水が死ぬ
六月に入って、空気が重くなってきた。
梅雨入りはまだ先のはずだったが、湿度だけは一足早く居座りはじめている。蒼の癖っ毛は、朝起きるたびに好き勝手な方向へはねた。それ以上に厄介なのが、機材だった。湿気はDTM環境の天敵で、蒼は除湿剤の位置を、一日に何度も確認するようになっている。
そして、この時季をいちばん喜んでいる者が、約一名いた。
「いい湿度だなあ」
窓辺で、くらが心底うれしそうに伸びをする。梅雨が近づくにつれて、この龍神のテンションは、右肩上がりに上がっていく。蒼にとっての地獄が、くらにとっては最高の季節らしい。理不尽な話だった。
その日、蒼は郵便受けで水道料金の通知を見て、しばらく固まった。先月の、ほぼ倍。心当たりは、ひとつしかない。
「くら」
「んー?」
「水道代、なんか倍になってんだけど」
「ああ、風呂な」
くらは悪びれもせずにうなずいた。同居が始まってから、この龍神は毎日、異常に長く風呂に入る。それも、ぬるい湯で。
「お前、湯ぬるすぎだろ。追い焚きしすぎなんだよ」
「ぬるくない。これが水の温度。熱いのは、水が怒ってる証拠」
「水は怒らない」
「怒る」
話にならなかった。以前、蒼が気の迷いで入浴剤を入れたことがある。バイト先でもらった、安物の。くらはその湯を一目見て、本気で怒った。「水に余計なもの入れるな」と。あの時の真顔は、台風の話をする時よりも、よほど真剣だった。
シャワーも、自由に使えない。蒼がシャワーを浴びると、泡が湯舟に流れ込む。するとくらが「水が死ぬ」と言って、露骨に機嫌を悪くするのだ。だから蒼は、くらが風呂から上がるのを待ってからでないと、まともに体を洗えなかった。問題は、その「上がるのを待つ」時間が、毎晩一時間を超えることだった。
対抗手段は、ない。誰の家だ、と毎晩思う。思うだけで、何ひとつ解決しなかった。
その夜も、くらは案の定、風呂から出てこなかった。蒼が脱衣所の前をうろついていると、ベッドを占領していた玉藻前が、面白そうに顔を上げた。このところ週の半分は、当たり前のようにこの部屋にいる。
「まだ出てこないの?」
「……一時間半」
「あはは。蒼、あんた舐められてるわね」
「わかってます」
「言ってやりなさいよ、出ろって」
「言っても出ない」
「だろうね」
玉藻前は、まったく助ける気がなかった。むしろ蒼が困っているのを肴に、缶チューハイを開けている。この部屋に、蒼の味方はひとりもいなかった。
しびれを切らして、蒼は風呂のドアを叩いた。
「くら、もう出て。風呂入れないんだけど」
「えー、まだあったまってない」
「ぬるい湯であったまるわけないでしょ」
「水が気持ちいいんだって。お前も入る?」
「入らない」
即答した。龍神と風呂に入る趣味はない。ドアの向こうから、くらの呑気な鼻歌が聞こえてくる。相変わらず、見事に音を外していた。
玉藻前が、ぷっと噴き出す。
「あいつ、ほんっと音痴よね」
「……それ、明日詳しく聞きます」
蒼は、聞き逃さなかった。音痴、という単語に、頭の奥の職業的な何かが、ぴくりと反応していた。




