救世主
銀髪の老人がいた。
メンズポニーテールを揺らしながら、川のど真ん中――いや、正確には“水面の上”で、彼は静かに浮いていた。
目を閉じ、呼吸は一定。まるで世界そのものから切り離された存在のように。
そして、唐突にその男は言った。
「……見える。サイラちゃんは救世主だな」
川岸にいた信者たちが、一斉にどよめく。
「おおおおおっ!」
男は続ける。
「いや、正確にはだ……“サ”だ。サイラのサ……つまりだな……サイラちゃんはサファクイエルの生まれ変わりってことになる」
意味が分かるようで分からない理屈に、しかし信者たちは歓喜していた。
「救世主様だ!」「ついに降臨された!」
その中心にいるのは、一人の少女。
明るい茶色のボブヘア。
まだ6歳。
ただ、あまりにも普通で、あまりにも幼い。
「……パパ、私って救世主なの?」
ぽかんとした顔で少女――サイラが問う。
すると銀髪の男は、神話の登場人物のような整った顔をわずかに綻ばせ、少女を軽々と抱き上げた。
「そうだ。君は救世主なんだ。なにせ、こんなに可愛い天子なんだからな」
「その通りです、オシリスパパ様」
いつの間にか周囲の信者が膝をついている。
「あなたの娘は、間違いなく救世主です」
「救世主様だ!」「天子の生まれ変わりだ!」
熱狂は、止まらない。
――中華大帝国エリア3・某公園。
空気は一変していた。
そこでは、サイラと同じ年頃の少女たちが、サイラに小石を投げつけていた。
「お前、救世主じゃないだろ。うんちだし」
「かわいいからって嘘言うな」
ここは中華大帝国。
エリア0(本土)、エリア1(台湾)、エリア2(朝鮮)、エリア3(日本)を支配する巨大帝国。
秩序はあるが、優しさは必ずしも保証されない。
「うう……神様……助けて……」
「神様なんているかよ、バカ。死ね」
小太りの少女が、容赦なく蹴りを入れる。
サイラは地面に倒れ、涙をこぼした。
「うえぇぇぇん!」
そこへ、砂が降り注ぐ。
「死ね死ね死ねぇ!」
幼い声とは思えない悪意が、空気を汚していく。
そのときだった。
「――そこまでだ」
声と同時に、空気が裂ける。
覆面をつけた、少年とも青年ともつかない大柄な影が、空から降ってきた。
「くらえ、ドラゴンライダーキック!」
炸裂する飛び蹴り。
しかし――直撃はしない。
それでも、衝撃だけで少女たちは尻もちをつき、恐怖に顔を歪めた。
「中学生が幼稚園を蹴るなんて……ずるい!」
「そうだそうだ!」
覆面の男は、肩をすくめる。
「中学生は幼稚園児を蹴ったらダメなのか?」
そして、ニヤリと笑った。
「ニヒヒ、安心しろ。俺はまだギリギリ小学6年生だ」
一瞬の沈黙。
「つまり……まだセーフってことだな」
その結論に、少女たちは理解不能の恐怖を感じた。
「きゃあああああっ!」
泣き叫び、一目散に逃げていく。
「……あ、あの……」
サイラが、恐る恐る声をかける。
「なんだ? おしっこでも漏らしたのか?」
「ち、違います! あの……名前を……」
「俺の名前が知りたいのか?」
「は、はい」
男は少しだけ間を置いて、誇らしげに言った。
「教えてやる。俺の名は――竜騎士・陽楽だ」
「ニシシ……」
覆面の奥で、太陽みたいな笑顔が浮かんでいる気がする様子だった。
「あ……あの、それと……住んでるところとか……」
「ん?なんつった?聞こえねぇな」
耳をほじりながら、陽楽は笑う。
「もっとハキハキ喋れよ。せっかく助けてもらってんだろ?」
「あ……は、はい!」
中華大帝国エリア3――その山奥に、ひっそりと存在する町がある。
その名は、桜山町。
四方を山に囲まれた田舎町で、時間の流れは驚くほどゆるやかだ。
春には桜が舞い、空気そのものが淡い桃色に染まる。
夏には蝉の声と川のせせらぎが重なり、耳に優しい喧騒を生む。
秋には山々が赤、橙、黄金へと移ろい、まるで一枚の絵画のような景色になる。
町の中央を流れる桜山川は、底まで見えるほど澄んでいて、石や水草の揺らぎさえも美しい。
古びた民家が点在し、どこか懐かしい空気が漂う――
……が。
この町には、ひとつの“裏”がある。
ここに住む住民の多くは富裕層。
そして彼らは金の力で「カースド0」の名誉国民権を手に入れた者たちだ。
つまり――兵役免除の特権を持つ、“選ばれた側の人間”。
静けさの裏にあるのは、歪んだ安寧だった。
その町の中心部。
異様に豪華な建物がひとつ――
「終末の星徒・イエスキリスト教会」。
その内部に、オシリスとサイラの姿があった。
「あなたの娘さんは救世主です。ゆえに――特別な訓練を受けさせるべきです」
そう語るのは、銀髪の老人。
オシリスに匹敵するほど整った顔立ちを持つ男――ジョン尊師。
「特別な訓練……ですか?」
オシリスが首をかしげる。
「ええ。スペシャルな訓練です」
「それは具体的には?」
ジョン尊師は、にやりと笑った。
そして、一枚のチラシを差し出す。
そこには大きく書かれていた。
――【超能力研究所】
「あなたの娘さんに“力”を授けるのです。超能力という名の、奇跡を」
「なんと……超能力!」
オシリスの瞳が輝く。
「ウルトラかっこいい力です」
「ウルトラ!」
その単語に、なぜか深く興味を見せるオシリス。
「つまり、うちの娘はウルトラレアな救世主になれるのですか?」
「ええ、もちろんですとも」
ジョン尊師は力強くうなずく。
「選ばれし救世主を、“ウルトラレア”へと昇華させるのです」
「なんと素晴らしい!」
オシリスの目から、感動の涙がこぼれ落ちる。
「ぜひ!ぜひとも娘を通わせましょう!」
「Goodです」
ジョン尊師は親指を立てた。
「今なら月額1000万のところを――特別に100万円に」
「それはお得だ!!」
二人は固く手を取り合い、そのまま謎のテンションで歌い始める。
その隣で――サイラは、ただ静かにうつむいていた。
数日後。
とある研究施設。
白い壁、無機質な空間。
そして――椅子に拘束された、小さな少女。
サイラの頭には、電極のついた装置が取り付けられていた。
「サイラちゃん。聞こえる?」
優しい声が響く。
茶髪ロングの女性研究員――刹那。
「……いたい……いたい……やだ」
電流が走る。
「痛い痛い痛い!!帰りたいよ!!」
ビリビリと体を震わせるサイラ。
その瞳は、すでに光を失いかけていた。
その様子を見た刹那は――
「もういい!」
スイッチを切る。
電流が止まる。
「ごめんね、もうやらないから」
罪悪感で震えるような声。
しかし――サイラは、にこっと笑った。
「ありがとう、刹那」
その笑顔は、あまりにも無垢で。
「刹那、やさしい。いい子」
小さな手が、刹那の頭を撫でる。
その瞬間、刹那の表情が崩れる。
「あはは……」
無理に笑う。
「アイス、買ってきたんだ。一緒に食べよ?」
「うん、食べる!」
ブロック状のアイスを、小さく割って口に運ぶサイラ。
その顔は――さっきまで泣いていたとは思えないほど、幸せそうだった。
その後。
刹那はオシリスを説得し、サイラを研究所から引き離すことに成功する。
だが当然、反発はあった。
研究所の所長――毒川。
彼は激怒し、刹那と激しく対立したという。
そして――数日後。
事件が起きた。
毒川は死体となって発見された。
場所は――桜山川。
あの、美しく澄んだ川の中で。
まるで何もなかったかのように、静かに流れる水の中で。




