第7話『買い物袋と衝撃波』
四時間目が終わり、正午過ぎの下校時間になった。タカシは満足げな足取りで通学路を歩いていた。今日一日で学んだことを、頭の中でひとつずつ思い返しながら。
街角を曲がったところで、タカシの足が自然と速まった。
大きな木の陰に、母さんが立っていた。片手には、大根の葉先がのぞく買い物袋を提げている。ただそこに立っているだけなのに、周囲の空気の密度が変わったかのような、圧倒的な存在感だった。艶やかな黒い毛並みに包まれた肩は、街灯の柱よりも太く、その静かな佇まいの奥には、途方もない力と、それに見合うだけの深い母性が湛えられていた。買い物袋の中の大根とネギは、母さんの手にかかると、まるで武具の一部のように見えた。
「ウホ」
母さんは重く、そして温かい声でそう一言だけ発すると、岩のように大きな手を伸ばし、タカシの頭をすっぽりと包み込むように撫でた。
「ただいま母さん! 今日も楽しかったよ。母さんの言った通り、空気と仲良く手を擦り合わせたら青い火が出たんだ!」
母さんは深く、落ち着いた声で、もう一度だけ頷くように言った。
「ウホ」
そして、ゆっくりと歩き出す。
「うん! そうだよね!」
タカシは大きく頷きながら、母さんの隣に並んで歩き始めた。
*
二人が通りを半分ほど進んだところで、遠くから重い地鳴りが響いてきた。
地面が震え、街路樹の葉がざわめく。次の瞬間、通りの向こうの家並みを突き破るようにして、巨大な甲殻に覆われた魔獣が姿を現した。街の外れ、インティ・ワカの森の奥深くに棲むと言われる魔物だった。分厚い甲殻の隙間から覗く赤い瞳が、真っ直ぐにタカシと母さんを捉えている。
「うわあああ!」
「魔獣だ、逃げろ!」
周囲の通行人たちが悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑っていく。魔獣は地響きを立てながら、脇目も振らず二人へと突進してきた。
*
母さんは、驚きもしなかった。
その目には、ただ静かな、しかし深い光が宿っていた。我が子との穏やかな夕飯の買い出しを、こんなものに邪魔されるいわれはない――そう言わんばかりの眼光だった。
「ウホ……」
母さんは短く、低く息を吐いた。大根の入った買い物袋は、相変わらず片手に提げられたままだった。
次の瞬間、母さんの体重が、後ろ足からつま先へと、一切の無駄なく移動した。腰の回転、肩の開き、そこから伸びる腕の軌道まで、すべてが一本の線でつながっているかのような、完璧な重心移動だった。
魔獣の巨体が目前に迫った、まさにその瞬間。
母さんは「すっ」と、すれ違うように半歩だけ体をずらした。同時に繰り出された手は、魔獣の分厚い甲殻の継ぎ目、その一点に軽く触れただけだった。決して押し込まれることはなく、接触していた時間はほんの一瞬に過ぎなかった。だがその一瞬のうちに、衝撃だけが甲殻の表面を素通りし、そのまま魔獣の体内へと流れ込んでいった。
咆哮すら上げる暇はなかった。魔獣の巨体は、外側の甲殻をそのままの形に保ったまま、内部だけが完膚なきまでに破壊され、衝撃波とともに背後へと吹き飛んでいった。数十メートル先の路面に叩きつけられた魔獣は、それきり動かなくなった。
母さんは、何事もなかったかのように、買い物袋を持ち直した。
*
「すごいや母さん! 急いでいる時こそ、重心移動の無駄を削ぎ落とせってことだよね!」
タカシは目を輝かせながら、母さんを見上げた。
「ウホ」
母さんは力強くそう答えると、もう一度、大きな手でタカシの頭を包み込むように撫でた。それから、空いているほうの手でタカシの手を取り、何事もなかったかのように歩き出す。
「わーい! 今日の夕飯は大根と豚肉の煮込みだ!」
タカシは弾んだ声でそう言うと、母さんの隣で軽い足取りを弾ませた。
*
二人が去ったあとの街道には、内側から完全に破砕された魔獣の巨体だけが横たわっていた。しばらくして、警備隊の一団がようやく現場に到着した。
隊長格の男が甲殻の表面を確認し、絶句する。傷ひとつ、ひび割れひとつ見当たらなかった。だが隊列の中にいた分析官が、甲殻の継ぎ目に指を這わせながら、震える声を漏らした。
「外殻、完全無傷……。しかし、内部の骨格と臓器だけが、全て潰れている……」
分析官は魔獣の腹側に回り込み、切開もされていないその体表から、内部の損傷具合を推し量ろうと目を凝らした。
「衝撃の伝播方向が、まったく測定できない……。表面には何の痕跡もないのに、内側だけがこれほどまでに……なんだ、これは……!?」
その声に応える者は、誰もいなかった。街道には、まだうっすらと土埃が漂うばかりで、夕方の光の中、静かな沈黙だけが残されていた。




