第10話 偽りが褪せたその先で
本物の色は、最後に、残る。すべての偽りが褪せ、流れ去ったあとに、静かに、そこに、在り続ける。
人の真心も、きっと、同じなのだと――私は、その日、知った。
入口に立っていたのは、ジェラルド殿下だった。
あの夜、皆の前で、私の側に、立たなかった、元婚約者。
「殿下……」
殿下は、まっすぐ広間を進み、私の隣ではなく、ガラン公爵の前に、立った。
「公爵。その証人の証言、私が、確かめた」
「殿下、これは――」
「証人と称する男は、あの夜、王都に、いなかった。隣の町の宿に、泊まっていた。宿の主が、はっきり、覚えている。つまり、あなたの証言は、偽りだ」
公爵の笑みが、初めて、はっきりと、ひび割れた。
ジェラルド殿下は、廷臣たちを、見渡した。
「私は、愚かだった」と殿下は、静かに言った。「偽りの令嬢に目を奪われ、最も誠実な人を、自ら、手放した。だが――婚約を解いたあと、ひとつだけ、引っかかっていた。なぜ、ロザリン嬢を陥れる噂が、こんなにも都合よく、次々と、流れるのか」
「殿下……あなた、まさか」と私は、声を、漏らした。
「ああ。私は、ひそかに、調べていた。君を信じる、と言える資格は、もう、私には、ない。だから、せめて、調べた。噂の、出どころを、たどってね」
殿下は、一束の書状を、国王の前に、置いた。
「噂の糸は、すべて、ガラン公爵の屋敷に、つながっていました。さらに――書庫の女官長を手にかけた者も、公爵の従者だと、裏が、取れています。陛下。どうか、お検めを」
敵だと思っていた人が、最後の最後に、私の側に、立っていた。
いいえ。私の側、ではない。彼は、自分の犯した過ちを、自分の足で、正しに、来たのだ。それは、私のためというより、彼自身の、誇りのためだったのだろう。
それでも――その勇気を、私は、認めようと思った。
国王が、立ち上がった。
「ガラン公爵。弁明は、あるか」
公爵は、もう、笑っていなかった。けれど、最後まで、見苦しくは、しなかった。それだけは、認めよう。
「……賢い娘だ」と公爵は、私を見て、低く、言った。「だが、覚えておけ。私が崩れても、利を求める者は、また、現れる。色など、誰も気にせぬ世が、いずれ、来る」
「いいえ」と私は、静かに、答えた。
「色を気にせぬ者が増えても、色を読める者が、ひとりでも、いれば、嘘は、いつか必ず、暴かれます。藍が、空気に触れて青くなるように。本物は、最後に、必ず、残るのです」
公爵は、それきり、口を、つぐんだ。
私は、その背中を、見送った。憎しみは、もう、湧かなかった。
あれほど、巨大に見えた人が、今は、ただ、ひとりの、年老いた男に、見えた。たくさんの色を、踏みつけて、最後に、自分の色さえ、失った人。
(あなたにも、きっと、まっすぐな色だった頃が、あったのでしょうね)
ふと、そんなことを、思った。けれど、それは、彼が、選んだ道だった。誰のせいでも、ない。
人は、一度に、悪くなるのではない。ほんの少しの近道を、一度、また一度と、選ぶうちに、いつのまにか、戻れない場所まで、来てしまう。
媒染を、ひと手間、惜しむたびに、色が、痩せていくように。きっと、公爵にも、引き返せる分かれ道が、いくつも、あったのだ。
ニコ。オーレリア。命がけで控えを残した、バルト。たくさんの人の、想いが、この日を、支えていた。
私は、ひとりで、勝ったのでは、ない。みんなで、偽りを、褪せさせたのだ。
陛下の裁定が、下った。
ガラン公爵は、すべての位を解かれ、その罪を、裁かれることとなった。シエナは、王家の色を騙った罪と、身分の詐称により、宮廷を、追われた。ナタリーもまた、自らの罪を、自らの口で、認めた。
裁きは、淡々と、進んだ。私は、ひと言も、声を、荒らげなかった。荒らげる必要が、なかった。
色が、すべてを、語ってくれたから。
◇
季節が、いくつか、巡った。
王立染織工房は、私の手に、戻ってきた。けれど私は、宮廷の奥に戻ることは、選ばなかった。
陛下は、私に、爵位も、宮廷での地位も、望むものを与えると、仰った。
「ありがたいお話です」と私は答えた。「ですが、私の居場所は、染め場です。色のそばで、生きていきとうございます」
殿下――いまは、ただの、知り合いに戻った人は、少しさみしそうに、けれど、清々しく、笑った。
「君らしいな」
工房には、季節が変わるたび、新しい弟子たちが、入ってくる。
私は、彼らに、誤魔化しの利かない仕事の、厳しさと、楽しさを、教える。
「手を抜いた色は、必ず、いつか、本性を見せる。だから、ここでは、近道を、教えないわよ」
弟子たちは、笑って、うなずく。かつての、私や、ナタリーが、そうだったように。
ときどき、町の染師や、遠い村の織り手も、工房を訪ねてくる。私は、惜しまず、色のことを、教える。本物の見分け方も、媒染の効かせ方も、隠さずに。
色も、技も、独り占めにすれば、淀む。手から手へ、渡してこそ、生きる。それが、ニコの遺した、いちばん大きな教えだった。
ナタリーのことは、今も、時々、思う。彼女は、罪を、償う道を、歩んでいる。恨みは、もう、なかった。ただ、もう一度だけ、あの頃のように、並んで、桶を覗けたら――そう願うことだけは、自分に、許している。
シエナも、ガラン公爵も、それぞれの、裁きの中にいる。私が、声を、荒らげるまでも、なかった。偽りは、自分の重さで、勝手に、崩れていった。褪せた色が、雨に、流されるように。
私は、工房の、いちばん日当たりのよい窓辺に、一枚の布を、飾った。
オーレリアの、手巾。本物の、貝紫。
陽が差すたび、その紫は、深く、静かに、光る。何年経っても、褪せることなく。
(見ていてください。あなたの遺した色は、ここで、生きています。これから先も、ずっと)
工房の染め場には、ニコの台が、今も、そのまま、置いてある。私は毎日、そこで、藍の桶を、覗き込む。
黄緑の液に布を浸し、引き上げる。空気に触れた布が、青く染まるたび、私は、ふたりのことを、思い出す。
色は、いつか必ず、本当の姿を、見せる。隠していた真心も、いつか、表に、出る。
ニコ。オーレリア。あなたたちが遺してくれた色は、今も、私の手の中で、生きています。
その日の夕暮れ、染め場に、ひとりの男が、訪ねてきた。
セドリックだった。調査官の外套ではなく、ただの、普段着で。
「精が、出るな」
「ええ。今日は、特別な色を、染めているの」
私は、桶から、一枚の布を、引き上げた。深い、深い、紫。
「貝紫?」
「いいえ。これは、私が、私の手で考えた、新しい紫。本物に似せた偽物では、なく、本物とも違う、私だけの、色」
セドリックは、その布を、しばらく、じっと、見つめた。
「……きれいだ」
たった、ひと言。けれど、その声には、嘘が、ひとつも、なかった。
私は、その布を、彼の首に、そっと、巻いた。手が、触れる。彼は、それを、外そうとは、しなかった。
「似合っているわ」と私は、言った。
夕陽が、染め場に、差し込み、紫の布を、やさしく、照らした。
褪せない色だ、と、思った。きっと、これから先も、ずっと。
偽りが、すべて褪せて、流れ去った、その先で。
私の手のひらには、本物だけが、静かに、残っていた。
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