腕の見せ場(1401文字)
銀杏の降る中央区を、制限速度ぴったりで走る。高橋は退屈していた。
高橋はベテランのタクシードライバー。勤続年数はもう二十年。これまでまったく問題を起こさず客を送り届けてきたから、社内の評価も一番高い。
しかし、上司から褒められるだけでは、高橋の心は満たされない。
たまには、特別なお客を乗せたいものだ……。そんな願いが、高橋の心で燻っていた。
たとえば、お忍びのスター芸能人。夜逃げする子連れ。あるいは「前の車を追ってくれ」なんていう……──。
そんなとき、トレンチコートを着たお客が、前方にて小さく手を挙げているのに気づいた。六十代くらいの、老紳士だ。高橋はすぐに車を止めてやる。乗り込んできたお客は、山高帽とサングラスを外さなかった。何の気なく客の顔を眺めたとき、高橋はハッとした。サングラスの向こうから覗いた、年季の染み込んだ眼光。そして乗り込んだ直後、一目後ろを振り返った素振り。高橋の気が引き締まった。
間違いない。彼は刑事だ。
ベテランの人相観がそう直感した。
扉がバタンと閉まる。
「お客さん、どちらまで」
高橋はいつもより渋めの声を出してみた。老紳士は答える。
「銀座の、三越までお願いします。そして運転手さん、頼みがあるんですが……」
──きたぞ。
「後ろに、白い軽自動車が停まっているでしょう。あれがもうすぐ発進すると思います。それに合わせて……」
高橋はほくそ笑んだ。
しかし、次の言葉が耳に引っかかった。
「離れないように前を走ってほしい」
あれ、と高橋は小首を捻る。
『前の車を追ってくれ』というのは定番だが、『後ろの車の前を走ってくれ』というのは、あまり聞かない。
いいや、この際だ。ひとこと「承知しました」と言うだけのかっこよさも捨てがたいが、ここはよりお役に立つため、詳しく聞かせてもらおうと思った。
「お客さん……刑事さんですね?」
「えっ、どうして分かるんですか」
刑事さんの驚く表情をバックミラー越しに見て、高橋の鼻が高く伸びる。
「やっぱりそうでしたか。長年ドライバーをやってるとね、お客さんの雰囲気で、生業くらいわかるんですよ」
高橋はそれとなくいうことに努めた。しゃしゃらないところに粋がある。それから心の中で、──ご安心あれこの高橋、二十年間磨き上げた腕を振るって、お手伝いさせていただきますよ──と呟いた。
そして聞いた。
「しかし刑事さん。前の車を追うって話はよく聞きます。だが、後ろの前を走るなんて初耳だ。いったいどういうわけで……あっ」
そのとき、閃いてしまった。待ち望んだ非日常の客を前に、頭も冴え渡っていた。
「分かりましたよ刑事さん。もう一台、後ろに車が控えているんだ。きっとそれは覆面パトカー。そしてサンドイッチのように、ホシを挟むって寸法ですね」
老紳士はきょとんとした顔になった。そして、すぐに山高帽を脱いで、頭を掻いた。
「ああいや、勘違いさせてしまったようで、お恥ずかしい。私は確かに刑事をやっていますが、今日はただの休日です」
高橋は目が点になって、言葉を失った。
非番の刑事さんは、困ったように、しかしどこか嬉しそうに続ける。
「実は後ろの軽自動車には私の妻と、今日が初運転の娘が乗っているんです。だから娘に内緒で、前を走ってやろうという魂胆です。妻と口裏を合わせてね……」
ははは……と刑事さんの行き場ない笑いが、車中に響いた。
高橋もひどく赤面した。
お詫びとして、とびきりの安全運転を決意した。




