第2話
「……ねえ」
桜来は人の気配が途絶えたところで、使用人を小声で呼び止めた。裏口へ続く廊下は薄暗く、中庭の声もここまでは届かなかった。
桜来は袖に隠していた幾つかの薬包を取り出し、使用人の持つ籠に入れた。
そして薬包の上に、服用する量と間隔を書いた紙を重ねる。
桜来は相手の目をまっすぐに見つめる。
「……桜来様」
「お願い。私の代わりに、あなたがこれを届けて」
「しかし旦那様は、薬を届けることはお許しにならないと……これが知られたら、桜来様にどのような処罰が及ぶか……」
「命令に背いた責任は、私が負います。今は一刻の猶予もありません。苦しむ民をあなたもその目で見てきているのでしょう?」
桜来の言葉を聞いた途端、使用人の脳裏には先刻見たばかりの光景が浮かんでいた。
高熱に冒されて、意識が朦朧としている人々。
荒い呼吸。
症状は大人だけに留まらず、幼い子どもたちにも及んでいる。
民たちは間違いなく術ではなく、薬を求めている。
しかし当主の命に背けば、娘であろうと罰は免れないであろう。
「桜来様、本当によろしいのですか?」
使用人は窺うように尋ねた。
すると桜来は口角をわずかに引き上げ、微笑を浮かべた。
「守るほどの立場など、私は持っておりません。それに雪代家にこの薬が認められなくても、薬の効き目までなくなるわけではありません。効果があるものを無駄にすることほど愚かなことはないのです」
自分の立場を守るために病人を見捨てれば、薬を作ってきた意味まで失われる。桜来はそう感じていた。
「……分かりました。必ずお届けします」
使用人は粛々と頭を下げた。
その日の深夜。屋敷の裏口からひとりの使用人が人目を避けるようにして出てきた。その人物は月夜に紛れるようにして北の集落へと向かう。
白い外套が雪の向こうへ消えるまで、桜来はその場を動かなかった。
少なくとも最低限の薬は集落に届く。桜来は小さく安堵の息を吐いた。
***
間もなく、屋敷の奥から使用人が桜来を呼ぶ焦った声が届いた。
呼び出しを受けて桜来が広間に足を踏み入れると、空気は中庭以上に張り詰めていた。政臣の前には雪の国の地図が広げられ、赤い印がいくつも記されている。
卓上にはひび割れた護符と、黒く濁った結晶が並べられており、広間には三姉妹だけでなく、雪代家の主要な術師たちも集められていた。
玄斎は政臣へ頭を下げながらも、場を支配するような落ち着きを保っている。
「昨夜、北の境に新たな亀裂が確認されました。結界を支える霊脈は、我々の予想を上回る速さで衰えております。このままでは、人界と妖界の境界を維持できません」
危機を告げる玄斎の声に動揺はない。
「此度の北の集落の病も霊脈の衰えが原因なのか?」
政臣は鋭い口調で玄斎に問う。
「因果関係はまだ証明できません」
「結奈の力をもってしても、結界を支えられぬのか」
「結奈様の御力に不足があるわけではございません。問題は、封じられた白狼神の祟りが強まっていることにございます」
それまで黙って話を聞いていた桜来が不意に口を開いた。
「玄斎」
「はい、桜来様」
「白狼神は封じられているはずです。それでも外へ力を及ぼせるのですか?」
「断言はできませんが、白狼神の霊力は凄まじいと言い伝えられております。その言い伝えが正しければ、封印は白狼神の霊力をゼロにすることはできないと考えられます」
雪の国に古から伝わる白狼神は、災いをもたらす邪神だった。
かつては国を守る神だったらしいが、いつしか白狼神は人間を憎しむようになり、神殿へ近づいた者を食らうとされてきた。そのため黒く濁った護符を前にすれば、玄斎の説明を疑う者は誰一人としていなかった。その証拠に玄斎が白狼神の祟りだと断じると、術師たちは恐れるように目を伏せた。
そのような状況下で、玲華が冷静に口を開いた。
「結界を修復する方法はあるのですか?」
「通常の術では、もはや間に合いません」
玄斎は首を左右に振る。
「必要な術式があるのなら、私が術師たちを動かします」
「いいえ、玲華お姉様。私がもっと力を使います」
結奈が凛とした眼差しで言い放った。
「……結奈」
「ねえ、玄斎。今より更に強い術なら、結界を戻せるのではありませんか?」
結奈の問いに玄斎は、刹那、なにかを考えるように宙に視線を彷徨わせる。
それから意を決したように口を開いた。
「いいえ、残されている手段は、古くより雪代家に伝わる鎮めの儀だけでございます」
それまで黙っていた政臣が不可解な眼差しを玄斎へと向ける。
「鎮めの儀とはなんだ?」
「はい、雪代家の血を引く娘を、白狼神の神殿へ捧げる儀式にございます。尊き血を捧げ、邪神の怒りを鎮める。それが雪の国を救う唯一の方法にございます」
誰かが息を呑む音さえ聞こえそうな沈黙が落ちる。広間の灯火が揺れ、壁に映る三姉妹の影が歪んだ。
最初に口を開いたのは三女の結奈だった。
「雪代家の娘……ということは、私たちの誰かが邪神に捧げられるということですか?」
次に我に返ったのは長女の玲華だった。
「捧げられた者は、どうなるのでしょうか?」
玲華の問いに玄斎は淡々と答える。
「白狼神に捧げられて、生きて戻った者はおりません」
玲華は表情を崩さなかったが、袖の中で手を握りしめた。
「娘ひとりを差し出せば、本当に結界は回復するのですか?」
結奈の顔からは、目に見えて血の気が引いている。
「必要なのは雪代家の血。誰を捧げるかは、当主である政臣様にご決断いただくほかありません」
大広間に玄斎の声が響いた。術師たちは互いに顔を見合わせたものの、異議を唱える者はいなかった。
桜来の脳裏に最初に浮かんだのは、自分が死ぬ可能性ではなく、姉妹の誰が選ばれるのかという疑問だった。
玲華を失えば、雪代家には次の当主がいなくなる。
結奈を失えば、今この瞬間にも結界を支える者がいなくなる。
そこまで考えたところで、桜来は残された答えに気づいた。
自分も雪代家の娘である。その事実を、これほど明確に意識したことはなかった。
有能な家族としては数えられない娘でも、生贄の候補としてなら数に入るらしい。
胸の奥に生まれたものを、桜来はまだ恐怖としては捉えていなかった。
結奈は無意識に、守りを求めるように政臣へ一歩近づく。
玲華は次期当主として、儀式の効果と代償を確かめようとしていた。一度桜来へ目を向け、すぐに政臣へ視線を戻す。
政臣の視線が、まず玲華へ向けられた。
玲華は背筋を伸ばし、次期当主として父親の判断を待っていた。
政臣が玲華を見た時間は短かった。検討するまでもなく、答えが決まっていたからだ。
雪代家を継ぐ玲華を失うという選択は、当主である政臣の中には最初から存在していなかった。
次に、政臣は結奈へと視線を移した。
結奈は不安を隠しきれないまま、父親の視線を受け止めた。
結界を支える強大な霊力は、政臣にとって手放せないものだった。
結奈の価値を確かめるように、政臣はその身体を包む霊気へ目を向ける。
結奈は小さく息を呑み、助けを求めるように父親を見返した。
最後に、政臣の視線が桜来に向けられた。
桜来の手には、薬草を扱った匂いがまだ残っていた。
その僅かな匂いを感じながら、桜来は気づいた。政臣は三人の娘を見比べているのではない。失った場合の損失を量っているのだと分かった。
「玲華は次期当主だ。失うわけにはいかぬ」
政臣の声が大広間に響き渡る。
「結奈の力がなければ、儀式の日まで結界を保つこともできまい」
その場にいるものは皆、その声に全神経を集中していた。
そんな中、政臣の視線が桜来へと向けられた。
「白狼神への生贄は、桜来とする」
桜来は泣かなかった。表情を崩すことも、助けを求めて姉妹を見ることもしない。
ただ頭を下げる前に、一度だけ政臣の目を見返した。桜来は驚きより先に、選ばれた理由を理解していた。
ようやく役目を与えられたという思いが、一瞬だけ胸をよぎった。だがそれは、必要とされたから与えられた役目ではない。
失っても国に支障がないから、桜来が選ばれた。父親が守ろうとしたのは二人の娘ではなく、玲華の立場と結奈の力だった。
桜来はずっと家族の役に立ちたいと願ってきた。だがまさか命を失うことによって、その願いが叶うとは思っていなかった。
「承知いたしました。雪代家ご当主のご命令として、承ります」
桜来は粛々と政臣の決定を受け止める。
「国のために命を捧げるのだ。雪代家の娘として、これ以上の誉れはあるまい」
「はい」
桜来は反論のひとつも返さない。
「お父様、それは……」
玲華がなにかを言いかけ、政臣の視線を受けて口を閉ざした。
「お姉様なら、きっと白狼神を鎮められるわ」
安堵した自分を隠すように、結奈は桜来から目を逸らした。
「ご当主殿、賢明なご決断にございます」
玄斎は驚く様子もなく、深く頭を下げる。その反応は、最初から桜来が選ばれると知っていたようにも見えた。
広間の灯火がひとつ消え、壁に映っていた桜来の影は闇へと沈む。生贄の準備は、本人の返事を待たずに始められた。




