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1話 見捨てられた侯爵夫人

短編『あの日、妻と子を殺したあなたへ』を加筆・再構成した連載版です。

短編では描ききれなかったシーンも含めて、ヴィオレッタたちの物語を描いていきます。

「ロナルド様、助けて! 赤ちゃんが!」


 ヴィオレッタは、冷たい川の流れに藻掻きながら叫んだ。

 彼女の波打つ黒髪とラベンダー色のドレスが、肌を刺すような冷たい水の中に漂っている。


(この女は、私の子を二度も殺そうとした……)


 必死に水面から顔を出すヴィオレッタに冷たい視線を向けると、ロナルドは背を向けた。俯いた彼の金の髪を雫が滴り落ちる。

 その腕の中には、彼が川から助けたばかりの身重のリリアーヌの姿があった。


(わたくしのお腹にも、ロナルド様の赤ちゃんがいるのに……)


 愛人リリアーヌを抱いて背を向けた夫に、かろうじて残っていたヴィオレッタの心は凍りつき、粉々に砕け散った。


「ロナルド様、ヴィオレッタ様が……」


 リリアーヌの潤んだ青い瞳がロナルドを見上げた。

 彼は答えないまま、彼女の白い顔に張り付いた淡い金の髪をそっと払った。

 そして、子兎のように震える彼女を抱き寄せる。


「ロナルド様、助けて……っ」


 再び聞こえた救いを求める妻の声に、彼は瞼を閉じた。


(私は、リリアーヌとこの子を守らなくてはならない……)


 自分の子を身籠るリリアーヌの肩を抱き、彼は歩き出した。

 淡いピンク色のドレスに包まれた彼女の腹部は大きく膨らんでいる。臨月を迎えた彼女のために、彼らは辺境の別荘地まで静養に来ていた。


 ()()()()()()()ヴィオレッタは、嫉妬に駆られてリリアーヌを泉と川に突き落とした。これからも、リリアーヌや子供に危害を加えるはずだ――ロナルドはそう信じていた。


「侯爵様!! 奥様は……」


 駆けてきた若い騎士の声にロナルドが川を振り返ると、そこにヴィオレッタの姿はもうなかった。


 ロナルドは、ただ水だけが流れていく水面を見つめた。


「二人が川に落ちて……リリアーヌを助けるので精一杯だった」

「わたしのせいで、ヴィオレッタ様が……」

「リリアーヌ、お前のせいではない。寒いだろう……お腹の子に障る。行こう」


 ロナルドに肩を抱かれながら、川の流れに目をやったリリアーヌは薄っすらと目を細めた。


「そこの……マントを貸せ」


 騎士の一人からマントを受け取ると、ロナルドはそれでリリアーヌをそっと包んだ。

 震えながら泣きじゃくるリリアーヌを抱き上げると、ロナルドは暖かな別荘へと歩き出す。

 主が愛人を大切そうに抱いて去っていくのを、騎士たちは険しい顔で見送った。


「ロナルド様、わたし……」

「大丈夫だ。お前は、自分とお腹の子のことだけ考えていれば良い」


 ロナルドとリリアーヌの二人が別荘で着替え、温かな紅茶を口にしているとき、ヴァルデン侯爵家の騎士たちは総出で川を捜索した。


「あの御方は、俺たちの名を覚えてくれていた…」


 ヴィオレッタは、訓練中の騎士たちの休憩を見計らってよく差し入れをしていた。邸を空けてばかりの夫に代わって、騎士や使用人たちに気を配っていたのだ。


『奥様! このようなむさ苦しいところへお出になられるなど――』

『こうして安心して過ごせるのは、皆様のおかげですもの』


 騎士たちは、暖かな労いをくれた侯爵夫人ヴィオレッタを助けるために自ら動いた。

 けれど、彼らの必死の捜索も虚しく、ヴィオレッタはついに見つからなかった。


「侯爵様、ルークス王国との国境まで探しましたが、奥様は見つかりませんでした」

「どうかルークスに立ち入る許可を!」


 騎士たちも使用人も、川で行方知れずになったヴィオレッタが不憫でならなかった。


 「探したところで、もう生きてはいないだろう」と嘆く様子すら見せないロナルドに、“何としても見つけ出して、ヴァルデン侯爵夫人として弔うべきだ”と多くの者が進言した。


「もうすぐ、私の子が生まれるんだ。ヴァルデン家の跡継ぎが生まれるのに、葬式だなんて縁起が悪い」


「侯爵様……」


 僅かに眉を顰めた騎士たちを一瞥すると、ロナルドは書類の束を手にした。


「私は忙しいんだ。もう下がれ」


 そして、ヴィオレッタが消えてひと月が経った頃、リリアーヌが子供を産んだ。


「ロナルド様……わたしとロナルド様の子ですわ」

「愛しいリリアーヌ、よく産んでくれた!」


 「可愛い我が息子よ。お前が次のヴァルデン侯爵だぞ」と微笑んだロナルドは、産まれたばかりの赤子の小さな手にそっと触れると、リリアーヌを大切そうに抱き締めた。


「ロナルド、赤ちゃんの名前はもう決めたのか?」

「エーリヒです。私が名付けました」

「良い名前ね……ヴァルデン家の跡継ぎに相応しいわ」


 ロナルドとその両親が待ち望んでいた男児の誕生に、彼らは笑顔で祝杯を交わした。

 「奥様がまだ見つかってもいないのに……」と白い目を向ける使用人たちの様子に、彼らは気付きもしていなかった。


 そして――


「ヴィオレッタの葬儀を行う」


 亡骸がないことを理由に、ヴィオレッタの葬儀は身内だけでひっそりと行われた。


「ヴィオレッタ様、お可哀想に……」


 彼女の死を悼んで涙を流したのは、侯爵家の騎士と一部の使用人たちだけだった。


「リリアーヌ。暖かくなったら、三人で旅行に行こう」


 「どこに行きたい?」と微笑むロナルドに、リリアーヌは嬉しそうに笑った。


「それでは……またあの別荘へ行きたいです」

「あそこへ? ……他にも良い場所はあるだろう」

「エーリヒもまだ小さいですし、近い場所が良いかと思って……」


 そう口にしたリリアーヌを、「お前は……本当に欲がないな」とロナルドは抱き寄せた。

 彼の腕に抱かれながら、リリアーヌは裏庭の奥にある墓地を眺めた。

 そこには、白百合が供えられたヴィオレッタの墓があった。


 この日、侯爵夫人だったヴィオレッタは世界から消えた。

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