第4話『休み時間と木登りの角度』
二時間目の授業が終わり、二十分間の大休みが始まった。
教室の窓からは、澄んだ秋の空気とともに、校庭で遊ぶ子供たちの声が流れ込んでくる。タカシは自分の机の前に立ち、両手をぐっと握りしめて気合を入れた。
「母さんがそう言ってた。友達を作るなら、一緒に外で汗をかけ、って。よし、遊びに誘おう」
タカシは晴れやかな顔で教室を見回した。だが、クラスメイトたちの反応は鈍かった。爆走の煙、クレーターの土埃、そして焦げた匂いのするプリント――この三日間で積み重なった記憶が、子供たちの足を無意識にタカシから遠ざけていた。誰もが目を合わせないよう、俯いたり、机の中を整理するふりをしたりしている。
そこへ、一人の男子生徒が静かに歩み寄ってきた。仕立てのよい制服に、丁寧に整えられた髪。魔法名門の家系に生まれたという、ルシウスだった。
「タカシ君」
ルシウスは腕を組み、タカシを見据えた。
「君の力強さは、この数日でよく分かった。認めよう。だが、真の洗練とは、力で押し通すことではない。自然を統べることだ。魔術とは本来、自然法則を理解し、それを美しく制御する学問なのだからね」
*
二人と、それを取り巻く子供たちは、校庭の隅にそびえる大楠のもとへとやってきた。樹齢数百年と言われるこの木は、幹の太さだけで大人が両手を広げても届かないほどで、校章にもその姿が描かれているほど、学校の象徴とされていた。
「見ているといい」
ルシウスはそう言うと、静かに詠唱を始めた。澄んだ声で紡がれる古語が空気を震わせ、彼の足元にほのかな光を帯びた術式の輪が浮かび上がる。次の瞬間、ルシウスの体はふわりと宙に浮き、風の補助を受けながら、大楠の枝から枝へと軽やかに飛び移っていった。
「フッ――これが、魔術による『調和』だ」
地上で見上げていた子供たちから、わっと歓声が上がった。
「すごい、ルシウス君!」
「さすが名門の家柄だ!」
ルシウスは中腹の太い枝に腰掛け、優雅に微笑んでみせた。
*
「すごいねルシウス君! じゃあ僕も!」
タカシは目を輝かせながら、大楠の根元に立った。
「母さんがそう言ってた。木に登るときは、幹と対話しなさい、って」
タカシは詠唱もせず、跳躍もしなかった。ただ、ゆっくりと右足を持ち上げ、垂直に切り立った幹の表面に、そっと足の裏を乗せた。
その足は、滑り落ちることも、木の皮を踏み砕くこともなかった。靴底が触れた瞬間、樹皮の繊維が押し潰されるのではなく、むしろ密着し、内側からきゅっと締まるように凝縮していく。タカシが体重をかけると、幹全体がその荷重をわずかに感知したかのように、力の伝わる向きへとほんの少しだけ形を変えた。
タカシは、そのまま垂直な幹を、まるで平らな廊下を歩くように、一歩、また一歩と登り始めた。
見上げていた子供たちの間から、悲鳴とも歓声ともつかない声が漏れた。だが、その声のほとんどは空を見上げ、あるいは大楠の梢を見上げる方向から発せられたものだった。木の上に座っていたルシウスだけは、違うところを見ていた。
彼の視線は、タカシの足元――正確には、靴底と樹皮とがちょうど触れ合っているその一点に、じっと注がれていた。
術式は展開されていない。魔力の輝きも見えない。それなのに、目の前で確かに何かが起きている。ルシウスは自分の持つ魔術理論の中に、この現象に該当する項目を探した。だが、どこにも見当たらなかった。自分の魔術は、風という自然の力を借りて、体を軽くし、重力から一時的に逃れているに過ぎない。だがタカシの足元では、逃げるどころか、幹そのものが応えるように形を変えている。
説明のつかないものを目の当たりにしたとき特有の、冷たい戦慄が、ルシウスの背筋を伝った。
証拠に、タカシの足が触れたあとの幹には、傷跡も凹みも残っていなかった。むしろ、その部分の木肌はより艶やかに引き締まり、近くの葉はいっそう青々と茂り始めていた。
「やあ! 良い眺めだね!」
頂上にたどり着いたタカシは、爽やかな笑顔で校庭を見下ろした。
*
地上では、担任教師がすでにメモ帳を取り出し、震える手でペンを走らせていた。
「観測:接触部において、樹皮の破断・圧壊は認められず。局所的な変形は可逆的であり、荷重除去後は原形に復する。葉面において張力上昇および緑色濃度の増大を視認。魔力反応、検出限界以下」
教師はペン先を止め、木の上で固まったままのルシウスと、その脇を悠々と通り過ぎていったタカシの姿を見比べた。
「仮説:対象との接触における応力分散機構は、通常の木材構造とは異なる挙動を示している。局所剛性を破壊することなく、樹木側の生体応答を誘発している可能性がある」
書き終えた教師は、静かにメモ帳を閉じ、力の抜けた目で大楠の頂を見上げた。
木の上では、ルシウスがまだ、タカシの足元があった場所――今も艶やかな光沢を保ったままの樹皮の一点から、目を離せずにいた。自分の魔術で説明できるものが、この世界にはいくつもある。だが今、目の前で起きたことは、そのどれにも当てはまらなかった。
頂上に立ったタカシは、隣に立つルシウスを見て、屈託のない笑顔を向けた。
「ルシウス君、僕たちもう友達だよね!」
ルシウスは、太い枝の上でわずかに腰を浮かせかけながら、視線をようやくタカシの顔へと戻した。恐怖と驚愕がまだ胸の内でせめぎ合ったまま、声だけが辛うじて絞り出される。
「……あ、ああ」
(なんだ、これは……!)
その胸の内の声は、当然ながらタカシの耳には届かない。タカシはただ、眼下に広がる校庭と、その向こうに広がるインティ・ワカの森を見渡し、晴れやかな気持ちで風を浴びていた。




