第2話『クレーターができる球戯』
五時間目、体育の授業の時間だった。
校庭には秋の澄んだ日差しが降り注ぎ、白線で区切られたコートの上を、乾いた風がさらさらと吹き抜けていく。タカシは列の一番前に立ち、両手を軽く握ったり開いたりしながら、今朝の母さんの言葉を思い出していた。
「母さんがそう言ってた。人にボールを投げるなら、鳥の羽を撫でるようにしなさい、って。うん、加減しよう」
タカシは自分にそう言い聞かせ、こくりと頷いた。
周りに立つクラスメイトたちは、誰もタカシと目を合わせようとしなかった。今朝、校門前に立ちのぼった煙と、アスファルトに刻まれた焦げ跡を目撃した者は多い。誰からともなく、タカシの周囲には自然と半径三メートルほどの空白地帯ができていた。
「そ、それじゃ、赤組対白組で試合、始め!」
体育教師の笛が鳴る。
*
赤組のガキ大将格である少年が、ボールを片手で握り、勢いよくタカシに投げつけた。
「へん、朝のは何かの見間違いだ! こんなの余裕で受け止めてやるよ!」
革製のボールが唸りを上げてタカシの胸元へと飛んでくる。タカシはそれを、右手の指先二本で、ぱしんと軽く挟み込むように受け止めた。
ボールの勢いは、その瞬間、跡形もなく消え去った。土煙も、風も、音すら立たない。まるで最初からタカシの指先にあったかのように、ボールは静かに止まっていた。
「ナイスボール! じゃあ、次は僕の番ね。母さんがそう言ってた通り、優しく……」
タカシは笑顔でボールを持ち直すと、手首だけをくいっとひねって、そっと放った。
*
ボールが手を離れた瞬間、あたりから音が消えた。
風切り音も、空気を裂く唸りも、何もない。ボールは一直線に空間を貫き、まるで空気そのものが存在しないかのように、抵抗なく校庭を横切っていった。教師だけがその軌道を目で追っていたが、視界に映ったボールの姿は、次の瞬間にはもう地面へと吸い込まれていた。
轟音が校庭に響き渡った。
土が豪快に噴き上がり、白線も土台の砂利も巻き込んで宙に舞う。土煙が晴れたとき、そこには直径にして三メートルはあろうかという、きれいな擂り鉢状のクレーターができあがっていた。
相手チームの子供たちは、着弾の風圧だけで一斉に後方へ吹き飛ばされ、揃って尻餅をついていた。誰一人として怪我人はいなかったが、全員が腰を抜かしたまま、地面に座り込んで動けずにいる。
クレーターの中心では、革製のボールが超高速で回転しながら、うっすらと白い煙を上げていた。
*
コートの脇に立っていた担任教師は、眼鏡の奥の目を見開いたまま、その光景を凝視していた。この教師は、今朝も校門前の摩擦跡をノートに書き留めていた、生真面目な人物だった。
まず、風切り音がなかった。ボールが手を離れる瞬間から着弾までの間、教師の耳は職業柄、鋭敏にそれを拾おうとしていたが、何も拾えなかった。次に、後流がない。通常、これほどの速度でボールが空気中を進めば、その後ろには渦を巻く気流の乱れが生じるはずだった。だが土煙が舞い上がる直前、ボールの軌跡上の空気は、あまりにも静かなままだった。そして三つ目に、魔力の脈動がない。教師は長年、魔導現象を観測する際、必ず空間にわずかな魔力残滓が漂うことを知っていた。しかし今、そこには何の残滓も検出できなかった。
詠唱もない。術式もない。魔法陣が展開された形跡もない。
教師は震える手でメモ帳を取り出し、震える文字で書きつけていく。
「投擲時、風切り音の発生なし。後流形成なし。魔力脈動および魔力残滓、検出限界以下」
書きながら、背筋に冷たいものが這い上がってくるのを感じていた。既知の魔法理論に、この現象を説明できるものは一つもない。詠唱による現象なら詠唱の痕跡が残る。術式による現象なら陣の痕跡が残る。だが目の前にあるのは、ただ、鳥の羽を投げるような仕草から生まれた、直径三メートルのクレーターだけだった。
(この現象は、既存の魔法理論では説明がつかない……)
教師はさらにペンを走らせながら、ふと、最も重要なことに気づいた。運動エネルギーが地面に叩きつけられる過程には、本来必ず損失が生じる。空気抵抗による減衰、摩擦による発熱、音として逃げるエネルギー――そのはずだった。
(エネルギー変換の損失が……どこにも、見当たらない……?)
教師の手からメモ帳が滑り落ちそうになり、慌てて握り直した。彼はもう一度、クレーターの縁と、まだ回転を続けるボールを見比べ、それから力なく空を見上げた。
その視線には気づかず、タカシは大きく伸びをして、清々しい顔で空を見上げていた。
「母さんがそう言ってた。スポーツの後の汗は最高だ、って。次の時間も楽しみだな!」
校庭には、まだ土煙が薄く漂っていた。




