五枚目:指切り
「ちょっと疲れちゃったね。休憩、休憩!」
賑やかな街と激しい人の波から逃げるようにして、私たちは一度、王宮へと戻ってきた。王宮の外周にはまばらに人が居る程度で、あの正面通りのような押し寄せる熱気や賑やかさはない。穏やかな風が吹き抜け、誰もが思い思いの時間を過ごしている落ち着いた空気が流れていた。
私たちは、庭園の隅にある空いたパーゴラの席へと滑り込む。じんわりと脈打つように痛む足の裏は、一日中テーマパークを歩き回ったときのあの懐かしい疲れによく似ていた。
「なんか……本当に、夢を見てる気分だよね」
空がゆっくりと赤みを帯びていく。世界は違えど、夕暮れに向かっていく馴染みのある時間の進み方に、私はどこかほっとした安堵感を抱いていた。
同じように茜色の空を見つめたまま、光花がぽつりと話し始める。
「だって、さ。ほんの数時間前までは体育館で校長先生の長い話を聞いてさ、お別れの歌を歌って、教室でみんなと泣きながらお別れして……。薫ちゃんと帰る通学路もこれで最後なんだな、なんて、ちょっとノスタルジックな気分に浸りながら歩いてたら、いきなり異世界だよ? ありえなくない? ドラマやアニメの中でしか聞いたことないよね、こんなの!」
あーあ、と天を仰いで大きく伸びをした光花が、今度はコロンと膝を抱え、そこに顔を埋めてしまう。パーゴラに落ちる彼女の影が、夕日のせいで長く、寂しげに伸びていた。
「……これから、どーしよっか」膝の向こうから投げかけてくる声は意識して明るく作られているけれど、顔が隠れているせいで表情が読めない。東京での夢の一歩を踏み出すはずだった光花の焦りや、不安はどれほどだろう。光花が今どんな思考の渦にいるのかは、正確には分からない。けれど、この世界に突然連れてこられて、ミゼリア様の誠実な話を聞いて、あの命の輝きが爆発するような街を見たとき——私の中に、今までになかった一つの強い想いが、確かに芽生えていた。
私は、首からさげている愛機をそっと指先で撫で、声に出した。
「私はね、この世界のほかの街や国、たくさんの景色を見て回りたい」
帰還の陣の用意が整うまでは、この世界でどうか自由にお過ごしください——ミゼリア様が微笑みながら告げたあの言葉は、実家の老舗旅館を継ぐため、すでに人生のレールを切り詰められていた私が、本当は喉から手が出るほど欲していた「自由」そのものだった。着物を着て、狭い世界で一生を終える前の、神様がくれた奇跡。
「異世界に召喚される機会なんて、きっと人生で二度とないよ。それに、戻るときは元の場所、元の時間にちゃんと帰してくれるってミゼリア様も言ってくれた。だったら、帰還の陣を待つ間、ここでじっと同じ場所に閉じこもっているのって、すごくもったいない気がするんだ」
私は膝を抱える光花の前にしゃがみ込み、彼女の顔を覗き込んだ。
「日本に戻ったらさ、お互いそれぞれの道に進むでしょ? 光花は東京で夢を追いかけるし、私は実家で修行が始まる。だから……これが、神様がくれた最後のモラトリアム期間だと思ってさ。もう少しだけ、私たち、JKのままで一緒に過ごさない?」
私の言葉が終わっても、光花はしばらく膝に顔を埋めたまま動かなかった。夕風に揺れる彼女の可愛いつむじを、私はただ、祈るような心地で見つめていた。
やがて、そのつむじがゆっくりと遠ざかっていく。顔を上げた光花の白い頬に、私はそっと両手を添えた。促すように優しく親指で触れると、少し不満げに吊り下がっていた彼女の形のいい唇が、ふわりと綻んでいく。
「——私も! 私も、薫ちゃんと一緒にいろんなところに行きたいって、お店を見てるときからずっと思ってた!」
光花は私の頬にある手に、自分の温かい手を重ね、まるで大輪の花が咲くように笑った。
「さっきのお店の綺麗なお姉さんみたいな素敵なファッションもだけど、すれ違った本物の兵士さんの鎧や武器、お貴族様のドレスや、この王城の豪華なインテリアとか! 日本じゃ絶対に目にかかれないものばかりだもん! デザイナーの卵として、もっと、もっとたくさん見たいなあって!」
「特にミゼリア様のマントね! お願いしたら触らせてくれるかな? これも無礼講だからって許可してくれないかなあ」なーんて、とお茶目に笑った光花は、私の手を取ったまま弾むように立ち上がった。
そのまま私を引っ張るようにして、パーゴラを抜け、さっきよりも一層深く、燃えるような茜色に染まった街が一望できるテラスまで歩を進める。眼下に広がるレグランディスの大都市は、家々の窓に少しずつ魔術の灯りがともり始め、まるで宝石箱をひっくり返したかのように輝きを増していた。
「でも、約束しよ」
宝石のような夜景を見つめたまま、光花の声のトーンが、すとんと落ちた。ぎゅっと繋いでいた私たちの手が、そっと解かれる。
「この世界がどれだけ素敵でも、どれだけ居心地が良くても……時期が来たら、私たちはちゃんと、元の世界に帰るって」
約束。
その言葉が、夕暮れの冷たい空気となって私の胸に突き刺さる。
真剣な、すべてを見透かすような光花の視線から逃れるように、私は彼女の目の前に差し出された、小さな小指を見つめることしかできなかった。
——光花には、きっとお見通しなのだ。このまま日本に帰れば、伝統と格式という名の、逃げ場のない窮屈な鳥かごが私を待っていること。そして、この自由な異世界なら、私がその運命から永遠に逃げ出せてしまうという、黒い誘惑を抱いていることも。
だけど、分かっているよ、光花。私は、家族を裏切って一人で逃げ出せるほど、強くも残酷でもない。鉛のように何倍にも重くなったように感じる腕を、私は奥歯を噛み締めて無理やり持ち上げ、その小さな小指に、自分の小指を絡めた。
「分かってるよ。ここにいる時間は、本来なら存在しないはずの、奇跡みたいなものだから。その間は目一杯この時間を大事にするけれど……決して、依存はしないよ。帰るべきときが来たら、絶対に、一緒に帰ろう」
指を切った。
夕暮れの風が、二人の小指の間をすり抜けていく。
遊んでいられるのは高校生までよ
幼い頃から、耳にタコができるほど、まるで逃れられない呪いのように聞かされてきた母の冷たい言葉が、不意に脳裏をよぎった。
(分かっているよ、お母さん。でもね、この世界にいる間だけは、私はまだ、ただの高校生でいられるんだ)
帰ったら、私はあなたの望む大人になる。だから、——今はまだ、ごめんなさい、お母さん
私は胸元の一眼レフカメラにそっと手を置き、すぐ隣で新しい世界へ瞳を輝かせている光花の横顔と、夜の帳が下りていくレグランディスの光の海を、今度は私の心のファインダーに深く、深く焼き付けた。
以上がプロローグとなります。どこかの後書きでも記載していた通り、これ以降は不定期更新となります。
本当は毎日や定期投稿をした方が良いのでしょうが執筆に不慣れな為、また彼女たちの物語をしっかり考えて作り上げていきたい為、更新までお時間をいただけると幸いです。
ここまでお読みいただけた方がおられましたらとても嬉しく思います。
お読みいただきありがとうございました!




