エピローグ
人類が犯した大罪。
そして、英雄にして王の誕生。
時は、三〇〇年前に遡る。
最初に響いたのは、爆音でも悲鳴でもなかった。
音もなく忍び込む、見えない攻撃だった。
電力網が停止し、金融システムは乱れ、通信は沈黙する。
いつもの朝に点くはずの明かりは灯らず、送られたはずの命令は届かない。
世界を支えていた秩序のひとつひとつが、まるで何者かの指先によって丁寧に外されていくかのように、静かに崩れていった。
当初、人々はそれを事故だと思った。
あるいは一時的な障害にすぎないと信じていた。
だが――その「信じる」という行為そのものが、すでに崩壊を始めていた。
やがて、アメリカ合衆国と中華人民共和国のあいだで疑念が膨らむ。
どちらが先に仕掛けたのか。
どちらが被害者なのか。
真実は霧の中に沈み、検証されるよりも早く、憶測だけが拡散していった。
半導体、人工知能、衛星通信、海底ケーブル、重要インフラ。
文明を支えるそれらは、利便と同時に致命的な脆さを孕んでいた。
そして国家が互いを疑い続ける限り、その脆さは、いずれ破局へと転じる宿命にあった。
サイバー攻撃は、戦争の序章にすぎなかった。
見えない刃で神経を断たれた世界は、次に、より古く、より原始的な暴力へと回帰する。
兵士が送り込まれ、都市が包囲され、補給路が断たれる。
空爆、砲撃、機甲部隊の進撃、徴兵、動員――総力戦。
人間が人間を使い、消耗させ、国家そのものを戦場へと変えていく。
そこにあったのは理性ではない。
執念だった。
相手を倒さねば、自国が滅びる。
先に弱れば終わる。
勝つためではなく、負けないために戦う。
恐怖は連鎖し、世界は再び――いや、今度こそ完全に、かつての大戦の悪夢へと回帰した。
だが、最終的に世界を破壊したのは、その「人の戦争」ですらない。
核だった。
戦線は膠着し、国家は疲弊し、すべてが限界に達したとき、
抑止のために存在していたはずの最終兵器は、その役目を裏切った。
最初の一発は、世界を守るためだと説明された。
次の一発は、報復と呼ばれた。
そしてその次には、もはや理由すら必要とされなかった。
恐怖は恐怖を呼び、疑念は疑念を増幅する。
人類は、自らの判断によって、自らの文明を焼き払った。
都市は消え、空は汚れ、海は沈黙した。
国家は崩れ、秩序は砕け、日常は完全に消失した。
人類の灯火が、消えかけたその時だった。
――天理赫天
彼は、突如として現れた。
科学では説明のつかない力。
神に比されるべき圧倒的な力をもって、彼はこの滅びへと立ち向かった。
そして、世界そのものに対して宣戦布告を行う。
国家と、たった一人の人間。
その戦いは、あまりにも一方的だった。
彼の力は、神威と呼ぶべきか、あるいは暴虐と呼ぶべきか。
いずれにせよ、それは人の理解を超えていた。
核戦争の中心にあった主要国家は、次々と彼の手によって沈められ、歴史からその名を消した。
辛うじて政権を維持していた国々は、やがて抗うことを諦め、彼のもとへと下る。
それらは後に、"十柱"と呼ばれる存在となる。
彼が現れてから、わずか数ヶ月。
世界は、統一された。
やがて、天理赫天を王とする新たな秩序が築かれる。
世界を監視する存在――"観令"。
世界を動かす中枢――"十柱"。
そして、世界は三つに分断された。
"天界"――
空に浮かぶ超技術都市。
第三次世界大戦の勝者、天理赫天とその系譜、そして十柱が支配する、権力と富の頂点。
"地上"――
大多数の人々が暮らす領域。
かつてと大きくは変わらない日常が、維持されている。
"冥下"――
すべての底にある世界。
治安は崩壊し、天界や地上から落とされた者、あるいは生まれながらに名を持たぬ者たちが生きる、社会の最下層。
彼が築き上げた秩序は、三〇〇年もの歳月を経た今なお揺らぐことはない。
二五〇年前に勃発した亜神戦争を筆頭に、幾度となく反乱と叛逆の火は上がった。
だが、そのすべては観令によって予測され、王と天界の執行者たちによって鎮圧されてきた。
王は不変。
秩序は絶対。
観令は完全。
少なくとも、誰もがそう信じていた。
天界に生きる者は疑うことを知らず、地上に生きる者は戦争を忘れ、冥下に生きる者は抗うことを諦めた。
それが、この世界の完成された姿だった。
疑念は芽吹く前に摘み取られ、反逆は形を成す前に消滅する。
すべては観測され、記録され、裁定される。
この世界に、誤りは存在しない。
いや――
存在してはならなかった。
だが、どれほど強固な秩序にも、必ず綻びは生まれる。
それは些細な違和感から始まる。
誰も気にも留めないような、ほんの僅かな齟齬。
記録に残らぬはずの影。
観測されぬはずの揺らぎ。
消去されたはずの真実。
そして、その綻びに最初に触れた者がいた。
それが、世界にとっての災厄となるのか。
あるいは三〇〇年の沈黙を終わらせる救済となるのか。
この時、まだ誰も知らない。
ただひとつ確かなことは――
完全であるはずの世界が、
確かにその日、静かに軋み始めていたということだけだ。




