模範の人(4862文字)
エヌ君はちょっとお金持ちな家に生まれ、教育熱心なママに育てられた。
「いい、エヌ君。これからの社会は、どんどん情報化が加速していくわ。だからこそ、情報に呑まれるような人間になってはダメ。皆が使っているスマホも、あなたは使ってはいけないのよ」
「はいママ。僕はそうします」
エヌ君は純真無垢な目をして答えた。パパが言っていたけれど、ママは頭のいい学校で、勉強を教えることを専門に学んでいたのだという。だからママの言うことに間違いはなかった。
それに、エヌ君は本心でも不満がなかった。スマホは、使いすぎると馬鹿になるのだという。なのに、世界の皆が使いすぎているという。それなら、エヌ君だけ使わないというのは、とてもいいことに思われた。将来、本当の意味で自分のためになるのだと思われた。
エヌ君はスマホなんか使わず、毎日、算数や英語の勉強をした。そして、退屈になったらママがオススメする本をたくさん読んだ。
ある日、エヌ君はパパに呼び出された。
「なぁエヌ。最近勉強ばかりで、疲れてはないか」
「うんパパ。ちょっと疲れてるかも」
エヌ君ははにかんで見せた。確かに、毎日数字とアルファベットを見ていると、頭が重くなる感じがした。パパはエヌ君の肩を掴み、にっと笑った。
「よく頑張ってるもんな。でもなエヌ。人間、勉強してばかりというのもいけない。外に出て、体を動かすこともとても大事なんだ。健康な体は、一生の宝物だからな。よし、今日は一緒にサッカーをして遊ぼう」
「はいパパ。僕もそうします」
そういって、二人は家の外の大きな庭で、サッカーの練習をした。ママも、そういうことならと喜んで今日の勉強の予定をお休みにし、見守ってくれた。パパは学校に通っていたころサッカーをしていて、ママと出会ったのだという。パパとママは、とてもラブラブだ。
エヌ君は、サッカーを本心から楽しんだ。頭が疲れているときに体を動かすと、むしろすっきりすることを知った。これもまたパパの言う通り、将来、本当の意味で自分のためになるのだと思われた。
エヌ君は勉強をし、本を読み、サッカーをし、元気に育った。
そうして、学校に通うようになった。
エヌ君はよくテストで一番を取った。運動会でも、一位を取った。
すると、先生たちも目を輝かせて、エヌ君の両手を握り、こんなことを言ってくる。
「あなたは素晴らしい生徒です。ぜひ、生徒会長に」
「君は素晴らしい選手だ。ぜひ部長に」
「はい先生、僕はそうします」
エヌ君は笑顔で手を握り返した。
どちらも本心からやってみたいと思えた。パパとママが言っていたし、本の中の偉い人も認めていた。責任ある立場でしか、得られない学びがある。将来どんな仕事をするにしても、役に立つ経験だと思われたのだ。
一方で、こんな誘いも受けた。
「おいエヌ。放課後、ボウリングに行こうぜ」
「なぁエヌ、隣町の女子高の文化祭を覗いてみよう!」
「うん。僕もそうするよ」
エヌ君は友達の誘いに、笑顔で乗った。
これらもまた、必要なことだと思えた。エヌ君の信頼する大人の、誰もが認めるところ。人間社会の根幹は、どこまで行ってもコミュニケーション。人付き合いを味わうことは、将来、本当の意味で一人前になるために欠かせないことだ。
そうしてエヌ君は、あどけなさを上手に脱ぎ捨て、精悍な青年へと羽化していく。
選んだ大学は、海を越えた先にある、世界一の名門。学部は迷ったけれど、高校時代の一番の恩師の言葉を参考にした。
「エヌ。君は非常に優れた人間だ。理数系のセンスに秀でているうえで、外国語を操れるし、さらには、人付き合いの大切さも分かっている。君のような奴は、これからの将来、一番大切になる分野に進まねばならない。そうしないことは、未来への裏切り同然なのだ」
「はい先生。ありがとうございます。では、僕はどの分野へ進むべきなのでしょう」
「ロボット工学だ。間違いない」
「はい先生。僕はそうします」
というわけで、エヌ君はロボットの世界に足を踏み入れた。そして学生の内に、めくるめく出世街道を駆け上がった。
新たな知見の技術論文を出し、大御所教授と関係性を作り、物理学などの近縁分野の学会にも顔を出すことで……才能任せではない、円満な立場作りをやってのけたのだ。
すると、世界中のロボット企業が彼を放っておかなかった。才気あふれる上に、社交力も持ち合わせた新鋭がいるぞということで、いろんなところからスカウトが来た。
どの企業も、並みの学生なら目が飛び出るような、大企業ばかり。
エヌ君も流石に迷ってしまって、こういう時はということで、この世で最も信頼できる男、パパに連絡を入れた。
パパは遥か海の向こうの故郷から電話越しに、こう言ってくれた。
「エヌ。この選択は、今までのお前の努力で勝ち取った、お前だけの選択だ。どんな人生を送りたいかを考え、自分の心の赴くままに選ぶといいよ」
エヌ君は心からの感謝を込めて、そう言った。
「はいパパ。僕はそうします」
決めたのは、世界一とされるロボット企業、T社。
何を持って世界一とするかと言えば、前年度の総売上額であった。
T社に入ってからエヌ君は、遮二無二働いた。瑣末なプロジェクトでも渾身のアイデアを出して上役をうならせたし、鳴り物入りで入った新規事業プロジェクトでは、いつの間にかリーダーの立場になり替わっていた。
「はい社長。僕はそうします」
エヌ君はのし上がった。驚異的な早さで。この言葉とともに。
さすが、世界一のT社であるから、開発分野でエヌ君より優れた才覚を持つ人はいた。しかし、「どんな要望にも応える」という点で、エヌ君に勝る者はいなかった。
だから、最年少で幹部役員となり、社運をかけた大プロジェクトのリーダーを任されるに至った。
そのプロジェクトとは、『汎用的人型ロボット』の開発。
つまり、SF作品によく現れるような、人のように働き、考えることができる、代替労働力を産み出すプロジェクトだ。
エヌ君は奮い立った。日夜、眠らずに心身をフル回転させた。設計図、経費換算、根回し、最も効率的な人員配置──などなど。必要な仕事全部で、すばらしい働きを見せた。
ああ、このプロジェクトの成就こそが、僕の将来にとって、本当の意味で役に立つことなんだろうな。
エヌ君は確信していた。だから、一心不乱に打ち込めた。
プロジェクトは順調に進んだ。しかし、最後段階まで来て、大きな関門が立ちはだかった。ここを越えればもう成功というところだが、一手誤ればプロジェクトのとん挫もあり得る、大事な分岐点である。
エヌ君の隣に、彼の右腕として働く若い社員が来て、言った。
「エヌさん。さぁ、どうしましょう。僕らの使った汎用人型ロボット『ニュートラル』は、思考機能、発話機能、運動機能、安全機能、どれをとっても満点のデキです。けれど、性格モデル、これが一番大事だ。いわば、ロボットでいう人格。思考に方針が無ければ、ユーザーにとって『ニュートラル』は『不気味な機械』として敬遠されます」
エヌ君は腕を組んで頷いた。
若い社員は額に汗を垂らし、問いかける。
「いかがしますか。世界中のチャットデータを集積して統合し、『無難な人格』を作り上げますか。それとも、T社が運営するAIサーバーから性格モデルを転用しますか。どちらも不安点はありますが……」
語尾を濁した若い社員に、エヌ君は向きなおって、こう言った。
「僕にしよう」
「えっ?」
「性格モデルを僕にするんだ。僕の言動データを集積し、データ化する。そうして搭載する。統合データやAIモデルよりは、親しみを得られるはずだ」
右腕の社員だけでなく、周囲の部下たち全員も呆気に取られていた。
しかしそれは、けっして敬遠の空気をはらんでいなかった。
時が経つにつれ、「なるほどなぁ」「たしかに……」と賛同の呟きが漏れてくる。
右腕社員もごくりと唾を飲み込んでから、大きく頷いた。
「エヌさんならば……いや、エヌさんだからこそ、ありかもしれませんね」
そうして、腕で額の汗を拭う。
「失礼を承知で言えば、社員誰もが、あなたの働きぶりをロボットみたいだと思っています。けれど、話してみれば、ちゃんと人の温かみを持った、人格者であることが分かる。やっかむものはいても、性格を嫌う者はいません」
ははは、とエヌ君が照れたように笑う。
「恥ずかしいけれど、やっぱり、僕をモデルにすべきだと思う。僕は、人の期待に応えるのが得意だからね。『ニュートラル』に求められているものと、きっと似ているから……」
プロジェクトは、最大の関門を堂々と通り抜けた。
それから一年もしないうちに、『ニュートラル』は完成し、世界中に普及していった。
介護、配達、小売業や清掃……エッセンシャルワーカーの立場はどんどんロボットに置き換えられ、浮いた人件費によって、社会は少しずつ余裕を取り戻していくのだった。
**
時代が進んだ。エヌ君は壮年となっていた。だからここからはエヌ氏とすべきだろう。
エヌ氏は、今やT社の副社長だった。彼が管轄するのは、T社の基盤産業となった『ニュートラル』部門。普及を促進したり、新型モデルを開発したりする。
エヌ氏は相変わらず、人の要望に応えるのが得意だった。なので部門は上手く回っていた。
秋が深まったある日のことだった。木枯らしが銀杏を震わせ、美女がマフラーに唇を埋める街並みの中を、エヌ氏は歩いていた。
久々の休日。何をするでもなく、エヌ氏は都心を散歩する。これがエヌ氏の趣味であった。街には、たくさんのニュートラルがいた。老婆の隣で、肩を支えている機体。親子連れの後ろで、大きな買い物袋を下げる機体。街の片隅で、落ち葉清掃に勤しむ機体……。
自分の仕事──いや、人生の結実が、人々の隣にいる。そんな景色は、やはり心を打つものだ。エヌ氏が街を眺めていると、ふと、すれ違った青年の声が耳に入る。
「──だから、×××、明日一緒についてきてくんね?」
「はい。私はそうします」
名前の部分は聞き取れなかったが、振り返ってみれば、隣にいたニュートラルのことで間違いなかった。エヌ氏は口元をほころばせた。自分だけの名前を貰い、あの個体は明日も彼の期待に応えるのだろう。
その時だった。
ドクン、とエヌ氏の心臓が奇妙なはね方をした。
強い立ち眩みを覚えて、エヌ氏は咄嗟に、近くにあった街路樹の銀杏にもたれかかる。
酷い悪寒が背中を走って、汗が吹き出してきた。これはまずい、とエヌ氏は思った。不整脈らしい。エヌ氏が先天的に持っていた体質が、壮年期に差し掛かって、鎌首をもたげてきていた。以前病院に行ったときも、万が一の事がありえると言われていた。
電話を取り出そうとして見るのだが、指先にも力が入らない。声を出そうとしても、喉が上手く動かせない。傍から見れば軽い体調不良に見えたが、エヌ氏の体内では重大な事が起きていた。心臓に耳を澄ませても、跳ねる音がしない。
意識が薄らいできた。エヌ氏は理解した。どうやら、ダメらしいと。
エヌ氏はふっと人生を儚んだ。
──そうか。ここで終わりか。結局、妻も、子供も作らなかったなぁ。
エヌ氏には、自分の家族がなかった。仕事に忙殺され、組織に求められ続けたので、結婚する時間が持て無かったのだ。
──それでも……。
エヌ氏は最期の力を振り絞って、あたりを見まわした。
そして、微笑みを浮かべた。
エヌ氏の体が木の幹を伝って、ずり落ちていく。
肺に残った空気が動いたのか、最後にいっときだけ、エヌ氏は声を発することができた。
「期待に応えるだけ、なんだ……」
エヌ氏は人生に後悔などなかった。
本当の意味で自分のためになることが達成されていたからだ。
それは、生物としての本懐──生きた痕跡をなるべく多く、後世に残すこと。
自分の遺伝子である必要なんかない。子供だって、他人である。
これからも、ニュートラルは改良を続け、人類と共に歩み続けるだろう。
木の根でうずくまったエヌ氏に通行人が気づき、口元を覆った。
悲鳴を聞きつけ、街中のニュートラルが、一斉にエヌ氏を見つめた。




