1-1.代行者、退場
学生も教員も誰もいない聖グリエルモ学院は、深海の静謐さを一層深める。
授業中はもちろん極力静かな環境下で各々の講義を受ける生徒だが、しかしふたを開ければ盛りの少年少女だ。登下校はもちろんのこと、休み時間や放課後はそれ相応の賑わいを見せる。
しかし今日はそのすべての生徒や教員に与えられる休日の、しかも午前の早い時間。
サン・ピエトロ大聖堂の残った半身を惜しみなく再利用した、世界で一番豪奢で荘厳な学び舎の中に今いる人間は、片手で数えられる程度だろう。
まるで世界から隔絶されたかのような、おいてかれてしまったかのような錯覚さえ感じられる静寂に、二人の人影が対峙している。
学院すべてを見通せられる中心部の、尖塔の先の最上階の理事長室。
これまた豪華な造りのデスクの上は、その荘厳を隠しきってしまうほどの書類の山。その陰から覗く、銀のフレーム越しに翡翠の双眸は目の前の人物を射抜く。
「――お前の提案は承諾できないな」
返ってきた返答に、デスクの前に立つ聖グリエルモ学院特殊専科のうちの一つ、近接歩兵科の赤の裏地の制服に身を包んだ生徒は、マリンブルーの長髪の下の紫の瞳を眇める。
「退学の申請は学生の自由では」
「そうだね。それ自体は否定しない」
「ではなぜ」
デスクに座る麗人の、白に近いオフゴールドの癖のある長髪を見下ろしてオリバー・ロングヴィル・ブルームフィールドは再度尋ねる。自身が憧れと仰ぐ、『タキオン』総団長。アルベルト・サリヴァン。
アルベルトは今彼の手から直接渡された、『退学申請書』と書かれた書類をなめるように見流して。
「お前は、きちんと退団手続きをしたのかね」
「・・・・・・は?」
アルベルトの予想外の返答に、たまらず素で反応してしまう。退団?
「何の退団手続きでしょうか」
「もちろん、ハヤトのところのだよ」
あぁそういえばと、その言葉でようやく思い出す。夏休みから成り行きで連名している、落ちこぼれの学生試験調査団のことを。
しかし。
「あれはただの一時名前を連ねただけに過ぎません」
――ハヤト・クサナギ。学院一の落ちこぼれとかつて自分が嘲た、遠い島国の天才。
思い返してもしょうも無い彼の要請で、しかし返しきれない借りを返す為にと彼の立ち上げた調査団に入団して、そしてあの『聖戦』を生き残った、学生間ではちょっとした『英雄』の調査団。しかしオリバーにとっては言葉通りの意味合いしかない。
借りを返す為に所属して。そして要請された内容はきっちりと完遂して。
入学式からこっち、調査団らしい活動を一切行っていなかったから、少々頭の隅に追いやられていたその存在を、アルベルトは示唆して。
「そうだとしても1度は同じ戦場を駆けた仲間だろう?なればきちんとそうした手続きは行うべきだ。しかし、」
「しかし?」
不意に止められた言葉を聞き返して、アルベルトは口の端を吊り上げる。それは理事長としての彼ではなく、総団長としての彼でもない。ハヤトの既知としての表情。
「あいつがそう簡単に手放すとは思えないけどな?」
にやり、と。端整だからこそ圧のあるその笑みに、オリバーは今度こそ目を瞠る。予想外というか、それこそ。
「お言葉ですが。それは無いのでは」
「おや。その根拠はなんだろうか」
非常に興味がある、と言いたげに先を催促するアルベルトのその真意は測りかねるが、オリバーは持論を口にする。
「私はあれに嫌われていますから」
「そうだろうか。嫌いな相手に背中を預けることなんて、出来ることではないと思うが」
『聖戦』の時のことをさして言っているのだろう。それを察しながら、しかしとぼけるように。
「必要があったから、彼はそのようにしただけですよ。それに、」
「それに?」
一息ついて、少しためらった言葉の先を口にする。かつての己の、ハヤトへの仕打ちを。
「私が彼にした仕打ちを考えれば、嫌われて当然でしょう」
遠い島国の庶民だと見下して。
魔法適正も戦闘能力も底辺な彼を『落ちこぼれ』と嘲て。
挙句の果てに。――殺しかけた。
前者はまだ許せたかもしれない。しかし最後のフレーズだけは、たとえ聖人君主であろうと許される所業ではない。
どんな理由があろうとも。ただのいち個人の私的な感情で、他人の生命を脅かした。その事実は、罪の重さは変わらない。
むしろ、嫌われるくらいですんでいるのがおかしいほどの大罪。
しかし目の前の麗人は笑って、やはりその真意がわからなくてオリバーはわずかに紫の瞳を眇める。
「なにかおかしいでしょうか」
「いや、気に障ったのなら謝罪しよう。しかしお前をあざけて笑ったのではないから許しておくれ」
ではなぜか。アルベルトは見下ろされる紫を翡翠で見上げて。
「今お前は自分で言ったじゃないか。ハヤトは必要なことしかしない合理主義者だと」
「えぇ」
「つまり、お前を試験調査団に入れたのだって、必要があったからだとは思わないかい?」
気づいて、そして自身の失言を悔いてオリバーは柳眉を寄せる。確かにアルベルトの進言はその通りだろう。
だけど。――認めるわけにはいかない。
「それは、留年回避に必要であったから、です。これから先、私の役割は無い」
「なるほど。これでは平行線だな」
ふむ、と。どうしても意思は曲げられない、曲げるわけにはいかないらしいオリバーの対応にアルベルトは思案してぴ、と人差し指を立てる。
「ならば折衷案だ」
オリバー・L・ブルームフィールド。フルネームを呼ばれ、自然姿勢を正す。その先の彼の意見に構えるように。
――それも、結局は無意味だったのだけれど。
「――お前は無期限の休学処分とする」
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討論を重ねに重ね、いつの間にか太陽は天高くに昇ってしまった正午近い時間。オリバーは疲労感としてやられた感と、なんともいえない渦巻く感情を胸に宿舎への帰路を遡ってふ、と気づく。その道中の、薄桃色の少年の影。
「そんなところで何をしているんだ」
自分自身にそのままそっくり返ってきそうな発言だが、オリバーは思い切り棚に上げて呼びかける。
当の本人はまさか声をかけられると思っていなかったのか、一度肩を震わせてからゆっくりと伏せていた視線をこちらに向ける。長い前髪の下の、雪の陰の白銀。
「・・・・・・あんたこそ何してんの。今日は休みでしょ」
少年――レグルス・アマデウスはぶっきらぼうに短くそう返答して、しかしもう彼のその愛想の無い態度には慣れきったので毛ほども気にせずに。
「私は用事があったからな」
「制服で?」
「なんだ、気になるのか」
我ながら意地の悪い質問だという自覚はあるが訂正するつもりも無い。どうせ彼のことだろうから適当にはぐらかすかけんか腰に分かれるか、そのどちらだろうと思っての質問。
これ以上こちらの行動を探られないように、一線を引く。
しかし今日は違った。
「気にしたらいけないの?」
おずおずと。まるで告白の返事を求めるような、そんなか細い肯定。
そんな彼らしくない返事にオリバーは面食らう。まさかここで踏み込んでくるとは。しかも見てるこっちが恥ずかしくなるような声で。
しかしそれも一瞬で、相手にその同様を悟らせないようにわざとらしい咳払いをして気を取り直して。
「私のことはいいだろう。君のほうこそ今日は休日のはずだが?」
自分が発した問いかけがそのまま帰ってくるとは思わなかったのか、レグルスは目に見えて気まずそうに白銀の瞳を思い切り細めて。
「揚げ足取らないでよ」
「お互いに当てはまる問いだと思うが」
「そういうところ、本当に好きじゃない」
「好かれたくは無いだろう」
現代社会において『貴族』とは、ここ迷宮区でこそその権力を振りかざすにふさわしい地位。古くからの伝統と、それによって確立された独自の魔法体系。
その多大な権力と地位と名誉に、不満を抱くものは多い。しかも、彼のような貧民街の少年の、しかも貴族に良いようにもてあそばれた少年にとっては。
それを体現するように、オリバーとレグルスの関係は自分で言うのもなんだが良い方ではない。顔を合わせれば嫌味を言われて、露骨に嫌う態度。
オリバーも彼の半生や仕打ちを知っているからこそ、何も言わないしだからといってやり返したりはしないのだけれど。
「・・・・・・『夜会』の時、従者の人と何してたの」
と、考え事をしていたせいで、レグルスからの質問への対応が若干遅れる。その間隙を縫うかのように矢継ぎ早につむがれる言葉。
「あの夜、途中で抜け出してたでしょ」
「あぁ。夜風に当たりに」
「・・・・・・本当にそれだけ?」
その言葉だけでレグルスの質問の本当の意図を察して、内心で空を仰ぐ。あの時見られていたのかと、余裕が無くて気が付かなかった。
しかし、気づかれていたところで話すつもりは無い。この少年にだって、あの何でもお見通しだと言いたげな深紅の双眸にも。
「それだけだが」
「・・・・・・」
努めて冷淡に冷徹に。突き放すように言い放って、だからこそレグルスはそれ以上追及できずに口を噤む。本当は聞きたいけど、でもそれ以上の進入は絶対に許されないと聡い少年は気づいて。
それだけの拒絶の意味をこめて、オリバーは身を翻す。
「話がそれだけなら私は行くぞ」
もとよりオリバー自身には彼に用事は無い。だからとレグルスの横を通り過ぎて、その先の宿舎へ歩を進めて。
――つん、と服の裾あたりのささやかな違和感に、オリバーは反射的に足を止める。
振り返って見下ろした先には予想通りに、しかし相手は予想外で制服の裾をつまんだ指をたどって、わずかに見開いた紫の双眸で見返して。
「・・・・・・どこいくのさ」
レグルスの言葉にえ、と素直に反応してしまう。どこといわれても。
「宿舎だが」
「そんなことは知ってるよ!」
かぁっと真っ赤になった顔でレグルスはにらみ返してきて、さらにオリバーは目を見開く。レグルスの顔も、質問の意味もわからずに。
よほど恥ずかしかったのか、レグルスはもはや半泣きで。驚いた表情のオリバーを恨めしく見上げて。
「そうじゃなくてっ。・・・・・・だから、その、」
引き止めて、しかしその先をどう言おうかまでは考えてなかったらしく、普段の彼らしくないしどろもどろで白銀の瞳を泳がせて。
「・・・・・・オレをおいて、どこに行こうっていうの」
考えてそれなのか。
と、オリバー自身は自分が今どういう表情をしているのかわからないが、しかしそれなりの表情をしていたらしくまた半泣きになりながら。
「子供扱いするなよ!」
「何も言っていないが」
「顔に書いてあるんだよ馬鹿!」
がおう!と肉食獣のように威嚇するレグルスに、しかしオリバーはなんだか次第に抑えられない感情がふつふつと沸いてきて。
「・・・・・・ふ、」
こぼれてしまったら、後はもう流れる水の勢いを完全には止められないように。笑いは次第に膨れていって、からからと笑ってしまう。普段は見てくれが悪いからと絶対にしない声を上げて。
その様子に、やっぱり気に入らないレグルスは。
「なんだよっわざわざ気にかけてるって言うのにっ」
「いや、こんなアマデウスは見たことが無かったのでね」
「うるっさいなーもー!」
そう、こんなに子供らしいレグルスは今まで見たことが無かった。
彼は年のわりにしっかりしていて。孤児院でも年長だから多くの妹弟に囲まれて、そんな彼らの兄足らんといつも強気に笑って。――誰にも弱いところを見せられずに、虚栄で自分を鎧って。
だからこんな子供らしい彼は珍しくて、特に自分の前では絶対に見せない姿だろうからなおのこと。
ひとしきり笑って、満足して。自然に手が伸びる。自分の胸あたりの高さの薄桃色の頭に。
つんつんと逆立っている割にはやわらかい、自分とは間逆にそんなに手が入っていない髪を、特に何があるわけでもなく無造作にかき混ぜて。
そのオリバーの突拍子も無い行動に、今度はレグルスが驚いて凍りつく。何が起こっているのかわからないという、動物の反射。しかしされるがままも短い時間で、レグルスはしゃっと手を叩く。
「っていきなり何するの?!」
「私は君のことは、そんなに嫌ってはいなかったんだ」
ぽつり、と。自分自身でも無意識に言葉はこぼれて、秋の正午の夏よりかは幾分か柔らかくなった陽光にはらはらと舞う。
あまりにもしん、と静かな声音に何を思ったのか。なぜか正面の少年の表情は凍り付いて固まって。――まるでその表情を、その先の言葉を知っているかのような恐怖。
払われた手もそのままに、オリバーは紫の瞳を細めて。言うつもりは無かった言葉をそっと告げる。
今の自分は、どんな表情をしているのか分からないままに。
「今の君と同じくらいの年齢の俺も、君ほど強く在れたら。――どんなに良かっただろうな」
彼に抱いた感情は、憐憫でもなければ嫌悪でもない。ただ純粋な――憧れ。
彼のように、過酷な現実を前にしても逃げない強さを。
誰にも弱さを見せない精神性を。
彼のその在り様はまさに孤高の王のようで、高潔で気高くて美しい。
そんな彼の姿を私は純粋にあこがれて。同時に過去を憎んだ。
彼と出会うのがもう少し早ければ。――もう少し違った未来があったかもしれないのに。
オリバーの言葉に、レグルスは反応できずにただただ立ち尽くす。混乱に、怯えに白銀の双眸を見開いて。
そのレグルスの反応も聞かず、オリバーは無言で背中を向ける。もう二度と、振り返ることの無いように。――その憧れに、すがりつかないように。
オリバーは今度こそ振り返らずに、宿舎への道を歩を進めた。




