第三章 リブート②
「そんなことあるわけねえじゃん」
棗は思い切り顔を顰め、胡散臭いものを見るように僕を見た。二人とも落ち葉の上にぺたんと、棗は胡坐、僕は横座りみたいな姿勢で座りながら話をしていた。
「つまり、お前はこう言ってんの? 喉を刺して一度死んで、でも、その血を変な化け物に供えて生き返ったって?」
彼女の眼がいつも以上に鋭い光を放って僕を睨みつけているような気がした。
「えっと――うん。……僕の中ではそんな感じ……なんだけど……?」
僕は肩を縮ませ、上目遣いで棗を見た。
僕が体験したと思われることをしどろもどろに話し、それがあまりに要領を得ないので、棗が質問でフォローし、それでやっと全体像を掴んでくれたところだった。ただ、彼女たちにされたいじめの詳細は話していない。いつもみたいにいじめられて――と誤魔化して話した。それだけは打ち明けられなかった。
「たぶん、そんな感じだったよ……?」
僕の弱々しい主張に、棗の目がさらに不機嫌そうに細められる。僕は耐えきれなくなって下を向き、両手をせわしなく組んだり擦り合わせたりした。
「アホらし……」
棗は変わらず不機嫌そうに顔を歪めていた。
「夢でも見たんだろ。俺がここに来た時、お前はここで仰向けで寝てただけだったぜ。血なんて噴き出してない。ほら、服だって汚れてねえだろ」
確かに、僕の喉から噴き出した血で真っ赤になったはずのセーラー服には、血の一滴も、微かな染みすら付いていなかった。この分だと、喉を突き刺したはずのナイフもきれいなまま鞄の中に入っているのだろう。
「で、でも……あの人形みたいな変な奴は、過去を変えるって言ってたから……」
僕は棗の目を見ないようにして反論してみたが、棗は何も答えず、沈黙が場を支配する。
冷静に考えれば棗の言うとおりだ。精神的に追い詰められた僕が、現実逃避に見た夢。でも、あの喉を裂いた痛みはあまりにもリアルに僕の脳裏に染みついていた。苦しくて痛くて、もがきながら泣いた記憶。あれも夢だったのだろうか。
ぐずぐずと下を向く僕を横目に見ながら、棗は頭を掻いた。
「現実的に考えて夢だろ。それよりさ」
そう言った棗は先程のように僕の顔を両手で掴んで上向かせ、僕の目を覗きこんだ。
「お前、このままでいいのかよ?」
棗は強い声でそう言った。その目はひどく真剣で、僕を蔑んで笑う人たちの目とは全く違った。でも、だからこそ、僕の脂汗は止まらなかった。
「お前、そのままじゃ、あいつらのアレから抜けられねえよ。夢の中に逃げ込むとか、そろそろマジでやばいよ。終いには本当に――自殺しようとか考えるようになるんじゃねえの?」
棗は荒々しく僕の顔を開放した。僕は棗の言葉に言い返すことも出来ず、無様に俯いて自分の手を見た。血の一滴も付いていない、白くて細い頼りない指。その指で喉の辺りをさすっても滑らかな肌の感触があるだけだった。制服もきれいなままだ。
棗の言うとおりかもしれない。現実から逃れたいあまり、自殺する夢と変な存在に生き返らせてもらう夢を見た。常識的に考えれば、それが一番しっくりくる。
僕は、卑しい夢を見たのだろうか。
自分の生き方に絶望しているから、そして、彼女達のことを憎んでいるから、あんなに卑屈で浅ましくて根性無しの行動を起こす夢を見たのだろうか。さすがにそれを実行する勇気も度胸もなかったから、実行する代わりに夢を見たのだろうか。
「矢車さんの言うとおりかもしれないね」
僕は情けなくて、悔しくて、でも、零れ落ちそうな涙は必死で我慢した。
「僕は……僕が自殺すれば彼女たちがどんなに追い詰められるだろうって考えたんだ。でも、実際にはそんなことする勇気なんてなかった。だから、目を閉じて死んだふりをしてみたんだけど……その時に知らないうちに眠り込んでいたのかも……」
二重写しの記憶のうち、片方はそういう記憶だ。そして、今の現実がそっちに繋がっているのだから、そちらが正しく、僕が喉を刺した記憶は夢――のはずだ。冷静に考えればそういうことだ。
棗は僕の言葉を聞いて、少しだけ表情を緩めた。
「実はさ、俺、帰る前にこれを吸おうと思ってここに来たんだけど」
そう言って、棗はジャージのポケットから煙草のパッケージを取り出して僕に見せた。ビニールのカバーがきらりと光る。
「そしたら、お前が倒れてるじゃん? びびったよ。顔色がすげえ悪いからマジで死んでるのかと思った。生きててよかったよ」
棗は張りつめていたものが崩れて安堵したような笑顔を浮かべ、口に煙草を咥えて火を付けた。棗の堂々とした違反行為に普段の僕だったら不安を覚える場面だけれど、今の僕は棗と一緒に、ただその紫煙の行方を目で追った。煙たい臭いは嫌ではなかった。一本をまるまる吸い終わると、棗は吸殻を携帯灰皿に押し込んで言った。
「よし、決めた」
棗は僕に一歩近づき、僕の腕を掴んで引っ張って、立ち上がらせた。
「ちょっと俺と来いよ」
そう言って僕の腕を掴んだまま強引に歩き出したので、僕は不安で体を強張らせた。
「安心しろって。あいつらとは違って、マジで楽しいとこに連れてってやるから」
振り返った棗はニヤリと笑っていた。いたずらっ子が仲間に笑いかけるみたいな、親しみのこもった笑顔に見えた。だからなのか、歩きだした棗の歩みに、僕の足は自然に同調した。
途中で棗が僕の鞄を拾って手渡してくれた瞬間に、彼女は聞き取れないくらいの小さな声で何かを言った。
――お前は、もっとびっとした奴だったはずだよ。
そう言われた気がしたが、うまく聞き取れなかった。
「え? なに?」
聞き返したが、再び前を向いて進み出した棗には聞こえなかったのか、何も言わなかった。それきり聞き返すタイミングを逃してしまう。
「あの、か、鞄ありがとう」
やっとそれだけ言えた。
でも、「びっとした奴だったはず」というのはどういうことだろう?
そもそも、僕は小学校の六年生くらいにはいじめのターゲットになっていて、中学に上がったときには既に相当な底辺の存在になっていたはずだ。中学から同じ学校になった棗に、僕が堂々としていたところなんて見せたことがあっただろうか。それとも知らないうちにそういう瞬間があったのだろうか。
そんな瞬間があったわけがないと思う。やはり聞き間違えたのだろうか。
前を行く棗の方を見ると、短い金色の襟足の下にうなじが覗く。それが意外なほど細くて白いから戸惑ってしまう。僕の手を引く棗の暖かい手の感触と併せて、僕は混乱して、何を聞くべきなのか、そもそも、これからどうしたらいいのか分からなくなった。頭がうまく働かなくなる。そもそも女の子と手をつないで歩くのなんて、幼稚園の遠足以来ではないだろうか。さっき触られた時もそうだったが、棗の手は柔らかいのに指先だけかさついていて、でも、その感触が心地よくて、さらに僕を困惑させた。
「ちょ……っと、え? 矢車さん、このまま行くの?」
校舎裏から出ても棗は僕の手を離さなかった。
運動場で部活をしている生徒や、校門そばでたむろしている生徒たちの視線が怖い。変な取り合わせの僕たちを笑っているのでは、変な目で見ているのでは、と考えてしまう。そもそも、女の子と手をつないでいるのを見られること自体が怖くて怖くて仕方がない。
「だから、もっと堂々としろって」
半分だけこちらに顔を向けた棗に睨まれた。僕は首をすくめる。冷や汗と動悸で頭がくらくらした。頭に血が上って、顔が真っ赤だろう。なんだか体温があがっていくような気がする。
棗はそんな僕を一瞥して溜息をつくと、空いている方の手でヘッドフォンを装着し、僕の手を掴んでいる方の手はさらに強く握って学校の外に僕を引っ張り出した。
結局、僕は棗に手を引かれるまま、彼女の目的地まで引っ張られていったのだった。