第9話『朝の探り合いと握手の角度』
入学二日目の朝、教室には独特の空気が漂っていた。
入学したばかりの生徒たちは、まだ互いの人となりを測りかねており、視線だけが忙しく行き交っている。そこに加えて、昨日の魔法基礎実技の授業から、ある噂が教室中を静かに駆け巡っていた。
「昨日、魔力測定で凄いことが起きたらしいぞ」
「水晶球が縮んだって……本当か?」
その噂話の輪から少し離れた席で、ルシウスは目の下に濃いクマを作ったまま、静かに席についていた。昨夜、明け方近くまでスケッチとメモに向き合っていたせいで、頭の芯がまだ重く痺れている。
(まだ、誰もあの異常さの本質には気づいていない……)
ルシウスは机の下でそっと胃のあたりを押さえながら、周囲のひそひそ話に耳を澄ませていた。噂は確かに広まっているが、まだ「凄い現象があった」という表面的な驚きの域を出ていない。それがかえって、ルシウスの胸の内の不安を静かに膨らませていた。
*
教室の扉が、勢いよく開いた。
「おはようルシウス! 今日もいい空気の密度だね!」
肌艶よく、目にも輝きを宿したタカシが、朝日を背負うようにして教室に入ってきた。昨夜、母さんの教え通りにしっかりと眠ったおかげで、疲労のかけらも見当たらない、絶好調の顔つきだった。
「お、おはよう、タカシ君……」
ルシウスは辛うじてそう返しながら、内心でひそかに身構えていた。
タカシはそのまま自分の席に向かう途中、隣に座っていた新入生に目を留めた。仕立てのよい制服に身を包んだ、良家の坊っちゃま然とした男子生徒だった。
「おはよう! 僕、タカシっていうんだ。よろしくね」
タカシは晴れやかな笑顔でそう言うと、右手をすっと差し出した。
(母さんがそう言ってた。挨拶は基本。しっかり握手をしなさい、って)
*
差し出された手を前に、その新入生はわずかに逡巡した。昨日の噂話が、頭の片隅をよぎったのかもしれない。だが、名門の子弟としての矜持が、怯えを上回った。
「よろしく。僕はセドリックだ」
そう言うと、少年はタカシの手をがしっと握り返した。
その瞬間だった。
タカシは、余計な力みを一切排した、完璧な密着で相手の手を包み込んだ。指の一本一本が、隙間なく相手の手の輪郭に沿い、二つの手のひらの間に閉じ込められていたわずかな空気の層が、逃げ場を失っていく。
「パチィン!!」
乾いた高音とともに、鋭い爆発音が教室に響き渡った。
セドリックの手が、びくんと大きく跳ねた。指は握られたままの形で固まり、開こうとしても震えるばかりで開かない。手のひら全体がみるみるうちに赤みを帯び、セドリック自身も、自分の手の中で一体何が起きたのか理解できないまま、赤くなったその手を呆然と見つめていた。
「うん! ちゃんと手が仲良くなったね!」
タカシは何事もなかったかのように、爽やかな笑顔でそう言った。
*
教室中が、静まり返った。
握手をしただけで、乾いた爆発音が鳴り響いた――その事実だけが、教室の空気を凍りつかせていた。誰もが息を潜め、タカシとセドリックのほうを見ないようにしながら、それでも視線の端でしっかりと確認していた。
「みんな朝から静かで、勉強への意欲が高いな!」
タカシは満足げにそう呟くと、自分の机の椅子を引いて座った。
その様子を、ルシウスは息を殺したまま見ていた。恐怖に近い感情が背筋を伝う一方で、彼の指は、ほとんど無意識のうちにノートとペンを取り出していた。研究者としての性が、恐れを上回っていた。
震える手で、ルシウスは項目を分けて書きつけていく。
「【観測】魔法陣の展開、認められず。接触から破裂音発生まで、約〇・〇五秒。接触面積の増大に伴い、手のひらの隙間の空気層厚が極限まで減少」
そこまで書いたところで、ルシウスは一度ペンを止め、次の行に「推論」と記した。
「【推論】手骨および手掌の形状が、空気の流出経路を完全に遮断している可能性。逃げ場を失った空気の体積が急激に減少し、断熱圧縮による破裂を引き起こしたものと思われる……」
書き終えて顔を上げると、セドリックはまだ痺れた手を押さえながら、放心したように宙を見つめていた。
*
そこへ、担任教師が教室に入ってきた。教室のただならぬ静けさに一瞬眉をひそめたが、特に何も言わず、教壇に立った。
「おはよう、みんな。今日は授業の前に、校内施設のオリエンテーションと資材の配布を行う」
教師の声が響く中、教室にはまだ、乾いた破裂音の余韻を引きずるような、張り詰めた空気が漂っていた。
タカシだけが、その中で一人、まっすぐに背筋を伸ばし、今日という日への期待に胸を膨らませていた。




