#3「貴方に出会った日③」
「ティアナ!! 梯子から落ちたって本当なのか!?」
今にも転びそうな勢いで部屋に入って来た人物は、艶のある黒髪、ルビーの瞳を持った、誠実そうで、優しそうな顔立ちをした細身の青年だった。
「─────────!!」
急に現れた青年から、どうしてか目が離れない。私は突然現れた青年を見つめて立ち尽くす。
「あら、お兄様……お早い。お父様は……?」
「あらお兄様……じゃない。どれだけ公爵と俺が心配したと思っているんだ。……はぁ……父上は仕事だ」
相当急いで走って来たのか、汗ばむ髪をかきあげた令息。その姿に、私は魅入られてしまっていた。後で聞いた話だと、ジルに小突かれていた事も気が付いていなかったらしい。
(この方が、ティアナ様のお兄様……えっと確か名前は、レイオス、様……)
私はこの人を知っている。会うのは初対面だけれど、年頃の令嬢で知らない人は居ない程の有名人だ。容姿端麗、家柄もこの国では王族に次ぎ、妖精からの強い加護も使いこなす貴公子で、令嬢たちの憧憬だ。お茶会などでは必ず話題に上がり、きゃーきゃーと黄色い声で話されている。
(でも確か……女性には凍てついた視線を向けたり、泣かせてきた女性は星の数ほどいるとか、協力な炎魔法を操ることもあって【悪魔の貴公子】としての噂も……)
とてもではないが、目の前の人物と噂とを結びつけられそうになかった。
「本当に怪我はないんだな? 」
「ないー」
優しく、甘く、宝物を扱うようにレイオス様の指がティアナ様の黒髪に触れる。ティアナ様は子猫のようにその手に戯れついていた。ほんの少しのやり取りだけで、お二人を知らない私にも兄妹仲が良いのだとわかった。
──────この人は、ティアナ様のことを大切にしているのね……。とっても、優しい人なんだわ……。
仲の良い兄妹の姿はあまりにも眩しくて、私には直視出来ない。そっと、目を逸らす。
「それで、どうして梯子から落ちたりした? まさか図書館の管理が甘かったなんて事はあるまい。ティアナのことだから、おおかた梯子の上で眠りこけでもしたんだろう?」
「んぇ? お兄様、すごい……せーかーい」
のんびりとした口調で、優雅に紅茶を口に含めるティアナ様。凛とした佇まいの令息は再びため息をこぼして言う。
「はぁ……やっぱりか。…司書殿。先程も話した通り、此度の件は公爵にもティアナの不注意だと報告させていただく」
「……しかし……いえ、承知しました」
司書様は責任感がある方だから、ご自分のことを責めていらっしゃるのかも……。
「小公爵様。ですが、一つ正したい事がございます。公女様をお助けされたのはミリィーア・ルナフィエ侯爵令嬢でございます」
「っ……!(今ここで、私の事を呼ぶのですか!?)」
「君が……妹を……?」
赤い双眸が、私を捉える。
「は……はいっ!! ミリィーア・ルナフィエと申します小公爵様」
変な事を口走りたくなくて、一先ずドレスの裾を摘み上げて頭を下げ自分の名前を繰り返した。
貴族の令嬢であれば、此処で笑顔の一つでも浮かべてみせるべきだとは分かっていても、緊張に身体を支配され、飛び出しそうなほど鼓動を高ぶらせている私にそんな余裕はなかった。
「ご令嬢は妹の恩人だ。どうか頭を上げてくれないか?」
そう言われて、私はソロリ……と顔を上げた。
「……ありがとうルナフィエ嬢。貴方に怪我はないだろうか……?」
「──────っっうぅぅ、」
眉尻を下げ、心配そうな顔をしている小公爵様が、私だけを双眸に映していた。それだけで、全身から汗が噴き出し、顔が熱く照る。
「ルナフィエ嬢……?」
や、やめて。
そんな困った顔をして見つめないでくださいぃぃ。
「───っだ……」
「だ?」
「だ、大丈夫ですぅぅぅぅぅぅぅっっっっ!!」
「お嬢!?」
私は心臓の鼓動に耐えきれなくなって、その場から逃走した。それから数日後のことだ。
「——— こ、ここここここここここんや? 婚約!?」
「そうだ。お前は小公爵の婚約者候補でもあったからね。公爵の方からこれも何かの縁だと要望があったんだ。見ず知らずの少女を助ける勇気を持ったお前を大層気に入られたらしい。父として誇らしい限りだよ」
いつになくウキウキとした父が、一通の手紙を私に手渡したのは。そして父の言葉の通り、手紙には私と小公爵様の婚約を打診する内容が書かれていたのだった。
嬉しい。
嬉しい、嬉しい……!
嬉々として手紙を抱きしめたのを覚えている。
それが。
それがっっっっ!!
それが、もののニ年で相手側から婚約破棄を言い渡されるとは!!
「———ぅ、うぅ、ぐすっ、ぐすっぐすんっ」
枕をぐしょぐしょにして、布団と共に丸くなった私に、ジルがほとほと呆れた声をかけてくる。部屋に篭ってしまっているから、今が夜なのか朝なのか、昼なのか分からない。でも、ジルがこうして声をかけてくるということは夕方頃なのだと予想がついた。
今日も私は一日中泣き明かしてしまったらしい。
「嬢、そろそろ泣き止んでくださいてば〜。なんで、涙が枯れないんっすか、もう三日っすよー。目が腫れちゃうっすよー。お腹とか空かないんすかー?」
「も"……も"う"はれ"て"るも"ん"!!」
「うわぁ〜こりゃ酷い」
困ったように笑ったジルは、布団から出てきた私を「よし、今っすね!!」と言って抱き上げた。
「ジルッ!? 降ろしてっっどこにも行きたくないっ」
「いたい、いたい。叩かないで欲しいっす。全くもう、湯船に入ってからまた泣いてくださいっすー」
「う"ーーーーー」
ぽかぽか、げしげし。
拳で叩いても、足で蹴って暴れても、ジルは笑うだけで私をしっかり抱きしめてくる。
「《水妖精》、嬢は任せたっす」
浴室に私を放って、ジルは扉を閉めた。
「——————それで、少しは落ち着いたっすか?」
「……う、うん……」
入浴が終われば、次は、ぱんぱんに腫れ上がった瞳をジルの氷の魔法で目を冷やしてくれた。気持ち良い冷気を感じながら、ジルからの質問に身を縮ませる思いで頷く。
「……婚約破棄だなんて……私、私……」
「落ち着いてくださいっす。小公爵様からはなんて言われたんすか」
「……好きでもない相手と婚約させてしまって申し訳ないって……」
「うわぁ〜ご愁傷様っす……」
哀れまわれて、止まったはずの涙がまた視界を潤ませていく。
「わ……私は、私は嫌ってなんていないのに!! レイオス様のことが……ことが、……」
「泣いたり、怒ったり、恥ずかしがって顔を赤くしたり忙しいっすね嬢は」
そう言ったジルが、「うーん、そうかぁ。参ったすねー」と頭を掻いて眉間に皺を寄せ始める。
「なぁに?」
「いや……でも……あんまり言いたくないっす」
「言って」
「怒ったりしないでくださいっすよー?」
言いにくそうに、ジルは発言を続ける。
「小公爵様が婚約破棄してきた理由、それが嬢に好きでもない相手との婚約を強いてしまったことなんだったら……、その……嬢の気持ちは全くこれっぽっちも向こうに届いてないっすよ」
「────── うゆ?」
赤子のような純粋無垢な気持ちで、私は首を傾げてしまった。今、ジルはなんと言った?
「……伝わって、ない………?」
「伝わってないっすね」
「そ、…………そん、な………」
どん底に突き落とされた気分だったけれど、自分の態度を振り返ってみるとジルの言う通り勘違いされても仕方ない。
「………な、なんってこと……!」
あまりのショックに私は再びベッドへ倒れ込んでしまったのだった。