
…今夜。
そう、今夜じゃ…。
“スッー…スッー…”
そのために危険を承知の上で。
“スッー…スッー…”
凛にはせめて一週間だけ自由な時間を…。
“スッー…スッー…”
…慎重な監視の下、座敷牢の結界の一部を、わしがわざと解いたのじゃ。
“スッー…スッー…”
その一週間の最後の日に。
“スッー…スッー…”
…やって来てくれた、あの三人の若者達のお陰で。
“スッー…スッー…”
凛の、孫娘の笑顔が見られたこと…。
“スッー…スッー…”
…感謝しても、したりん。
“スッー…スッー…”
凛よ…。
“スッー…スッー…”
学校にも行きたかったろうに。
“スッー…スッー…”
友達も欲しかったろうに。
“スッー…スッー…”
一番楽しい時期に…そしてそれを迎える前に…。
“スッー…スッー…”
再封印を行うこと。
“スッー…スッー…”
本当に…本当にすまぬ。
“スッー…スッー…”
こんなわしを…祖父を許しておくれ…。
“スッー…スッー…”
…結果的に。
分離の方法が見つからなかった今となっては…。
“スッー…スッー…”
この十年間は…単なる悪あがきでしかなかったのかのぅ…。
“スッー…スッー…”
…そう、単なる悪あがきでしか。
“スッー…スッー…”
…もう、良いかの。
凛之助は前後にゆっくりと動かしていた墨の動きを止めると。
硯の縁にそれを預け…その隣りに置いてあった立派な細い筆を手にして…再び、一瞬だけ、古びたタンスの上に飾ってある小さな写真立てを見つめてから…。
…気持ちを切り替えるように、目の前に並んでいる真っ白な紙片の一枚に目を落とすと、真剣な眼差しで…念を込めるようにして、静かにその筆を走らせ始めた…。




