浄化じゃない、虐殺だ
梅雨が、本格的に居座りはじめた。
毎日どこかで雨が降っていて、部屋の湿度計は、ずっと不機嫌な数字を指している。蒼の機材にとっては受難の季節だったが、くらは相変わらず、水を得た魚——いや、文字どおり水を得た龍神として、上機嫌だった。
その日、蒼はふと思いついて言った。麦茶を切らして、また業務スーパーのパックを買い足すのが、地味に面倒になってきたところだった。
「ウォーターサーバー、便利じゃないすか」
くらの耳が、ぴくりと動いた気がした。
「いいね。入れよう」
即答だった。水と名のつくものに対して、この龍神の食いつきは早い。蒼はスマホで適当に検索して、よく広告で見るメーカーのページを見せた。
「じゃあ、このアクアクララってやつが安——」
「待て」
くらの声が、低くなった。
「それ、RO水だ」
「え、知ってんの?」
「俺を誰だと思ってる。水だぞ」
胸を張って言うことではない気がしたが、事実なので反論はできない。くらは画面を睨んだまま、苦々しげに続けた。
「RO……逆浸透膜ってやつだ。水を限界まで濾して、中身を全部抜く。ミネラルも、何もかも」
「それ、きれいってことじゃ」
「お前ら人間は、水を殺す技術まで開発したのか?」
「……浄化、って言ってくれません?」
「浄化じゃない。虐殺だ」
真顔だった。台風の話をする時よりも、なお真剣な顔をしている。蒼は、自分が何かとんでもない倫理問題に触れてしまった気がして、そっと口をつぐんだ。
ベッドで爪を整えていた玉藻前が、呆れたように口を挟む。
「出た、くらの水語り。蒼、こいつに水のこと振っちゃだめよ。三時間は止まらないんだから」
「もう、知りました」
「水を入れるなら、富士山の天然水。それ以外は認めない」と、くらは聞いてもいないのに続ける。
「高いんだけど……」
「金の問題じゃない。命の問題だ」
「いや、金の問題なんだよ。誰の財布だと思って」
「だいたいお前、自分ちの水道の水が、誰のおかげで飲めてると思ってんだ」
「……は? 今なんて?」
聞き返したが、くらは答えなかった。すました顔で、いろはすのキャップを開けている。何でもない、というふうに。
蒼は一瞬、その横顔をじっと見た。
自分の家の水が、誰のおかげ。意味はわからない。けれど、聞き流してはいけない種類の一言だった気もする。くらが普段、水道の蛇口に手のひらをかざして、しばらく真剣な顔で何かを確かめているのを、蒼は何度か見ていた。あれは、ただの利き酒ではなかったのかもしれない。
引っかかりを覚えたまま、けれど追及する糸口もなく、蒼はスマホのウォーターサーバーのページを、そっと閉じた。
結局、麦茶は今夜も自分で沸かすしかなさそうだった。




