疑念の種
天界に、誤りは存在しない。
少なくとも――そう定義されている。
空は常に澄み渡り、光は均一に降り注ぎ、都市は完璧な秩序のもとに構築されている。
そこに揺らぎはなく、例外もない。すべては計測され、調整され、最適化されている。
その中心にあるのが、“観令”。
それは単なる管理装置ではない。
人の思考、行動、選択――そのすべてを観測し、記録し、裁定する、この世界の絶対的な基準だった。
不確定は排除され、誤差は修正される。
三〇〇年。この秩序は一度として揺らいだことがない。
だからこそ――疑うという発想自体が、存在していなかった。
『グループβ所属“大天使”天永或澄に任務を通達する。』
思考の奥に、無機質な声が直接響く。
観令。
神ではない。
だが、この世界において神と区別する理由も存在しない。
視界に情報が展開される。
対象区域:地上 東23区
対象者:白砂阿弥、他三名
容疑:禁忌研究の疑い
執行許可:承認済
『確認後、速やかに処分を行え。』
簡潔な命令。
私は思考で承認を返す。
――任務開始。
この手の案件は珍しくない。
むしろ日常だった。
私は天界の執行機関、“保安社”に属している。
保安社は、“十柱”の一つ。観令の裁定を現実に反映させるための実働機関だ。
秩序を乱す可能性のあるものはすべて排除する。
理由は問わない。動機も関係ない。
観令がそう判断した時点で、それは“誤り”だからだ。
私は十八歳の時に推薦を受け、この組織に入った。
それから十年。千件を超える任務を遂行し、現在は“大天使”の階級にある。
保安社において、それは決して最上位ではない。
だが、“天界”における家系の格を考えれば、異例の昇進だった。
評価は単純だ。
――結果。
それだけが、すべてだった。
私は人に興味がない。
対象は対象でしかなく、感情を向ける理由もない。
任務は遂行されるべきものであり、そこに迷いは不要だ。
それだけの話だった。
私は地上へと降下する。滑らかな落下。制御された重力の中で、身体は無駄なく移動する。
眼下に広がる地上は、どこか鈍い色をしていた。
秩序はある。だがそれは、天界のそれとは違う。
整えられているのではなく、保たされている均衡。
そこに意味を見出したことはない。
ただ――任務を遂行するだけだ。
着地。
空気が違う。
重く、湿っている。
だがそれは環境差異として処理するだけのものだ。
対象建物は、老朽化した研究施設だった。
異常は見られない。
だが、観令が“禁忌”と判断した以上、内部には何かがある。
その時だった。
「また“禁忌”ですか。」
振り返ると、同じグループの大天使たちが到着していた。
「最近多いですよね。」
「……観測に、少しむらがある気がします。」
私は口を開く気はない。
「天界の研究の方が倫理観を排斥した危ないもの多いのに、そっちは一度も対象にならない。なのに地上はすぐこれだ。」
軽い口調。
だが、その奥には違和感があった。
「それに――」
一瞬の間。
「“禁忌”って、誰にとっての禁忌なんでしょうね。」
我慢の限界が来た。
「不要な推論だ。」
それで十分だ。
扉を開く。暗い内部。気配。
そして――
「来ると思っていましたよ、"保安社"の天の使いたち。」
女が一人、そこにいた。
白衣を身に纏い非常に落ち着いてた。逃げる様子もない。
「白砂阿弥。」
「はい。」
「確認後、処分を行う。」
彼女は笑った。
「フフフ、確認、ですか。」
その一言で、空気がわずかに歪む。
「あなたたち、最初から決めてるでしょう?」
私は答えない。
その問いに意味はない。
「一つだけよろしいかしら?」
白砂は静かに言う。
「私たちが何をしていたか、聞く気はあります?」
「必要ない。」
即答だった。
「そうでしょうね。」
だが彼女は続ける。
「それでも、話します。」
背後の装置に手を触れる。
「私たちの研究それは、“観令”を再現しようとしていました。」
空気が止まる。
「……何だと。」
同僚が反応する。
「模倣です。簡易的な観測構造の再構築。」
「不可能だ。」
「ええ不可能です。」
白砂はあっさり頷いた。
「だからやってみるんです。それが研究。不可能を可能へと近づけるものです。」
装置が起動する。
微かな振動。
その瞬間。
画面に――“世界”が現れた。
単純な平面。点と線で構成された小さな構造。
その中で点が動いている。
まるで、人のように。
「これは、“観測された世界”を再現したものです。」
誰かが息を呑む。
「行動の記録だけを使って、世界を組み立てている。」
白砂は一つの点を指差す。
「じゃあ、これを消しますね。」
操作は一瞬だった。
点が、消える。
ただ、それだけ。
「……それが何だ。」
同僚が言う。
「ただ消しただけだろう。」
「ええ。」
白砂は頷く。
「ただ消しただけです。」
一拍の間。
「でも、これと同じことが現実で起きているとしたら?」
沈黙。
「観令は、すべてを観測している。」
彼女は静かに続ける。
「そうですよね?」
「ああ。」
誰かが答える。
「なら、“すべてを見ている”。」
或澄の方へ一歩、近づく。
「でも、それって本当に“そのまま見ている”んですか?」
誰も答えない。いや答えられないのだ。
「さっき言い方を間違えました。」
白砂は、ゆっくりと言う。絶対に聞き漏らすことのないように。
「“見えていない”んじゃないです。」
その目が、鋭くなる。
「“見ているのに、選んでいる”んです。」
空気が変わる。流れが白砂の方に行っているのが分かる。
「残すものと、消すものを。」
彼女は画面を操作する。
点が消え、また現れる。
「存在はしている。でも表示されない。
それって、“観測していない”のとは違いますよね。」
また沈黙。
「選んでるんです。」
静かに、確信をもって。
「何を見せるか、何を見せないか。」
一歩、さらに近づく。
「それって――」
わずかに言葉を区切る。
「“意思”じゃないですか?」
誰も、否定できない。
「完璧なAIのはずなのに。」
白砂は止まらない。
「どうして“選別”があるんです?」
「どうして“都合のいい排除”が起きているのか?」
その問いが、空間に残こり酷く広がっていく。
「ねえ。」
彼女は私を見た。
「あれは、本当に君たちの味方なの?」
――。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、思考が止まる。
だが。
「……無意味だ。」
私は一歩、前に出て空気を断ち切る。
「観令は絶対だ。」
それだけで十分だった。"天界"に"観令"に間違いなどあるわけがない。
「お前の研究は体系外だ。」
虚空から刃を取り出し構える。
「よって――排除対象。」
白砂は、わずかに目を細めた。そして、笑った。この手の研究者の大半はこう笑う。何がそんなに面白い、"天界"に背き、秩序を乱す紛い物不是が。
「そう。」
その表情に、恐怖はない。
ただ、確信していた。
「あなた達も疑ってるのね。フフフ、いつまでその信仰心がいいえ、盲信が続くか見ものね。」
その言葉が終わるより早く。
私は、踏み込んだ。
その夜、私は空を見ていた。光り輝く都市の光。その影響で星は見えないが無限に広がる闇が見えるだけでも空は十分美しかった。
白砂の発言がまだ脳裏を過る。
あれは本当に君達の味方なの?
"禁忌"の任務をしていると変な事を言ってくる輩は多い。"天界"に背く人間の思考など考えるのも無駄だが。
「……馬鹿げている。」
私は小さく息を吐いた。
あの程度の言葉に、思考を割く必要はない。
あれはただの典型的な反応だ。排除対象が見せる、自己正当化の一種。
禁忌に手を出した者は、決まって同じことを言う。
「これは正しい」
「世界の方が間違っている」
「お前たちは真実を知らない」
――くだらない。
そんなものに価値はない。
観令は絶対だ。
それは証明され続けてきた事実であり、三〇〇年揺らがなかった現実そのものだ。一人の人間の言葉で覆るようなものではない。
私は視線を空から外す。任務は完了している。
報告もすでに送信済みだ。
白砂阿弥および関係者三名――排除。
それで終わりだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
それで終わりだ。
……終わりのはずだった。
思考を切り替える。
次の任務。
それだけだ。
私は別の記録を呼び出す。特に理由はない。ただ、次の案件を確認するため。
表示されたのは、地上の別区域のデータだった。
黒身愛空。
聞いたことのない名だ。容疑欄を覗いてみる。
「……?」
わずかに視線が止まる。禁忌研究――ではない。
“非登録医療行為”。
軽微な違反。
本来であれば、指導、あるいは拘束止まりの案件だ。
処分に値するものではない。
私は詳細を開く。対象者は、冥下で活動していた。
無許可で医療行為を行っていた記録。
設備は簡易的。
技術も未熟。
だが――
治療対象の多くが、重度の病を抱えた者たちだった。
記録の端に、回復例が並んでいる。
「……。」
私は無言でスクロールする。違和感はない。
冥下では、制度から外れた医療行為は珍しくない。貧しい者を救わんとする人が無償で医療行為をするのはよくある事だった。
問題はそこではない。
私は、次の項目を見る。
処分。
――執行済。
一瞬、思考が止まる。
「……なぜだ。」
誰に向けたわけでもない言葉が、わずかに漏れる。
私は即座に、次の項目を確認する。
判断理由。
そこにあるはずのもの。
だが――何もない。空欄ではない。未記入でもない。
“存在しない”。
私は無言で画面を見つめる。あり得ない。禁忌でない案件に、即時処分。場合によっては人を助ける事になる善行だ、禁忌を犯し秩序を乱す者とは訳が違う。
それだけではない、理由が存在しない。規定から外れている。明確に。
だが。
「……。」
私は思考を止める。結論は単純だ。
――例外処理。
観令には、すべてを最適化する権限がある。
通常の規定に当てはまらない事例が存在しても、おかしくはない。むしろ、それこそが“完全性”だ。私は画面を閉じる。
それでいい。
それで終わりだ。
そう判断する。
だが。
ほんのわずかに、違和感が残る。軽微な違反。救命行為。理由のない処分。
「……。」
思考の奥で、言葉が浮かぶ。
「あれは、本当に君たちの味方なの?」
私は即座にそれを切り捨てる。
――不要だ。
観令は絶対だ。
それ以上でも、それ以下でもない。そう、結論づける。
だが――
次の任務の確認画面を開いたとき。
ほんの一瞬だけ。
私は、“判断理由”の項目に視線を向けていた。




