第1話 爆速の通学路
インティ・ワカの森に、朝が来る。
樹齢千年を超える巨木の隙間から差し込む光は金色の糸のように幾重にも重なり、朝露に濡れた下草をきらきらと輝かせていた。小鳥のさえずりが遠く近く響き、風は木々の葉をさらさらと揺らしている。その森の奥、清流のほとりに建つ一軒のログハウスから、煙突の煙がまっすぐに立ちのぼっていた。
タカシは、まぶたに落ちる光の粒で目を覚ました。
「んん……朝だ」
食卓には、湯気を立てる大皿が二つ。肉塊が山と盛られ、黄金色のバナナ粥がなみなみと注がれている。タカシは両手を合わせ、勢いよくかき込んだ。
「いただきます! うん、母さんのバナナ粥は体に効くなぁ」
満足げに呟くタカシの頭に、大きな影が差した。ログハウスの戸口いっぱいに広がる巨躯。
「ウホ。」
母さんは短くそう言うと、大きな手のひらでタカシの頭をそっと撫でた。手のひらだけでタカシの頭がすっぽりと収まってしまうほどの大きさだったが、撫でる動きはどこまでも柔らかかった。
今日は小学校の初登校日だった。玄関先で、母さんが差し出してきたランドセルを、タカシは両手で受け取った。
不純物を極限まで取り除いた高純度オリハルコン。母さんが幾晩もかけて鉱石を槌で打ち、磨き上げて仕上げたものだった。重量、二百キログラム。持ち手を握ると、ひやりとした重みが手のひらに伝わってくる。
「ありがとう母さん! すごく軽くて背中にフィットするよ!」
タカシはランドセルを背負い、その場でくるりと一回転してみせた。ベルトはしっかりと肩に食い込み、背板は体にぴったりと吸い付くようだった。
「ウホ。」
大きな手が、ランドセルの上からタカシの背中をひと押しした。その重みで膝が一瞬だけ、かくんと沈む。だがすぐに姿勢を立て直し、タカシは晴れやかな笑顔で母さんを見上げた。
「それじゃ行ってきます! 遅刻しちゃうから急がないと!」
タカシは玄関を飛び出し、森の小道に立った。学校までは三十キロ。母さんが決めた毎朝の通学速度は、時速百二十キロ。この距離を十五分で駆ける。時計の針は八時十五分を指していた。始業式は八時三十分からだ。
タカシは軽く膝を曲げ、大きく息を吸い込んだ。そして、地面を蹴った。
瞬間、周囲の木々が激しくしなり、幹から葉が一斉に舞い上がった。地面には靴底の熱で焼き固められた土が弧を描いて残り、後方の茂みが将棋倒しになっていく。タカシの姿は既に朝靄の向こうへと消えていた。
街道では、荷馬車を引く馬たちが突然の突風に耳を伏せた。御者が空を見上げたときには、もう何もない。少し遅れて、乾いた爆ぜるような音だけが尾を引くように届き、それすら風の中に消えていった。露店の布地が一斉にはためき、誰かの家の物干し竿からシャツと帽子が舞い上がって、くるくると宙を舞う。
川沿いの一本道では、水面すれすれを飛んでいた渡り鳥の群れが、追い越してきた何かに驚いて一斉に方向を変えた。橋を渡り切る頃には、橋板の継ぎ目からうっすらと白い煙が立っていた。
その風の中心を、タカシは爽やかな笑顔で駆け抜けていく。
「おはようございます!」
すれ違いざまに元気よく挨拶するその声だけが、一拍遅れて後方に届く。声をかけられた人々は、誰もいない道をきょとんと見つめるばかりだった。
八時二十九分。
小学校の校門前に、白い煙が勢いよく噴き上がった。足の裏と地面がこすれ合う甲高い音が響き渡り、砂利が四方に飛び散る。煙が晴れると、そこには両足を踏ん張り、ぴたりと静止したタカシの姿があった。アスファルトには、靴底の形にえぐれた跡がくっきりと残り、その縁だけが薄く焦げていた。
背中には二百キロのランドセル。額にはうっすらと汗が滲んでいる。タカシは腕時計を見て、にっこりと笑った。
「ふう、間に合った! 三十キロくらいなら、普通の通学だよね。母さんがそう言ってた。友達、たくさんできるといいな!」
タカシは煙の中を、何事もなかったかのように歩き出す。
校門の陰では、数人のクラスメイトらしき子供たちが、壁に張り付くようにして固まっていた。その視線の先には、まだうっすらと煙を上げるえぐれ跡がある。
「い、いまの……」
「風、じゃないよね……」
校門脇に立っていた教師の一人が、その跡をじっと見つめ、眼鏡を押し上げながら小さく呟いた。
「この摩擦跡……あとで記録しておかないと」
その声は、タカシの耳には届かなかった。タカシはただ、澄み渡った朝の空を見上げ、大きく伸びをしていた。




