第九演目 嵐の中の真珠
温かい南の海の上で、小さな風が生まれました。くるくると渦巻く小指の先ほどの大きさのつむじ風が、周りの風を巻き込んで、次第に大きくなっていくのでした。
その風には、決まった母や父はおりません。言うなれば、どこまでも広がる青い海や、むくむくと膨れ上がってはどっと激しい雨を降らす入道雲、そして熱や寒さをあちこちに運ぶ風たち――彼を取り囲む全てが、彼の親であり、師匠でした。
幼い風は海面を滑り、飛ぶ鳥の影と競争をします。波から跳ねる水しぶきが風にとけ、さんさんと降り注ぐ太陽の光が風を温めました。風は、後から生まれた弟妹たちを我が身に吸い込んで、どんどん強く激しい風となっていきました。
風には、人間の子どものような名前はありません。ですが、呼び名もないままだとたいへん不便ですから、このお話の中では「嵐」と呼ぶことにしましょう。嵐は、海の上から緑豊かな島々、そして乾いた大陸の中の砂漠まで、あちこちを旅しました。旅の途中で、いくつもの風が生まれ、また、強大な力を持っていたかのように見えた老風が小さくなって消えていくのを見ました。
嵐は、くるくると飛び回りながら、考えていました。
(消えてしまった風は、どうなったのだろう?)
風には、風同士の顔が分かります。消えてしまった風と同じ顔の風には、その辺りをどんなに探しても、声をごうごうと上げて呼んでも、二度と巡り会えないのです。
嵐は、「死」を知っていました。鳥や魚や獣の命がなくなることです。自分が起こした風で死んだ木や、家や、羊を何度も見たことがありました。たとえ死んだとしても、彼らの体はそのまま残されます。けれど、風は何も残さずにただいなくなってしまうのです。
(やはり、消えてしまった風は、死んだのだろうか)
そう結論を出すと、嵐はいつも、空恐ろしくなるのでした。
(俺は、消えてしまいたくはない。いつまでも、自由気ままに飛び回っていたい)
思えば思うほど、ふとした瞬間に、嵐は自分にぽっかりと大きな穴が空いているような心持ちになりました。そんな時、嵐は人間も街も森もお構いなしに、暴れ回ります。歩いていた人間の膝を折らせ、張り巡らされた邪魔な電線を引きちぎり、塀を粉々に壊しました。森の木々に休んでいた鳥の群れを森から追い出し、逃げ惑うところを風の手でとらえ、もみくちゃにしてやりました。砂漠の砂を残らず吹き飛ばし、遠く離れた場所に新しい砂漠を作りました。そこまですると、やっと嵐は落ち着くのです。自分がまだまだ強く恐るべき風であることを、実感できるのでした。
ある時、嵐は海を渡り、ある島の港を通りかかりました。
そこには、おもちゃのようにちゃちな小舟がいっぱい並んでいます。どれ、一つ残らず吹き飛ばしてやろうと嵐は港に近づき、大きく息を吸い込みました。
ところが、ちょうどその港に、一人の少女が歩いてきました。嵐が送りつけた風で、少女はかわいそうに転んでしまいました。それを見て、嵐はからからと笑います。
その時、少女の手から、小さな光る何かが飛び出し、嵐をかすめました。たった一瞬の間でしたが、嵐はそれがどんなものであるか、はっきりと知りました。
それは、まんまるな真珠でした。月のように真っ白で、虹が溶け込んだ太陽の光のように、美しく輝いています。嵐はその小さな真珠に目を奪われて、しばし動けないでいました。そして、我に返ると、慌ててその真珠をつかみ取って、自分のものにしようとしました。
けれど、真珠は嵐が起こした風に吹かれて飛んでいき、あっけなく海に沈んでしまいました。
いくら嵐でも、海の底まで潜っていくことはできません。腹を立てて海面にめちゃくちゃに風を叩きつけましたが、白い水しぶきが上がるばかりで、真珠のかわりにもなりませんでした。
嵐が港に飛んで戻ると、もうあの少女は逃げてしまっていて、そこには誰もいませんでした。
今、嵐の考えることといえば、あの真珠のことばかりでした。
(あれがほしい。あんなに美しいものは、この世のどこにもない。どこにいけば手に入るのだろう?)
真珠を探しながら飛んでいると、嵐のあのぽっかりと空いた穴が、しくしくと嵐を責め立てるのでした。きっとこの穴は、美しく小さなあの真珠を入れるための場所だったのだ。そう決めつけて、嵐はいっそう南から北まで飛び回り、弱い風を自分の風の一部にして、ますます力を蓄えていくのでした。
そして、どんどん嵐が飲み込んでいったせいで、この世に嵐以外の風が一つもいなくなったころ、彼は空高くに昇り、とびっきりの風を世界中に送りました。風は、大きな無数の手となり、
道端を歩いていた子どもを、
公園で遊んでいた子どもを、
お店でアイスクリームを買ってもらった子どもを、
学校で手を挙げて発言していた子どもを、
靴磨きで汗を流していた子どもを、
山で獣を捕まえていた子どもを、
風邪を治すためにベッドで眠っていた子どもを、
親のために万引きをして逃げていた子どもを、
誕生日のお祝いに遊園地に連れて来てもらった子どもを、
病院で歩く練習をしている子どもを、
父親の葬式に参列していた子どもを、
お芝居に出ていた子どもを、
野原で花を摘んでいた子どもを、
一人残らず捕まえ、空の上の大きな雲にのせてしまいました。
さあ、子どもたちは大騒ぎどころではありません。ふわふわの雲の上で、立って歩くこともできないほどきちきちに詰め込まれてしまったのですから。端っこの誰かが落っこちてしまわないようにしっかりと抱きつきあうやら、言葉の通じない相手同士で何が起きたのか尋ねあうやら、母親を呼んで泣き出すやら、小突いてきた隣の子どもとけんかを始めるやら。がやがやと不安な時を過ごしています。その声が空の下の町に届いたら、どんなによかったでしょう。
嵐は、そんな子どもたちの様子を気にもかけてはいませんでした。嵐の目的はただ一つ、たくさんの子どもたちの中から、あの時港を歩いていた少女を見つけ出すことでした。彼女は、まだ真珠をたくさん持っているに違いありません。
嵐は、子どもたちの顔を端から順にのぞいていきました。一人として、同じ顔の子どもはいません。いろいろな顔の子どもたちを何千人、何万人と調べても、あの真珠を持っていた少女はまだ見つかりませんでした。
嵐があまり乱暴に子どもの顔をつかんで上を向かせ、それから突き飛ばさんばかりの勢いで解放したせいで、子どもたちの何人かが訳も分からずに泣きだしました。そこから悲しみが伝染して、とうとう雲の上で泣いていない子どもはいないほどになりました。
嵐は子どもたちの泣き声を、うるさいともかわいそうだとも思いませんでした。自分が世界を駆けずり回りながらごうごうと叫ぶ時のように、子どもたちもいたずらに騒いでいるだけだと思いました。そして、あの少女を探し続けます。
おや――子どもたちの中で、一人だけ、涙を流していなければ、叫んでもいない子がいます。黒い髪の優しい顔をした少女でした。
少女は、泣きじゃくっている黒い顔の男の子を両腕に抱きかかえ、ゆっくりと揺らしていました。そして、静かな声でささやきます。
「ねえ、もう泣かないで。雲の上に来るなんて、なかなかできないことよ。お日様があんなにぽかぽかと照っていて、気持ちいいわ」
それでも、男の子は泣き止みません。少女はちょっと困った顔をして、それからにっこり笑いました。
「そうだ、素敵なものをあげる」
嵐がこっそり見ていると、少女は持っていたポーチから、一粒の輝く真珠を取り出しました。
嵐は息を呑み、真珠を奪おうと手を伸ばしかけます。けれど、真珠を見たその子が泣くのをやめたので、なぜか嵐は動くのをやめました。
少年の、小っちゃな手に真珠を握らせて、少女はこう言いました。
「この真珠はね、わたしの新しいお母さんが買ってくれたものなのよ。なぜ買ってくれたかというとね、わたしが、ほんとのお母さんにもらった真珠をなくしてしまったからなの。大切な宝物を風にさらわれてなくしてしまって、泣いていたわたしをなぐさめてくれたの。新しいお母さんは、真珠を探したら見つかったんだって言っていたけど、うそ。こっそり買ってくれたんだって、ちゃんと知ってるの……」
少女は男の子のやわらかいほっぺをちょんとつつきながら、優しく続けます。
「だけど、この真珠を持っていたら、なぜだかうれしい気持ちになるのよ。ね、あなたも笑ったでしょう。だから、あの時のわたしみたいに泣いてる子に真珠をあげなきゃなのよ」
少女の言うことを分かっていないはずの彼は、真珠を握りしめながら、にこにこと笑っています。
少女の言うことをすっかり聞いてしまった嵐は、子どもたちが乗っている大きな雲から離れ、ぐるぐると空の中で回りはじめました。
嵐は、自分の行いを、たまらなく恥ずかしく思っていました。子どもたちを雲の上にさらってきたことも、以前に少女の真珠を奪おうとしたことも、さらには自分があの赤ん坊のように少女に真珠をもらいたいと思ったことも。
空っぽの穴がいっそう激しく痛み、どんどん広がっていくようでした。嵐は、子どもたちを元いた場所に帰してしまおうと思いました。けれど、何か彼らにしてやりたいとも思いました。言うなれば――泣きじゃくる赤ん坊に大切な真珠をあげるようなことを。
嵐は子どもたちを残らず抱き上げ、自分の中の空っぽの穴に入れてしまいました。そして空の上からあっという間に地上へ舞い戻り、子どもたちを一人ずつ、元いた場所にそっと帰してやりました。
そして、最後の一人――あの黒い髪の、真珠の少女を港町に降ろすと、嵐は再び空の上に飛んでいきました。
空には、太陽が相も変わらずぎらぎらと照っています。嵐は太陽にありったけ強い風を吹きつけました。光る太陽のかけらが、ばらばらと落ちてきました。嵐はそれを全て受け止め、空っぽの穴に貯めました。
何度も何度も太陽に風を吹き、時には自ら体当たりをして、太陽のかけらをどっさりと集めました。そこに雪の結晶や、流れ星の尾を何本か入れました。嵐の中の穴が開いていたところは、温かくなりました。
けれど、このかけらは自分のために集めたものではありません。その日の夜、優しい月の光をまた削って、かけらを手に入れました。
次の日の朝、嵐は世界中の空をすっぽり覆う薄い雲となりました。けれど、その雲は子どもにしか見えません。家の外に出た子どもたちは、どんよりと灰色の空を見てがっかりしたような声を上げましたが、大人にはその理由が分かりませんでした。
空を見上げる子どもたちに、しとしとと雨が降りました。そして、雨が上がった後には、どの子の手の中にも一粒の光る玉がありました。離してみると真っ白で、でもよくよく近くで見ると虹色の光沢が現れるその玉は、まるで真珠のようでした。
さっきまで空を覆っていた雲は跡形もなく、青い空が広がっていました。そのうち、穏やかであたたかいそよ風が吹きはじめました。嵐のように海の上で生まれた、新しい風たちでした。
嵐はどこへ行ってしまったのでしょう? その答えは、誰も知りません。けれど、その日子どもたちに贈られた真珠は、いつまでも彼らの手元で輝き続けているのです。
閉幕




