最終話 菫の花畑
エレーナが誕生して一年半が経ち、アルバラード辺境伯領にまた菫の咲く季節が訪れた――
「ヴィオラ様、新作のスタイが仕上がりました!」
ノックの音と共にヴィオラの部屋に顔を出したのは、ラウラだった。孤児院を三年前に巣立った、刺繍教室の生徒だった少女だ。
「ヴィオラ様、これでいかがでしょうか?」
「ええ……ラウラ、よく出来ているわ」
「ありがとうございます……!」
「早速、エレーナに付けてみるわね」
エレーナを抱いたレアンドロがやって来た。
ヴィオラがエレーナにスタイを付ける様子に、彼は笑みを零した。
「可愛らしいスタイですね」
「ええ、工房の新製品ですの。お洋服とお揃いですのよ」
ヴィオラは、エレーナの首元に付けた純白のスタイをそっと整えた。円形のスタイの縁に沿って、淡い春色の花の刺繍が施されている。
(それにしても……まさか、刺繍工房がこんなに忙しくなるなんて、思いもしなかったわ)
――遡ること、およそ四年前。マテオがまだ赤子の頃のこと。
始まりは、刺繍用の小部屋だった。レアンドロがヴィオラのために邸の中に用意した、日当たりの良い可愛らしい部屋だ。
その部屋で、ヴィオラは息子のマテオのためのベビー服やベビー用の小物を作り、そこに可愛らしい刺繍を施した。彼女にとっては、ただ趣味でやっていたことだった。
「あら……アルバラード辺境伯夫人、可愛らしいハンカチですわね」
「これは、息子のスタイとお揃いで作りましたの」
「まあ……これをご自分で?」
夫人が集まるサロンで、ヴィオラはマテオのスタイとお揃いで作った刺繍のハンカチを見せた。それは、夏生まれのマテオのために、太陽と愛らしい獅子の刺繍を施したものだった。
「まあ、なんて可愛らしいの……!」
「こんな刺繍は初めて見ましたわ。とても素敵ですわね」
「わたくしも、娘とお揃いのものが欲しいですわ」
「同じものが欲しい」という夫人たちが数名現れ、ヴィオラは彼女たちにスタイとハンカチのセットを贈った。
そこから、ヴィオラの刺繍の評判は広まり始めた。
(どうしましょう……このままでは、とてもお待たせしてしまうわ)
半年を過ぎる頃には希望者が更に増え、手が回らなくなったヴィオラはレアンドロに相談をした。
そして、レアンドロの提案で、邸の敷地内に小さな刺繍工房を立ち上げることになった。
『刺繍工房 ヴィオラ』の誕生だった――
「ヴィオラ様、早速新作のご予約が一杯になったと工房から連絡が来ています」
「まあ、本当に?! ペドロ、すぐに行くと伝えてちょうだい」
「畏まりました!」
執事のペドロは、早歩きで廊下を戻っていった。
「あの、レオ様……出発は、もう少し待ってくださいますか?」
「勿論です。いつまでも待ちますよ」
「行ってらっしゃい」とレアンドロはエレーナの小さな手を取って、手を振った。
微笑んで手を振り返したヴィオラとラウラの二人は、急いで刺繍工房へと向かった。
「お洋服とスタイの仕上がりはどうかしら」
「注文が多く、急ぎで追加の分を作り始めました」
「焦らなくて大丈夫だから、丁寧に仕上げてちょうだいね。お客様の大切な赤ちゃんたちが使うものだから」
「「はい!!」」
ヴィオラの刺繍工房では、孤児院を巣立った子供たちを従業員として雇い入れていた。
刺繍部門には、刺繍教室出身の生徒を受け入れ、注文数の増加に伴い、服飾部門と販売部門も立ち上げた。
そして、孤児院では、希望する子供たちに服飾や販売の仕事をするための教育を始めた。
孤児院の子供たちは皆熱心に学び、ヴィオラの刺繍工房へとやって来た。そして、一生懸命に働いた。
そのおかげもあり、ヴィオラの刺繍工房は辺境伯領だけでなく、王都まで販路を拡大し、次第に名が知られるようになっていった。
ヴィオラ一人では、とてもなし得ないことだった。
「ヴィオラ様、私たちを受け入れてくださって、本当にありがとうございます」
「そんな……お礼を言うのはわたくしの方よ。皆にこうして手伝ってもらえて、本当に感謝しているの。工房がこんなにも大きくなったのは、皆が頑張ってくれたからですもの」
ヴィオラがそう言って微笑むと、ラウラは涙ぐんで目元を拭った。
工房で働く少年少女たちの眩しい笑顔に、ヴィオラの胸を陽だまりにいるかのような温かさが包んだ。
アルバラード辺境伯領の孤児院の子供たちは、皆素直で勤勉でとても優秀だ。――そんな噂が広がり、孤児院を出た子供たちの受け入れ先は増え始めていた。
孤児院の院長だけでなく、ヴィオラもレアンドロも、それを我が子のことのように嬉しく思っていた。
◇
その日の昼下がり、ヴィオラたち家族は菫の花畑にやって来ていた。
甘い春の風に、ヴィオラの纏う淡い菫色のドレスの裾が柔らかく靡いている。
「良い香り……今年も綺麗に咲いてくれたのね……」
「ヴィオラのために咲いたんですよ」
エレーナを抱いたまま甘く囁いたレアンドロに、ヴィオラは小さく笑った。
淡い菫色の帽子とワンピース姿のエレーナを、レアンドロはそっと花畑へと立たせた。ヴィオラとお揃いのワンピースのリボンが、ふわふわと風に揺れている。
「かあさま! おはなをつんでもいいですか?」
「良いわよ。でも、少しだけにしてね」
「はい!」
マテオは、菫の花を一輪摘んだ。
その様子を見ていたエレーナが、よちよちとマテオに歩み寄る。
子供たちは、水色と菫色の澄んだ瞳で見つめ合った。
「はい。エレーナにあげます」
「あーとう」
「どういたしまして」
マテオから菫の花を受け取ったエレーナ。子供たちは、満面の笑顔でヴィオラとレアンドロを見上げた。
「良い子ね、マテオ。エレーナも、ありがとうが上手に言えたわね」と子供たちに笑いかけたヴィオラ。
レアンドロは、柔らかな眼差しで彼女たちの様子を見つめている。
「とうさま、かあさま! エレーナがよろこんでくれましたよ!」
「ああ、見ていたよ。とても嬉しそうだったね」
「はい! とうさまとかあさまにも、どうぞ」とマテオから菫の花を差し出され、レアンドロとヴィオラは屈んでそれを受け取った。
「ありがとう、マテオ。母様はとっても嬉しいわ」
「帰ったら、押し花にしましょう……紙に貼って、子供たちにお絵描きをさせましょうか」
「ぼく、おはなばたけのえをかきます!」
ヴィオラは「それは素敵ね」と笑って、マテオとエレーナをそっと抱き締めた。
その姿を、レアンドロは何より愛おしげに見つめた。
「ぼくは、エレーナとおさんぽをしてきます」
「行ってらっしゃい。転ばないよう気を付けるのよ」
「だいじょうぶです。ぼくがエレーナをまもりますからね」
「まあ、まるでエレーナを守る騎士ね」と笑ったヴィオラ。
得意げに微笑んだマテオがエレーナの手を引いて、ゆっくりと歩いていく。
小さな二人の背中を、ヴィオラとレアンドロは幸せそうに眺めた。
「マテオの話し方は、レオ様によく似てきましたわ」
「そうでしょうか」
「ええ、そうですわ」
「……子供たちの成長は、あっという間ですね」
「本当に……夏には、マテオが五歳になるんですもの。少し前まで、まだ赤ちゃんだと思っていたのに……」
子供たちを見つめながら柔らかに微笑むヴィオラの横顔を見て、レアンドロは眩しそうに目を細めた。
「ヴィオラ……ありがとうございます」
低く、穏やかな声が落ちた。
不思議そうに見上げたヴィオラに、レアンドロは微笑んだ。
「こんなにも幸せなのは、貴女のおかげですから」
「いいえ……すべて、レオ様のおかげですわ。わたくしの方こそ、いつも心から感謝していますのよ」
そよ風が、菫の花の香りを運ぶ。
子供たちの笑い声に、二人は視線を向けた。
子供たちは向かい合って、何か話している様子だった。
「また、ここに来ましょう。……家族一緒に」
「ええ、来年も来たいですわ」
「来年も――その先も、ずっと来ましょう。一緒に」
「ええ……」
そっと繋がれた右手の温もりに、ヴィオラはレアンドロを見上げた。
「愛しいヴィオラ……心から愛していますよ」
「わたくしも同じ想いですわ……レオ様を、心から愛しています」
レアンドロにそっと抱き寄せられたヴィオラは、彼の胸にもたれて菫色の景色を眺めた。
夫の温もりと小さな手を繋ぐ子供たちの愛らしい姿と笑い声――ヴィオラの胸を、温かな幸せが満たした。
それから、少し経った頃――
夫婦の部屋の家族の肖像画の隣に、マテオとエレーナが描いた可愛らしい絵が飾られた。
それは、菫の押し花が貼られた、花畑で笑う家族四人の絵だった。
「ヴィオラ、また眺めていたんですか?」
「ええ……とっても幸せな気持ちになるんですもの」
ヴィオラの幸せな日々は、まだ始まったばかりだ――
―― Fin ――
この物語を最後まで見届けていただき、本当にありがとうございます。
同じタイトルの短編から【連載版】として始まった物語でしたが、おかげさまでたくさんの方に読んでいただき、応援していただけて、こうして最後まで書くことができました。
そして、完結後にも、こんなにたくさんの方に読んでいただけるとは思わず、感謝の気持ちで一杯です。
シリアスも多めの作品でしたが、ほのぼのしたり、温かさを感じたり、少しでも笑っていただけたなら、何よりです。
もし、この物語を楽しんでいただけましたら、ページ下部の【☆☆☆☆☆】やブックマークなどで応援していただけると嬉しいです。
読んでくださった皆様に、心から感謝いたします。
星谷明里




