第三章 リブート④
菊之宮デイジーは、ステージとフロアを合わせても学校の普通教室と同じくらいの大きさのライブハウスだった。フロアは黒と白と赤の格子模様の床で、照明や空調設備の取り付けられた低い天井には配線やダクトがむき出しで走っている。一段高くなっているステージ上には多くの照明装置やスピーカーが設置され、テスト中なのか、カラフルな照明が次々と点滅していた。その前をドラムやマイクや僕にはよく分からない種々の機材をセッティングするために、数人のスタッフが行き来する。
「まあ、まず基本はこれからかしらね」
僕の正面に立つ多佳子さんはそう言って、手にした箒とモップ、バケツを僕に手渡した。
「ステージ上の清掃は済んでいるから、フロアをお願いね。あっちの楽屋とかバーカウンターとか、こっちのPAブースはやらなくていいわ。水は楽屋に大きめの洗面台がついてるから、そこから汲んで頂戴」
キョロキョロと周辺を見回すと、ステージに向かって左手側に小さなバーカウンターがあり、何種類もの酒瓶が収まった棚の前でスタッフの人がグラスの準備をしている。フロア後方には小さなテーブルが四つ並んでいて、バーカウンターで受け取ったお酒をお客さんが立ち飲みのような状態で楽しめるようだった。さらに、ステージの横には楽屋の入り口らしき扉もある。
「これはスタッフのパスだから、首から下げておいてね。じゃあ、よろしく」
多佳子さんは僕の首に紐付きのカードケースを下げさせると、肩をばしっと叩き、踵を返して客席後方の小さな区画へと歩いて行った。そこは平たい盤の上にたくさんのつまみやらスイッチやらが付いた機械が置かれた場所で、そこにいるスタッフと何やら打合せを始めたようだった。そこがPAブースという場所なのだろう。多佳子さんが身ぶり手ぶりを交えて何か言う度、上品な黒のロングワンピースが揺れた。白髪をきれいに結いあげた多佳子さんの佇まいは優雅だった。
その多佳子さんがちらりとこちらを見る。その顔が急に怖い顔に変わったので、僕は慌てて箒を掴んでフロア前方の掃除を始めた。ステージとフロアの境にある、腰の高さくらいの柵の所から客席後方に向かって掃き清める。フロア前方を掃き終えたところで、立食用テーブルの置いてある手前で砂埃を集めてちりとりで掬った。
そういえば、このゴミはどこに捨てたらいいのだろう。多佳子さんを振り返ってみたが、PAブースの人との話に夢中で僕の状態には気付いていないようだった。
どうすればいいのだろう。
ステージ上では今日の出演者らしいバンドが楽器の演奏を始めていた。リハーサルなのだろう。ドラムの鋭い音や、濁った音からクリアな音まで様々な表情を見せるギターの音、地を這うような低いベースの音が響いてドキドキした。僕はライブハウスというものに足を踏み入れたのは初めてのことだから。
そうやって、ぼうっと周りを見ていてもゴミが消えるわけではない。
その時、トントンと肩を叩かれた。振り返ると「菊之宮デイジー」のロゴ入りTシャツを着た男の人がいた。さっき、ステージ上でドラムのセッティングを手伝っていたスタッフの一人だと思う。
「……は……に」
「……え?」
その人は何か僕に言うが、ステージの音が大きすぎて聞き取れない。僕が首を傾げていると、その人は僕のちりとりを指さし、さらにバーカウンター前に置かれている箱を指した。
――あ、ゴミ箱!
僕が了解の意味で頷くと、その人は笑って去ろうとした。
「優月くん! 何かしてもらったら、『ありがとう』でしょう!」
突如、多佳子さんの老齢とは思えない張りのある声が響いた。はっとして多佳子さんの方を振り返ると、不機嫌そうに眉間に皺を寄せていた。僕は背中に汗を流しつつも、そんな表情も棗にそっくりだなあと感心した。多佳子さんは「行け」とでも言うように、先程の親切な人を指さした。
僕はあわあわと落ち着きなく小走りに、助けてくれた人に頭を下げに行く。
「あ……あの、ありがとうございます。なんか、すすす、すみませんでした」
スタッフの方は笑って「大丈夫だよ」と手を振り、去っていった。僕はほっと胸を撫で下ろす。多佳子さんを振り返ると、今度は優しく笑いながら頷いていた。僕も自然と笑顔になった。
掃き掃除だけで精神的にはくたくたな僕だったが、仕事はこれだけではない。
今度はモップを使うため、バケツに水を汲みに楽屋へ入らなければならないのだ。楽屋はステージ脇の「STAFF ONLY」と書かれた扉から入ることができるようだった。バケツを抱えて、おっかなびっくり扉をコンコンと叩いてみるが、返事はない。リハーサルの音で聞こえないのだろうか。
振り向いて多佳子さんを見てみると、ツンとした顔で楽屋の扉を指差された。「いいから入りなさい」ということらしい。
僕は意を決し、ノブを握り、ゆっくり回した。そっと中を除くと、数人の男性がくつろいでいた。ギターやベースをケースから出していたり、衣装やメイク道具を準備していたり、煙草を吸いながら談笑していたり。
その人たちの視線が中途半端に入室した僕に集中する。心臓がドキンと鳴り、脂汗がダラダラと流れた。
「あ……あの、あの――あわわわ」
僕は人生で初めて「あわわ」と言った気がする。困った時に本当にそんな言葉が口から出るとは意外な発見だ。しかも声が裏返って女性みたいな高さになるというオマケ付きなのが悲しい。
男の人たちは今日の出演者なのだろう。バンドマン然としたオーラが漂っていた。当然皆さん僕より年上で、若くても十代後半、三十代くらいの人もいるようだった。黒髪の人もいるけれど、金髪や茶髪など髪を染めている人が多く、中には緑やピンク色の人もいた。おまけに、タンクトップ姿のお兄さんの背中と腕には、入れ墨がびっしり入っている。
そんな人たちに注目され、僕はがくがく震えながらやっと声を出した。
「あの、あの、あのの、お、おおお疲れ様です! きょ、今日こちらのお手伝いす、すすする優月と言います。あ、あの水道借ります!」
震えて裏返った声のまま一気に捲し立てて、僕は楽屋奥の水場に直行した。
水道の蛇口を最大まで開いて勢いよくバケツに注水する。
――ああ、どうか早く水よ溜まれ!
居たたまれなさに震える僕の背後では、お兄さんたちがこそこそと何かをしゃべっている。謎の女装男子の闖入を訝しんでいるか、笑っているのかしているのだろうか。冷や汗が首筋と背中を伝った。
「入るっすよ! 大丈夫っすか?」
張り詰めた空気を破ったのは、楽屋の外から響いた声だった。
「おー、棗か! 入れよ」
お兄さんの一人が大声で応えると、僕がさっき入ってきたドアから棗が姿を現した。ジャージで首にヘッドフォンを掛けた姿はさっきと変らなかったが、背中にはギターケースを背負っていた。棗の姿を見て、僕は強張っていた肩の力が抜ける。
棗はバケツに水を汲む僕を見つけると、笑顔になった。
「おー、優月、ちゃんと働いてんじゃん。偉い偉い!」
棗が僕に向ける笑顔が学校で話したときよりも柔らかく、麗司さんや多佳子さんに向けるときのように人懐っこくなっているような気がした。僕はそれが嬉しくて、そして、棗に褒められたのが恥ずかしいというか、くすぐったいような気がして赤くなって下を向いた。
「この子、棗の友達なんだ?」
お兄さんの一人が言った。
「そうっす。学校のクラスメイトなんですよ。可愛いでしょ?」
にこりと笑う棗に、お兄さんたちも表情を緩める。
「めっちゃ可愛いな。俺びっくりしたよ。いきなり女の子が楽屋に入ってきたから」
「そうそう。棗、ちゃんと教えといてあげないと。楽屋の中には怖いお兄さんたちがいるから気をつけないといけないよって」
「あー。お前みたいに、女って見ればすぐ食うみたいなね」
「うるせぇんだよ。黙れよ。で、何ちゃんだっけ? いくつなの?」
――な、なんか違う……。
たじろぐ僕はうまいこと言葉を発することができない。助けを求めるように棗を見ると、彼女は口元を抑えて肩を震わせていた。どうやら笑いを堪えているらしい。
――な、そ、そんな。矢車さんひどい!
「……ぷ、くく。いやいや。クラスでも人気の子ですよ。女の子たちに嫉妬されちゃうくらい。ねえ、『優月ちゃん』?」
「なっ……!」
棗がにやりと笑みを深くする。いたずらっ子な顔の棗に、僕は咄嗟に反論することができなかった。
「へー、優月ちゃんっていうの。可愛いねえ」
「やめろよ、いくらなんでも。棗のクラスメイトなら……十四とかだろ?」
「うわっ。ロリコン」
「あのね。今の世の中、十四くらいじゃロリコンとは言われないぜ」
「逮捕はされるけどな」
わははははは、とお兄さんたちは豪快に笑い合う。
――な、なんか……とてつもなく間違っていますけど……!
棗を見ると、彼女は人差し指を口に当ててニヤリと笑った。その笑顔が馬鹿なほど楽しそうな表情で、僕はまた言葉を失う。
「先輩たち、優月ちゃんが引いてるから、あんまり下品な話はしないでくださいね」
「はいはい」
「ごめんね、優月ちゃん」
お兄さん達の前で棗は僕を心配するふりをしているけれど、口の端が笑いを抑える為に痙攣しているのが僕にはわかる。
「じゃ、優月ちゃん、お掃除頑張ろうね!」
僕が何かを言う前に楽屋を追い出したいのか、棗はギターケースを楽屋の隅に置くと水を汲み終えた僕のバケツを持ち、率先して楽屋を出ていった。
「じゃ、俺は麗司さんの準備ができるまで優月ちゃんを手伝ってるんで! 失礼します!」
軽く頭を下げて楽屋から出ていく棗に、僕は仕方なく同じようにお辞儀をしてついて行った。バタンと楽屋のドアを閉めた瞬間、棗は堰を切ったように笑いだした。
「ぎゃははははは! 見た? 先輩ら、お前のこと、女だと思ってる! ぎゃははは!」
ステージ上のリハーサルはひと段落したようで、僕らの会話も通るようになっていた。僕は棗の爆笑を憮然として眺めながら頬を膨らませた。反論できなかった僕も悪いけれど、棗も悪ふざけが過ぎると思う。
「あははは! 悪い、悪い。いやー、本当にかわいいなあ、優月は」
そんな事を言いながら、ちっとも悪いと思っていないようにしか見えない。まるで小さな子供をあやすように、棗は僕の頭をぽんぽんと叩いた。
――僕のことをからかってるのかな?
僕は赤くなって、さらにむくれた。
「あはは。悪かったって。手伝うからさ。許してよ」
棗は少し顔を傾けて僕の顔を覗き込んだ。何だか恥ずかしくなって、僕は背を向けてモップを掴み、棗が床に置いていたバケツに突っ込んだ。
「別に、怒ってなんかないけど。あのお兄さんたちに悪い気がするから」
ざぶざぶとモップを洗いながらモソモソと僕が呟くと、棗は苦笑を浮かべた。
「あははは。いいって、いいって。あの人ら、俺のことすぐ子供扱いするから、たまにこういう復讐してやるのが丁度いいくらいなんだって。いい人たちではあるんだけどさ。あ、フロアのテーブルが置いてあるところ、まだ掃除してないんだろ?」
棗は客席後方のテーブルを移動させようと、手を掛けながら言った。僕が慌てて手伝おうとすると、「いいからいいから」とでも言うように手を振った。僕がモップを掛け終わった位置に次々とテーブルを移動させていく。とても手慣れた様子だった。
「俺も初めは掃除から始めたんだよ。最初は人様に聞かせられるような演奏スキルも、作曲スキルもなかったから。一年前からかな、ステージに上がれるようになったのって」
「やっぱり矢車さん、ライブに出るんだ?」
僕は貸してもらっているロリータ服のスカートや靴、ソックスを汚さないよう、慎重にモップを動かしながら、棗の方に視線を向けた。すると、棗がふわりと笑う。
「許してくれたんだ? 俺のこと」
「……別に、怒ってないよ」
僕が僅かに俯きながら上目遣いに言うと、棗はニンマリと笑う。
「マジ可愛いわ、優月。ねえ、声もハスキーめな女の子って言えば、これからもバレなくね? 優月、そんなに声低くないし……ああ、ごめんごめん。もう言わないよ」
僕が口をへの字に曲げたことに、棗はやっと気づいてくれたようだった。
「そうそう。俺、今日もライブするから見てってね。麗司さんと、二人だけでなんだけど、バンド組んでるんだ」
「へえ。すごいね。あ、さっき背負っていた荷物って、やっぱりギターだったの?」
「うん、そう。こういう掃除の手伝いとかすると多佳子さんが小遣いをくれたから、それを貯めて買ったんだ。黒のレスポール、中古だけどさ、かっこいいんだぜ!」
棗の笑顔は笑った。太陽のように強い笑顔だった。なんだか眩しくて、僕は思わず見惚れてしまう。
僕がちんたらとステージ側の客席のモップ掛けをしているうちに、棗は後方のテーブルをどかし、さっさと箒での清掃を終えていた。
「ごめんね、遅くて」
「いいって。俺なんか、初日にバケツをひっくり返してすげー怒られたし」
「僕が今そんなことしたら、この衣装、大変なことになっちゃうね」
「あー、でも服としては着られないより、着られた方がいいから、いいんじゃね?」
そう言った棗の表情は少し硬かった。僕は頭を傾げる。
「これって、誰かの衣装じゃないの? 誰も着てないの?」
「衣装っつーか、なんつーか」
棗らしくない、歯切れの悪い表情だった。
「まー、多佳子さんの私物っつーか」
「え!」
僕はびっくりしてPAブースでスタッフの人と打合せを続けている多佳子さんを見た。もしかして、これを……?
「や、違う! 違うって! 俺の言い方が悪かった!」
慌てて手を振る棗が、多佳子さんとこのロリータ服を合成させようとする僕の妄想を打ち消した。棗は苦そうな顔で笑う。
「多佳子さんがさ、俺のために買ってくれたんだよ、本当はさ」
「え!」
「ま、俺も引き取ってもらった時はまだ小学生で、『俺』なんて言ってなかったし、もう少し女の子らしい格好してたんだぜ?」
目を丸くする僕に、棗は苦笑した。
「多佳子さん、好きなんだよ。ロリータとか、ゴシックとか。で、子供も孫も麗司さんみたいな男ばっかりだから、俺のためにそういうのたくさん買ってくれたみたいなんだけど……ほら、俺こんなんなっちゃったじゃん?」
棗は金髪の短髪でジャージ姿の自分を指さして自嘲的な笑みを浮かべる。確かに、棗は学校でもいつもジャージで通していた。セーラー服姿を見たことがない。始業式なんかの制服必須なイベントはサボっていたし、そういえば、夏でも長袖のジャージを着ていたように思う。多分、私服もボーイッシュな感じなのだろう。
それに対して、多佳子さんが今着ている黒いワンピースは凝ったレースや飾りが付いていて、上品な女性らしい雰囲気だ。棗の方向性とは正反対と言っていいのだろう。
「だから、優月が着て似合ってるし、多佳子さんも嬉しいと思うよ」
「……そうかな。それならいいけど」
――なんか間違っている気もするけど。
棗が笑うので、まあいいかと思えてしまう。
「棗、お待たせ」
フロア入口の重たい扉を開けて、今度は麗司さんが入ってきた。麗司さんもギターケースのようなものを背負っている。二人ともギタリストなのだろうか。どうやってバンドをしているのだろう。
「じゃ、俺達、準備するから、優月もがんばれよ」
「がんばってね、優月くん」
棗は僕の肩を叩き、麗司さんはウィンクをして楽屋に消えていった。僕は二人に仲間扱いされたような気がして、それが嬉しくてモップを握る手にも力が籠った。
僕が掃除を再開させようとした時、楽屋のドアを閉める直前の棗が頭だけ出して僕に言った。
「優月、学校と違って、全然普通に喋れてんじゃん。すごくいいことだと思うよ」
朗らかに笑ながらそれだけ言って、僕の返事も待たずに扉が閉められた。
棗に言われて、僕は初めて棗と気兼ねなく喋れていることに気が付いた。校舎裏で話した時はどうしゃべっていいかわからなくて、がちがちだったのに。棗にどたばたと振り回されたお陰で緊張が吹き飛んだのだろうか。
驚いたような、嬉しいような、少し恥ずかしいような気持ちで、僕は顔が赤くなったり、心臓がドキドキ言ったりした。