俺の声いいだろ
翌日の昼過ぎ、蒼はDAWに向かっていた。
起きてすぐの、死んだような顔のまま、ヘッドホン越しに音を並べていく。インストとボーカロイドを混ぜた、自分でも何系と説明しづらい曲だった。尖りすぎていて、たぶん今回も大して聴かれない。
ためしに、配信ページの数字を開いてみる。今月の収入は、六十一円だった。しばらく眺めて、そっと閉じた。見なかったことにする。金のことを考えると指が止まるので、考えないのがいちばんいい。
背後で、くらが寝返りを打った。床で、相変わらず布団もかけずに寝ている。
ふと、昨日のことを思い出した。風呂場から漏れてきた、見事に外れた鼻歌。蒼は、前から少し気になっていた。くらの声は、喋っているだけでも妙にいい。水の流れに似た、低い響き。あれが歌になったら、いったいどんな音になるのだろう。
起き出してきたくらに、蒼は珍しく自分から声をかけた。
「……ちょっと、歌ってみて」
「え、俺?」
くらは、満更でもない顔をした。
「いいけど。俺の声、いいだろ。使えるじゃん」
自信たっぷりに胸を張る。蒼は録音ボタンに指をかけて、待った。
くらが、歌いだす。
三秒で、蒼は理解した。
音程が、どこにも合っていない。出だしから半音ずれて、そのまま戻ってこない。リズムも怪しい。昨夜、風呂場から漏れていた鼻歌が、まぐれではなく実力だったとわかる歌いっぷりだった。喋り声のあの響きは、いったいどこへ消えたのか。
蒼は、そっと録音を止めた。
「……どう? いいだろ」
「……何も言うな」
「は?」
「インストでいく」
「なんでだよ」
くらは心底不思議そうな顔をしている。自分が音痴だという自覚が、どうやらこの龍神には一ミリもないらしい。喋り声と、あの路地で聞いた音だけが別格で、人間の音楽の枠に入れた瞬間に全部崩れる。そういう仕様の神様なのだと、蒼は諦めをこめて結論づけた。
ベッドのほうから、鼻歌が聞こえてきた。玉藻前だった。何の曲ともつかない、ただの口ずさみ。それなのに音程は正確で、声には例のエキゾチックな響きが乗っている。くらの直後だと、その差が残酷なほどはっきりした。
蒼の手が、また録音ボタンに伸びる。
「録らないわよ」
顔も上げずに、玉藻前が言った。
「まだ何も言ってないんすけど」
「顔に出てるわよ」
取りつく島もない。神様の声というのは、どうしてこう、いいものに限って録らせてくれないのだろう。蒼は嘆息して、またDAWに向き直った。
くらの音痴と、玉藻前の鼻歌と、自分の打ち込む音。八畳の部屋に、三人ぶんの音が、てんでばらばらに鳴っている。うるさい、と思う。
けれど、録音を止めた指は、もう一度こっそり、レベルメーターを覗いていた。




