第4話
生贄として白狼の神殿へ送られることが決まった桜来は、自室には戻らず薬草庫へ向かうことにした。
自分がいなくなった後も領民の治療が続けられるよう、薬の作り方を帳面に書き残しておこうと考えたのだ。
自室へ戻れば、明日を待つことしかできない。
それならば、なにかしら人の役に立つことをして時間を過ごしたいと桜来は考えた。
広間で飲み込んだ言葉が、まだ喉の奥に残っている。
薬草庫の戸に触れた指が、いつもより冷たく感じられた。
筆先が紙を擦る小さな音が続く。桜来が薬草庫に入って間もなくすると、ひとりの使用人がやってきた。
「桜来様、明朝お召しになる白装束をお持ちいたしました。玄斎様より、明朝はこちらへお召し替えになるようにとのことでございます」
「承知しました。ありがとう。神殿へ持っていけるものに、決まりはありますか?」
「お持ちいただけるのは、お召しになる白装束だけと聞いております」
使用人は言い辛そうに答えた。
「そうですか、それなら荷造りは必要ありませんね。分かりました。白装束はここへ置いてください。あとで着替えます」
使用人はなにかを言おうと口を開きかけたが、刹那、迷うような素振りを見せた後、口を噤んだ。なにかを言う代わりに、畳んだ白装束を机の端へ丁寧に置く。
「……それでは失礼いたします」
使用人は丁寧に一礼を残して、薬草庫を後にした。
***
しばらくの間、桜来は黙々と手を動かし、慌ただしく動き回っていた。
薬草の色に囲まれた室内で、白装束だけが不自然に白く感じられる。
その白い布を見つめるほど、胸の内側に重さが増す。
数時間後には、白狼神への生贄として神殿に向かう。その現実をできるだけ考えないように、桜来は目の前にある作業に集中していた。
そんな時だった。薬草庫の扉を叩く音が聞こえたような気がした。
桜来は風の音だと思い、一瞬、止めた手を再び動かす。
しかし定期的な音が聞こえている。
桜来は戸口に歩み寄ると、薄く開いた。
「……玲華お姉様」
そこにいたのは、雪代家の次期当主。桜来の姉である玲華であった。いつもと変わらない冷静な表情を保っていた。
「やはりここにいたのですね」
「玲華お姉様、雪の中を……身体が冷えてしまいます。風邪をお召しになられたら……さあ、お入りください」
呆れたように溜息混じりの玲華を桜来は、中に入るように促す。
玲華は促されるまま薬草庫に足を踏み入れた。
「あなたは……明朝には屋敷を出るというのに、まだ薬草に触れているの?」
「私がいなくなったとしても、薬を必要とする者はおりますので」
「今のあなたは、薬の調合ではなく準備を優先すべきでしょう?」
「荷物は持っていけないそうですので、荷造りをする必要もございません」
桜来が淡々と答えると、玲華はじっと彼女の目を見つめた。
「……本当にいいのですか?」
「なんのお話でしょうか?」
桜来は不思議そうに首を傾げた。
「もちろん、生贄の件です」
「……それはすでにお父様がご決断されたことですので……」
桜来は言いながら、卓上にあった帳面に視線を落とした。
「もし……もしも心残りがあるのであれば……」
「玲華お姉様。おそらく決定は、なにがあっても覆りません。当主の決定というものはそういうものでございましょう?」
「父上に泣いて縋れば、もしかしたら……」
「私が拒めば、玲華お姉様か結奈が行くことになります」
「……っ!」
玲華は袖の中で手を強く握りしめた。しかしそれに桜来が気づくことはなかった。
「玲華姉様は後継者です。結奈は結界を支えています。お父様の判断は変わらないでしょう。例え私が泣いて拒否しても、生贄が不要になるわけではありません。誰かが行かなければならないのなら、父上が選ぶ者は決まっています」
玲華はなにも答えることができなかった。
幾度となくなにかを言いかけたが、それが言葉になることはなく、唇は閉じられる。
やがて玲華は意を決したように懐から小さな薬袋を取り出し、桜来に差し出した。
「これを持って行きなさい。役に立つかは分かりません。でも、これであれば懐に入れて持っていけるでしょう」
「ありがとうございます、玲華お姉様」
玲華は桜来の礼に答えず、戸口へと向かう。戸口の前で一瞬足を止めたが、彼女が振り返ることはなかった。
***
玲華の背中を見送った桜来は、再び手を動かし始める。
帳面に文字を綴り、時折立ち上がって薬草棚の引き出しを開け、中を確認する。
慌ただしく動き回る桜来の懐には、玲華からもらった小さな薬袋が入っている。
その存在を確かめるように、桜来が両手を懐の上に重ねた瞬間——……、戸口が勢いよく開いた。
「桜来お姉様」
「……結奈」
今度は妹の訪問だった。
「こんな時まで、そんなことをしているなんて……お姉様ってやっぱり変わり者ね」
「そうかしら?」
「少し休んだらどうですか?」
「手を動かしているほうが、今は落ち着きます」
普段通りの明るさを装おうとするが、笑みは続かなかった。
「お姉様は生贄になることを怖いとは感じないのですか?」
「怖くないわけではありません。でも誰かが行かなければいけない。だからお父様が……ご当主が決定をくだされました。私はその決定に従うだけです」
「桜来お姉様も怖いのですか?」
「死ぬことを恐れない人間などいません」
桜来は、初めて冷静さを見失いそうになってしまった。しかし、妹の目の奥に恐怖を見つけてしまった。もしかしたら生贄になるのは自分だったかもしれないという恐怖心。雪代の娘である以上、結奈はこれから先もずっとその恐怖を抱えて生きていかなければいけないのだ。そう考えると、桜来は結奈の恐怖を助長させるような言動はできないと思った。
「それならどうして断らなかったのですか?」
「この雪の国を救うには、誰かの犠牲が必要なのですよ」
「桜来お姉様……私……」
「言わなくても大丈夫です。私は分かっています」
「……でも……」
「私と結奈、それに玲華お姉様。それぞれに適切な役割が与えられただけ。ただそれだけのことなのです。私達にできることは、与えられた役割を全うすることだけです」
「……桜来お姉様……」
「結奈、もう寝所にお戻りなさい。夜も遅いのですから。皆が心配しますよ」
「……分かりました。おやすみなさい、桜来お姉様」
結奈は何度か振り返りかけたものの、結局なにも言わずに立ち去った。謝罪にも別れにもならなかった言葉だけが、二人の間に残された。
戸が閉まっても、桜来はしばらく筆を持ったまま動かなかった。
桜来は一度だけ顔を覆いかけ、その手を帳面へと戻した。
恐怖を口にしても、誰かが代わってくれるわけではない。
本音を伝えても楽になるどころか、孤独がはっきりしただけだった。
ふと張り詰めていたものが切れたように、肩が重くなった。
明日の夜、この薬草庫に自分はいない。
そう考えると、目の奥に熱が集まったが、瞬きをしてなんとかそれを押し戻した。
桜来がこの屋敷で過ごす最後の夜は、なにも変わらず淡々と進んでいくのだった。
***
小窓の外が白み始めたところで、桜来は筆を置いた。
書き終えた帳面を重ね、薬草棚の見つけやすい場所へと置く。
それから桜来は、普段の衣を脱ぎ、用意された白装束へと腕を通した。
玲華から渡された薬入れを、白装束の帯の内側に隠すように入れ込んだ。
髪を整え、庫内を見渡す。そして、この場所が、雪代家で自分が最も長く過ごした居場所だったと気づいた。
「桜来様、出立の刻です」
「承知しました。すぐに参ります」
桜来は白装束の裾を整え、屋敷の門へ向かった。
門前に家族の姿はなかった。
門前に並ぶ神官たちを、一人ずつ確認する。
政臣、玲華、結奈の姿を探したことを悟られないよう、視線を正面に戻した。
桜来は家族が誰も見送りに来ないことについて触れなかった。
屋敷は桜来を送り出すのではなく、不要なものを外へ渡すように門を開いている。
一度だけ屋敷を振り返り、その光景を瞼の裏に焼き付けた。
二階の閉じられた格子窓で、影がわずかに動いたような気がした。
桜来は目を細め、影の輪郭を確かめる。
玲華が格子へ手を添えて立っているのが見えた。
格子は、互いを見ながら近づけない姉妹の間に残る境界のようだった。
桜来は帯の間にある薬入れに触れる。そしてごく小さく頭を下げてから、神官たちのほうへと向き直った。
玲華は声も手も届かない場所から、桜来が門を出るまで見送っていた。




