第1話
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夜明け前の雪代家は、降り続く雪の中に静まり返っている。だが、空が白み始めるより早く、屋敷の薬草庫には小さな火が灯っていた。
薬研の擦れる音が、薬草庫に一定の間隔で響いている。
この家の当主である雪代政臣の次女、桜来。彼女は乾燥させた葉を指先で砕き、仄かに立ちのぼる香りを確かめていた。葉の色と匂いを確かめれば、乾燥の状態は見分けられる。
それから桜来は、色の変わった葉を除き、状態のよいものだけを薬研へ移していく。竈では火が焚かれ、煎じた薬草の苦い匂いが、細い湯気とともに室内へ広がっている。
桜来は患者ごとの記録を読み返しながら、薬草の量を細やかに調整した。
彼女は雪代家の血を引き継いでいるにもかかわらず、霊力を持たない。しかし、桜来は霊力が使えなくても、薬草の性質と組み合わせは誰よりも熟知していた。
桜来の調合に迷いはない。雪代家で用いる薬草の調合を、彼女が一手に引き受けてきた証でもあった。
ただし、この薬が雪代家の治療として認められたことは一度もない。霊力を使わない薬は、雪代家では治療とさえ認められてはいないのだ。
術師たちにとって、薬草を煎じることは使用人にもできる仕事にすぎない。桜来が調合した薬草で病の症状が和らいでも、雪代家の人間は偶然だと言って、取り合おうとはしなかった。
しかし桜来は、家族の評価など全く気にしてはいなかった。自分が調合した薬草を待っている人がいる。その事実だけが桜来にとっては重要であった。
夜明け前から薬研を握り続けた指先は、すでに冷えきっており感覚が鈍くなりつつある。空腹を感じてはいたが、鍋の火から離れる気にはなれなかった。竈へ近づけた手のひらだけが、ようやく温度を取り戻していた。
その時だった。控えめな戸を叩く音に、桜来は薬研を動かす手を止めた。
「はい、入りなさい」
桜来が声をかけると、戸が控えめに開き、あたりを警戒するように見回しながら、ひとりの使用人が入ってきた。
使用人の肩や髪には、外で降っているのであろう雪が残っていた。
「桜来様、ご報告でございます。北の集落で、昨夜からさらに三人が熱を出したそうです」
「また増えているのですか?」
「はい、すでに術師様の治療を受けた者も、翌朝にはまた熱が戻ると聞いております」
「それは、術が効いていないということですか?」
「断言はいたしかねます。しかし発熱は繰り返し、患者数は増え続け、その中には子どももいるとのことでございます」
使用人の報告を聞いた桜来は冷静に情報を頭の中で整理していた。
「薬草を服用した者の症状はどうですか?」
「今のところ小康状態を保てているようでございます」
「分かりました。それでは同じ薬を調合しておきましょう。症状の出た者に服用させてください。子ども用と大人用を準備しますので、間違えないように服用させてください」
「分かりました。しかし、桜来様……」
使用人は言いにくそうに言い淀む。
「なんですか?」
「これらのことが旦那様に知られれば、桜来様がお咎めを受けます。民に雪代家の薬草を配ることは禁止されておりますゆえ……」
「心配はいりません。万が一、問われるようなことがあれば、あなたは『桜来の命令である』と答えてください。そうすれば、私以外の者が責任を問われることはございません」
桜来はそう言いながら、棚から新たな薬草を数種類取り出している。
「しかし……」
「今は私の心配よりも病人への対応を優先してください」
「桜来様……」
なにかを言いかけた使用人の言葉を遮るように桜来は手を止めて振り返った。
「やはり私も一緒に症状のある者のところに参りましょう」
「それはなりません。万が一、桜来様の身になにかあったら……」
「心配には及びません。他の症状がないか確認をしておきたいのです」
「それなら私が……」
「症状を診る目は、あなたより私の方が確かです」
桜来の有無を言わせぬ言葉に、使用人は返す言葉が見つからなかった。
「分かりました。ですが絶対に私の傍から離れないでくださいね」
「承知いたしました」
桜来は満足そうに頷いた。
それから桜来は慣れた手付きで、籠に調合した薬包を多めに詰めていく。
***
薬包を抱えて廊下へ出ると、中庭から鋭い音が響いた。
冷えた廊下を進むにつれて、肌を刺すような霊気が強くなっていく。
中庭には、桜来の妹である結奈の姿があった。
結奈が腕を振り上げると、降り続いていた雪が空中で静止した。そして次の瞬間には、無数の雪片が渦を巻き、中庭の中央へ巨大な氷の花を形作った。透き通った花弁が朝日を受け、淡い光を四方へ散らす。
その場にいた術師たちから、抑えきれない感嘆の声が漏れた。
美しい術だった。ただ、その冷気は雪代家の術としては異様なほど強い。氷の花の中心を、一瞬だけ黒い影が横切った。
中庭には結奈の術を眺める、雪代家当主の政臣と雪の国の大神官、氷室玄斎の姿もあった。
政臣の顔には、娘を慈しむ父親より、価値ある力を確認した当主の満足が表れている。
「見事でございます、結奈様。これほど澄んだ霊力を持つ巫女は、雪代家の歴史にもおりますまい」
玄斎は目を細め、結奈の身体から立ち上る霊気を注意深く観察していた。
結奈は政臣の言葉を待つように、期待を込めて父親を見上げた。
「よくやった、結奈。その力は雪代家の宝だ」
「はい、お父様。もっと強い術も使えるようになってみせます」
称賛を受けた結奈の顔に、花が開くような笑みが広がった。
その時、中庭の端では、玲華が術師たちから報告を受けていた。玲華は広げた地図へ目を落とし、結界を補強する場所を順に指示していく。報告に迷いがあればすぐに問い返し、必要な人数と術具を即決していく。
玲華の的確な指示に逆らう者はおらず、術師たちはすぐに配置へと戻っていく。
華やかな結奈とは異なる形で、統率力のある玲華もまた雪代家に欠かせない娘だった。
「桜来お姉様、見ていたの?」
桜来の存在に気づいた結奈が歩み寄ってきた。
「見事な術でした。あなたにしかできないことです」
満足そうな表情を浮かべた結奈の視線が、桜来の抱えている籠の薬包へ落ちた。
「まあね。鍛錬を重ねた結果よ。お姉様は……また薬を作っていたの? 霊力を使わない薬草なんかが、本当に効くのかしら」
「あなたの術を必要とする者もいれば、薬を必要とする者もいます」
「玄斎様は、病の原因は穢れだとおっしゃっているわ。薬草で穢れは祓えないでしょう?」
「病の原因はまだ調査中です。苦しさが和らぐのならば、治療法に優劣を付ける必要はありません。重要なのは治るかどうかです」
桜来の言葉に返す言葉が見つからない結奈は悔しそうに唇を噛みしめた。
「桜来」
「玲華お姉様」
「治療の方針を決めるのは、桜来、あなたじゃないわ。当主と大神官よ」
玲華の言葉は冷静で、反論を許さない命令の形を取っていた。
「はい、その通りでございます」
桜来は姉の目を見返したが、声を荒らげることはなかった。
「個人の判断で薬を配るべきではないわ」
「高熱に苦しんでいる民がいます。これだけでも届けさせてください」
姉妹の会話でありながら、そこには親しさより役割の差が強く表れていた。
姉妹が話していると政臣がそれに気づき歩み寄ってきた。
「桜来」
背後から名を呼ばれ、桜来は一度息を整えてから振り返った。
「お父様」
桜来は素早く一歩退くと父に敬意を示すべく、深々と頭を垂れた。
「お前はまた薬草庫に篭っていたのだな? それでその薬をどこに持っていくつもりだ?」
政臣の視線は、桜来ではなく腕にある薬包の籠に向けられていた。
「北の集落へ届けます。術を受けても、熱が戻る者が増えています」
「その必要はない。霊力を用いぬものを、雪代家の治療として認めることはできぬ」
「しかし薬を飲んだ者は、熱と痛みが和らいでいます」
「雪代家の娘が、術師たちの治療を疑うような真似をするな」
父親は薬の効き目ではなく、雪代家の権威が損なわれることを問題にしていた。
「術を否定しているのではありません。補える方法を使いたいだけです」
「力を持たぬお前に、治療の方針を決める権限はない。薬は処分しろ。今後、私の許可なく配ることは許さぬ」
父親の声に怒りはなかった。だからこそ、決定が覆らないことが分かった。
桜来がどれだけ言葉を尽くしても、霊力を持たないという一点で退けられる。これは今日が初めてのことではない。むしろいつものことなのだ。そのため薬の効果を否定されることには、すでに慣れていた。
政臣の桜来に向ける眼差しは、娘の話を聞く父親のものではなく、命令に背いた者を処理する当主の目だった。
桜来は自分が叱られたことよりも、薬が病人に届かないことのほうが気にかかっていた。
しかし、ここで逆らえば、薬草庫へ入ることさえ禁じられるかもしれない。今は従ったほうが、残せるものが多い。命令を受け入れることと、薬を捨てることは別だと桜来は考えた。
「……承知しました」
反論を飲み込んだ喉に、薬草の苦い匂いが残った。
玲華は口を挟まず、桜来が命令に従うのを待っており、結奈は政臣の機嫌をうかがうように父親を見ていた。
玄斎は穏やかな表情で桜来の反応を観察している。
桜来が「承知しました」と答えると、政臣はすでに関心を失ったように視線を外した。
「失礼いたします」
桜来は父に向かって丁寧に頭を下げると、薬草庫に戻るためにその場を離れた。




