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第四章 リピート⑥

 あんなに絵を描くのが好きだった僕が、鉛筆や筆を動かすのをこんなに億劫に思う時が来ることになるとは思わなかった。

 帰宅後の夜、僕は自分の部屋に籠って絵を描き続けた。

 まずは表紙の塗り残しを仕上げてから、一枚目の挿絵に取り掛かる。双子姉妹が仲良く暮らしているシーンだ。鉛筆であたりをつけようとするが、なかなかイメージを形にできなくてイライラする。なんとか構図を決めて詳細を描き込もうとしても、思い通りの線にならない。色を塗ると、頭の中のイメージと違う色合いになって気持ちが悪い。

 作業を続ければ続けるほど、焦りばかりが募った。

 次の月曜日までに二十五枚もの絵を仕上げなければならないのに、焦りとは裏腹に筆が全く進まない。最後はヤケクソのように描き続け、気が付くと、空が白々と明け始めていた。

 いけないと思ってベッドに入ったけれど、二時間も寝ていないと思う。

 翌日の金曜日は当然ながら寝不足で、授業中にウトウトしていたのを先生に注意されてしまい、彼女たちにクスクスと笑われた。

 僕は恥ずかしくて、情けなくて、顔を赤して俯きながら、心の奥底に沸々とマグマみたいなものが湧くのが抑えられなかった。けれども、その気持ちをどうしたらいいのかもわからなくて、俯くことしかできなかった。


 家だと絵を描くのに集中しづらいのかもしれない。そう思って、僕は学校で絵を描くことにした。

 放課後にこの作業のために残っている他のグループもいるから、集中できて捗るかもしれないし、彼女たちは部活に出るから邪魔されないだろうし。

 僕は教室で黙々と絵を描き続けた。セーラー服の上に割烹着を着込み、おかっぱの髪が鬱陶しかったのでサイドの髪を纏めて結い上げ、気合いを入れる。

 億劫な気持ちは消えなかったし、情けない思いや悲しい気持ち、イライラなんかがぐるぐる巡って、いつもどおりとはいかなかったけれど、昨晩よりは筆が進んだ。他のグループは五時半を過ぎると帰り支度を始めたが、僕は下校時刻ぎりぎりまで粘ることにした。

 他のクラスメイト全員が教室を出た頃、水入れが汚れたので、僕は水場に行くために教室を離れた。水を入れ替えて教室の前まで戻ってくると、中から話し声が聞こえた。

 誰もいなかったはずだけど――?

 不審に思って耳を澄ませると、教室にいたのは彼女たちだった。

「優月帰ったの?」

「まだいるんじゃない? 絵とか絵具とか置いたままだし?」

「逃げたのかも。弱虫だからさ、あいつ」

 ケタケタと笑い声が響く。

「でもマジうける」

「ちょっと脅しただけですぐ言う事きくもんね」

「ゴミだよね、アイツ」

 彼女たちは、可笑しそうに笑う。バラエティー番組でも見ているのかと思うほど、楽しそうだった。

「女装とか」

「便所の雑巾で拭かれるとか」

「笑えるよねー」

 僕は教室の扉の前から動けなかった。

 教室に入る度胸は当然なかった。でも、彼女たちの発言を無視して立ち去れるほど太い神経も持っていなかった。僕はじっと俯いて、嫌な汗が流れるままに、僅かに開いた教室のドアから彼女たちの言葉を聞き続けた。

「だいたいさー、嫌なら嫌って言えばいいじゃん」

「なんで黙ってるんだろーね」

「優月が何も言わないから先生だって何も言わないんだしさあ」

「『黙って言う事きいてる自分健気』ってナルシスト入ってんじゃないの」

「それかMなんじゃね?」

「あー、どMだね、あれは。超キモい」

 ぎゃはははは、と爆笑する彼女たち。僕は唇を噛んだ。僕が悪いってことなのか。そうなのか。そうなのかな。

「ねえ、そういえば、本作るって課題、どうすんの?」

「どうするも何も、優月に描かせて終わりだよ。マジで二十五枚描いてきたらウケる」

「でも、それじゃ普通じゃん?」

 その言葉に興味を惹かれたように、発言主に視線が集まる。

「なになに、どういうこと?」

「例えばさー。優月が仕上げてきたら、目の前で燃やすってどう?」

「うちらの課題でもあるんだよ……先生になんて言うの?」

「そん時は、本にしましたって、イラストなしのを出せばよくね?」

「まあ、そうだけど」

「私らだけで作りましたって言って、優月だけ外すのはどう? アイツ、困るでしょ」

 クスクスと湧き出す笑み。

「それ、いいかも」

「うーん。でも、今までも優月の絵、破ったり捨てたりしたからなあ」

「新鮮味がないよね、うちら的に」

「じゃあ、優月自身に燃やさせる!」

「マジ?」

「それ傑作だわ」

 ギャハハハと、大きな汚い声で彼女たちは笑った。 

「じゃあ、それ決定で!」

「でもどうやって?」

「ふふふ。うちらにはこれがある! ぱららぱっぱらー」

 彼女たちのうちの一人がBGMの真似と共に鞄の中から何かを取り出した。

「スマートフォン~!」

「おお、便利な道具」

「なるほどね」

 僕は血が滲むくらい唇を噛みしめた。頭からさーっと血の気が引く音が聞こえた。

「あの写真一つであんなにビビるなんて笑えるよね」

「誰もお前の小さいチンコなんか見たくないって」

「ウケる」

「ロリータのホモは嬉しがるんじゃね?」

「あー。高く買ってくれそう」

「でもただの裸じゃ、どうなんだろうね?」

「えー、じゃあ、オナニーとかさせたらどうだろ?」

「それは売れるわ」

「私らは見たくないけど」

 きゃはははは、と無邪気そうに笑う彼女たち。

 僕はやっと立ち去る決心がついた。絵も鞄も置いて、水入れは水場に放置して、僕は逃げるように学校から逃げ出した。

 もう何も考えたくなかった。


 家に帰りついた僕は、物置でセーラー服を着替えるのも嫌になって、セーラー服に割烹着を着た状態のまま玄関に入った。

「おかえり、ゆうくん……え?」

 出迎えてくれた母さんが目を見開く。

 僕はそれを無視して、泣きながら自分の部屋に直行した。

 学校から帰る間もずっと泣きながら帰ってきたから、道端でたくさんの人に振り返られたけど、もうどうでもよかった。扉に鍵をかけてベッドに潜り、頭から布団を被って泣き続けた。

「ねえ、ゆうくん、どうしたの? ちょっとでいいから顔を見せて? ねえ」

 心配そうな母さんの声が扉の外から聞こえた。

 息子が女の子の格好をして泣きながら帰ってきたら、それはびっくりするだろうし、不安にもなるだろう。でも、今のこの状態で母さんの前に出ていくなんてできなかった。なんて言って説明しろと言うのだ。

「ねえ、ゆうくん……どうしたの……?」

 母さんの柔らかい声を聞くと、余計に自分が惨めに思えて、嗚咽が大きくなった。

「優月、落ち着いたらでいいから出てきて。話したくなかったら話さなくてもいいから。ね。夕飯作って待ってるから」

 母さんは優しい声を残して扉の前から去った。

 僕は歯を食いしばって泣くのを堪えた。泣くしかできない自分が惨めで、許せなかった。

 もう何もかもが嫌だった。彼女たちも、自分自身も。怒りと悲しみと情けなさと、色々な感情が入り乱れて、頭がパンクしそうだった。

 僕は彼女たちを憎んでいる。

 もう、はっきりとそう自覚した。

 彼女たちを罰してやりたいと思った。

――でも、どうやって?

 僕に彼女たちを公に訴える勇気があるだろうか。彼女たちにされたことを公表して、みんなに知られて耐えられるのだろうか。父さんや母さんはどう思うだろう。棗は?

 想像すると、身が竦んだ。僕には恨みを晴らす手段がないのだろうか。

 その時、僕の頭に閃いたのは『それ』の姿だった。

 あの綺麗でおぞましい少女人形。願いを叶えてくれる奇妙な存在。ただ、それには自分か他人の血が必要で。

――自分の血? 他人の血? 別にいいじゃないか。存分にくれてやる。僕の恨みが晴らせるならば。彼女たちを刺してやってもいいだろ。あんな奴ら生きてる価値もないじゃないか。

 刹那の速さで僕の頭の中にそんな考えが構築された。

 気が付くと、僕はクスクスと笑っていた。

――やるならやってやる!

 そう思って、ベッドから起き上がると、ふと鏡が目に入った。真っ赤に腫れた目をした人間が、口の端を吊り上げた醜い笑みを浮かべていた。

 その姿に、僕自身が戦慄した。

――僕は馬鹿か。

 僕の中に生まれた恐ろしい考えを慌てて否定する。僕自身が怖い。幻想に縋り付こうとする廃人みたいじゃないか。自分や人を傷つけようとすることを、また本気で考えるなんて。

 もう何も考えたくない。

 僕は再びベッドに倒れ込む。

 涙も枯れ果てて、僕は静かに目を閉じた。何時間もそのままじっと耐える。そのうちに、僕の意識はすとんと闇の中に落ちた。


「あなたはまた私を呼んだ」

 僕には『それ』の顔が艶然と微笑んだように見えた。

「近寄るな……」

 僕は恐ろしくなって『それ』から距離を取ろうとしたが、うまく体が動かない。例によって、僕がうまく認識できない次元に来ているようで、体の感覚がないのだった。

「あなたが私に願い事があるという思考を私はあなたから読み取った。違うのか?」

 風にたなびく黒髪が人形の白磁の顔に纏わりついている。その髪の隙間から覗く、ガラス玉みたいに冷たく黒い瞳が恐ろしかった。パタパタと自由に動く蝶の羽からは逃れられそうになく、蠢く下肢はいつ僕に襲い掛かろうかと様子を覗っているように見えた。

「僕は、そんなことは望んでないよ!」

「本当にか?」

「本当に……望んでいない……」

「少しも?」

「少しも……望んでいない……」

「あなたは彼女たちの破滅を願っているのではないのか?」

「ち、違うとは言えないかもしれない……でも、こんな方法は、いやだ……!」

 僕の言葉を聞いて『それ』が艶然と笑ったように見えた。

「彼女たちの血を私に捧げれば、私はあなたの未来を有利に設定することが出来る。あなたはそれも考えているのではないのか?」

「そ、そんなこと考えてないよ!」

 僕は叫んだ。

 本当は心の底ではそういうことを考えている。考えているけど、そう考えている自分を否定したかった。

「これは夢なんだ。お前なんかいない。お前は僕が作り出した幻想なんだ。消えろ!」

 叫んでも怒鳴っても『それ』は僕の前から消えなかった。感情のないガラス玉の目で僕を見続ける。

 『それ』の瞳が怖かった。僕の中のドロドロした汚いものを見られているみたいで恐ろしかった。心がキリキリと音を立てて傾いでしまいそうだった。

 お願いだから、誰か、これがただの悪夢だと言って――!

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