閑話一 内務局員アンナの優雅な一日です!
ちょっとした閑話です。
アンナを理解するための掌編ですがせっかくなので公開します。
本筋とはあんまり関りはありません。
欠伸をして窓を開く。
まだ空は暗い。
少し冷たい空気にぶるりと身体を震わせる。
私は案外これが好きだった。
冬だともう耐えがたい寒さだが、今は丁度良い気温だ。
お昼ごろにはもう暖かくなってしまうのが少し惜しい。
歯磨きをして紅茶を淹れる。
溢れそうになった紅茶にあわてて口をつける。
「あっつ」
どうやら舌をやけどしてしまったようだ。
ヒリヒリする。今日はついてないかもしれない。
はあ、と溜息を吐いてから本を手に取った。
これはナスターシヤさんからこの前借りたものである。
娯楽の知識を人一倍持つことは有用である、とカレーニンさんがよく言っていた。
内容を頭に入れつつ、並行して今日の予定を立てる。
取り敢えず明るくなってからはパンを買いに行こう。その次は本屋に行って流行りを把握して、それからは事務所に顔でも出そうか? ……休みまで顔を出すのはあんまりか。同僚に変な人間だと見られても困る。
そろそろ寒くなってきて窓を閉める。
空は少しずつ白んできた。
紅茶も少し冷めてしまった。
また溜息が漏れてしまう。
やはり私は休日が得意ではないのかもしれない。
お仕事中ならばよく回るこの頭は、詰まってしまったように流れがない。
これは困ってしまう。こういったところからぼろが出る。潜入をするにしても、きっと普通から逸脱しすぎてはだめなのだ。
何か行動しようと思って、スケッチブックを取り出してくる。
カレーニンさん曰く、絵を描けると旧貴族とか偉い人に気に入られやすいらしい。
私はあんまり魅力が分からないが練習にもなる。
窓の外に視線を向ける。
人が倒れてる。あれはきっと酔っぱらいだろう。
今のところ無害そうだし無視でいいか。
鉛筆を動かす。
特に書くものもなかったので、記憶の彼の指示に従った。
抽象的な指示ばかりであったが、ある程度楽しかったことは否定しない。
結局完成したのは、無声映画の喜劇俳優だった。
外を見ると明るくなっている。
もうこんな時間か。思ったよりも早いかも知れない。
ヴァイオリンを持って外に出た。
*
「アンナちゃん、今日も早いね」
最近行きつけになったパン屋の店主が言う。
彼は柔和な顔をした人だが、革命前からここに店を構える強い人だ。
プチブルである彼が排除されなかった点でもそう思える。
「今日は少し遅めに起きましたよ。お家のお手伝いもなかったみたいで」
こんな風に言ってお金を払う。
硬いパンは今日も少し値上がりをしている。
「今日はこれから何をするんだい?」
「これを調整に出してから本屋さんに行こうと思っています」
ヴァイオリンのケースをパン屋さんに見せる。
彼は目を丸くした。
「弾いてみてくれないか? 俺は貴族さんが弾くようなのをあんまり聞いたことがないんだ」
「うーん、まあはい」
あんまり上手ではないのでしぶしぶうなずく。
ケースから取り出した音叉を咥えてチューニングをする。
これは結構好きだった。歯に来る振動が心地よい。
さて、それからしばらく頑張って弾いた。
間延びした音しか出せなくて、やっぱり私はこれが嫌いだ。
情緒のないこれらはきっと全部嫌いだ。
「いやあ、上手だね」
「そうですかね? 十回は間違いましたよ」
「全く分からなかったよ」
洒落をきかせてG線だけで演奏しようとしたのが間違いだった。
褒められることは嬉しいのだが、少し申し訳ない気持ちにもなった。
*
「よっ」
このように声をかけてきたのは本屋の店主である。
彼は長い髭をひとまとめにしている不思議な人だった。
「おはようございます」
身軽になって手で適当な本を取りながら言う。
ヴァイオリンは先程調整に出した。
「久しぶりだね」
「そうですかね? 休みの度に来てるつもりですよ」
「なるほど、相当に忙しいらしい」
そんな会話をした。
この店主は公務員だというのに、とても真面目ではない。
首になりかねないのに仕事をさぼるのはやめてほしいものだ。
私はたぶん彼が善い人なのは知ってる。だから、悪いことはしないでほしいものだ。
「今売れてるのってどんなのですかね」
「えっと、これだな。珍しく検閲を突破した西の本だ」
冒険と題されたそれに少し顔を顰める。
「これって児童文学じゃないですか」
何だか子供だと見くびられているように思う。
そもそもこんな話を読んで意味はないのだ。
仕事に使うことができない。
「でも今の流行はそんなもんだぜ」
彼は笑いながらに言う。
……もしかしたらそうなのかもしれない。
子供も大人もこぞって児童文学を読む……本当にそうだろうか。
疑問に思いながらも、言いくるめられて買うことになってしまった。
案外長い本に少し驚きながらも、ゆっくりと読もうと思う。
*
寮に帰ったところで手紙を探した。
特に見つからなかった。
もう一度紅茶を淹れて飲む。
今朝買ったパンをちょっと食べる。
外は仄暗い。
暫くたつと、窓に結露が生まれた。
それを無性に撫でたくなった。




