077.絡まる涙
「出発20分前です。親方、そろそろ準備の方を」
「うん、そうだね」
首からさげた巾着を手の中で転がしていたテスタは、椅子から立ち上がった。
「これからちょっと海が荒れそうだよ」
「げ、嵐ですか?」
「うーん、そんなに強くないとは思うんだけどね」
辺りの海の情報は石を握り締めていればすぐにわかる。彼の大事な相棒は海の全てを司っているのだ。
「どちらにしろ、なるべく早く切り上げないと、かな」
ふふっとテスタはいつもの笑みを零して日誌を棚に戻し、舵輪の横にある受話器を手にとった。
『総員に指示をだすよ。現在突入20分前、予定通り作戦を実行するから各自持ち場についてね。これから海が荒れそうだから、行動はなるべく迅速に――以上』
呟くように言うと、彼も準備の為に行動を開始した。
腰の短剣を確認して、壁に吊られていたフードをとって目深に被る。
そして胸の温かな硬い感触を、もう一度握り締めて静かに呟いた。
「今回もよろしくね」
ふっと体の中をやわらかな風が通っていった気が、した。
「親方、行きましょう」
「うん」
一方、とある船室。
スイはゆっくりとした動作で腰に剣を携え、机に放ってあった手袋をつけた。
まさか来るとは思っていなかった、目の前の現実。
一人の旅人としてではなく、あの孤高の銀髪鬼の弟として剣を握るという、現実。
しかしそれも仕方のないことだ。これは自分が背負っていくべきものなのだから。
ひとつだけ灯してあったランプをふっと息をかけて消し、彼は部屋を後にした。
通路ではセルピが心配そうな顔をして待っている。
「……気をつけてね」
「ああ」
彼女は船の見張りで待っていることになったのだ。
封印魔法を会得していることは知られていたが、やはり作戦に幼い少女を連れて行くのは戸惑いがあったからだろう。
必要最低限しか灯されていない通路は、ほぼ暗がりに落ちているといってもいい。
そんな中で、スイは相手が分かるくらいに頷くと、踵を返して甲板への階段に走っていった。
セルピは胸の痛みをこらえながら、ただじっと、その影を見送った。
***
「――今、なにか動かなかったか?」
「ん?」
暗い森の中にぎらぎら輝く建物。
今宵はこの建物の所有者が開催する宴が行われている。
その建物は男性の侵入が固く禁止されており――。
上流階級の貴族が多数集まる建物の周りには、守衛たちが多数配備されていた。
「おい、ちょっと人を呼んで」
男の声は、最後まで続かなかった。
最後に彼が見たものは、なにかの影の揺らめきにも似た動き。そして、ひゅん、という風を切るような音。
「……なっ」
血を吐いて倒れる同僚を見たもう一人の男が、狼狽したような声を漏らすと――。
次の瞬間、口に布のようなものがあてがわれ、それが何を意味するかを理解する前に意識が途切れる。
どさり、と受身もなく地に伏した男を、クレーブは大した感慨もなく見下ろした。
横にいるテスタと軽く視線を交えて、お互いに頷きあうと、軽い身のこなしで堀を飛び越える。
門の中はもう見張りを置ける空間ではない。
曲の美しい調べが穏やかに流れる、手入れの行き届いた庭。
茂みに隠れた二人は、庭に誰もいないことを確認してから、暗がりを縫うようにして走り始めた。
塀の外には多くの見張りがいる。公にはされていないが、この屋敷の地下には上流の者たちが作り出した兵器が眠るのだ。
しかし内部に入ってしまえば警備は手薄だ。
その上、まさか他にこの屋敷の秘密が漏れているとは考えていないのだろう。なんとなく緊張感も散漫としている。
窓のところに女性の守衛らしき者が立ってはいるが、全くこちらに気付いていない。
あっけないほど簡単に、二人は屋敷内部に侵入することが出来たのであった。
***
他の者に話しかけられなかったのはきっと、リリカが横にいるせいだろう。
いい加減貴族たちの雰囲気にげんなりしながらも、ピュラは平静を装って辺りの様子を伺っている。
部屋には一杯に音楽がたゆたい、床は一面の絨毯、天井で煌くのは金属をあしらったシャンデリア。
あまりにも閉塞されたように思える空間から感じるものは、不快、と呼べるものであったろう。
心の奥底、魂の部分が既にそれを拒否してしまっているのか。
それともこの空間を認めると、今まで生きてきた自分の道が崩れてしまうような気がしているのか……。
しかしピュラにとってはどうでもよいことだった。嫌だと感じればそれは不快なのだ。
「おやリリカ、見かけない人を連れているわね」
「お婆様」
その一番高みで優雅にワイングラスを揺らしている老境を迎えた女性が、ピュラの姿を宝石の価値を見極めるような視線で眺め回す。
アテナ・リズ・ダブリス。ダブリス家の現在の家長だ。
リリカは裾の広がるスカートの先をつまんでそっと頭を下げると、ピュラを紹介すべく一歩後ろに下がった。
じろりと見つめてくる瞳。しかしピュラは全く動じることもなく、その老婆を見据えていた。
アテナは軽蔑するような視線を送りかける。
「私を目の前にして礼の一つもできないとは、どんな卑しい家柄の方かしら?」
「名乗ることもできないわね、卑しい家柄なもので」
思わず皮肉めいた言葉がでてしまう。ただ横でリリカが彼女の足を踏んずけてそれ以上の言葉を慎むように指図してくれた。
「お婆様、この方はシェリナディア・サン・マンシェリドさん。あたしの友達よ」
何時の間に友達にされたのだろうか。ただ一々突っ込むのも面倒なので黙っておく。
「まあ、お前はこんな子と付き合っているのかい。あまり粗悪な道に連れ込まれないようにね」
盛大なる罵倒だ。まるで人を見下すかのような目つき。しわが隠せない指にはめられた指輪が下品に輝く。
――これが現実にある貴族の醜態。
300年という時が作り出してしまった、救いようのない悪循環の果てにあるもの……。
リリカもまたその態度に不快を表したのだが、もう一度礼をすると、ピュラの腕をとって人ごみへとつれていった。
「素敵な歓迎だったわね」
ぼそっとピュラはそう呟く。
「お婆様、いつもああなのよ。ほんとに困っちゃうわ」
リリカは肩をすくめてみせた。致し方ない、という風にだ。
「……それにしても」
辺りを見回す。
色とりどりに着飾った女の波。派手な人から少々地味な人まで、老若さまざまだ。
「女だけ集まって何が楽しいのかしら」
「あら――」
リリカは唇に指をあてて首を傾げる。
「それはもう、色々あるにきまってるじゃない。そういうのって女同士の方がやりやすいでしょ?」
「そういうのってどういうのよ」
「だからね、情報交換とか根回しとかっていうこと。あら、そういえばあなたの妖精は?」
――ピュラの肩にいるはずだった小さな影が見当たらないことに、リリカはやっと気付いた。
ピュラは軽くリリカを一瞥して呟く。
「さあ、あの子は好奇心旺盛だからね。すぐに帰ってくるでしょ」
実は先ほどこの広間に帰ってくるときにクリュウに耳打ちしておいたのだ。
少しでも情報が集められるように、別行動をとれ、と――。
「ちゃんと帰ってくるのね、妖精って」
「当たり前じゃない」
うふふ、と不敵な笑みを浮かべるピュラに、リリカは少々怪訝そうな顔をする。
「なんでそんな顔してるのよ」
「別になんでもないわ」
彼女はそしらぬ顔で、しばらくリリカのべたついた声を聞いていた。
一方。
「……怖い」
クリュウは、そう断言した。
宇宙の真理でも掴んだような顔であった。
さきほど、ピュラはクリュウに別行動をとるように指示してきたのだ。
この人ごみの中に一人で投げ込まれるのは少々心細かったのだが、彼女はそれ以上有無を言わさぬ雰囲気で歩いていってしまう。
結局、それに逆らえないのがクリュウという妖精の性格であった。
それで、小さな体を利用してこっそり奥の方に忍び込んだはいいものの――。
「まあまあそれはそれはお見苦しいこと。あの方は一体どうお思いになったでしょうね」
「いいえ、あなたほど目を覆うようなことはしてませんわ。だってあの方もわたくしを見て微笑んでくださったのよ」
「あなたは社交辞令と本気の違いも分からないのですわね、お可愛そうなこと」
「負け惜しみはそれこそ見苦しいですわよ」
「うふふふふ」
「ほほほほほ」
「……」
冗談抜きで、恐ろしかった。
そこらの化け物など、それこそ目ではない。
とにかく、こんな会話を聞いているよりは、他の情報を集めなくてはならなかった。
むしろ、一刻も早くこんな場所を離れてしまいたかった。
人の影に隠れるようにして更に高みへと向かう。
しかしそんな彼がすぐに立ち止まったのは、とある一つの会話が耳に入ったからである。
「ねえ、スイ・クイールという人を知っています?」
――はっとして、声の方向を向いた。
貴婦人たちが数名で話し合っているのだ。
「スイ・クイール? 聞いたことありませんわね、クイールといえばあの孤高の銀髪鬼の……?」
「ええ、その人の弟らしいですわ」
「まあ。あの剣豪に、弟がいたというの?」
心臓の音が跳ね上がるのが自分でもわかる。
スイの存在はほぼ抹消されていて、貴族たちですら知る者は少ないはずだ。
なのに、今更どうして――?
「その弟が、貴族に恨みをもっているそうなのです」
「何故そんなことを?」
「なんでも、故郷が焼かれたのは貴族の軍の到着が遅かったからと、恨んでいるらしくて――」
違う、と叫びたいのをクリュウはすんでのところでこらえる。
スイは一度だって恨みをもったことはない。
もし恨んでいるとすれば、それは――自分自身、だ……。
周りに起こることに彼は何の感慨も抱くことはない。
ただ、その中にみるみる流されていく自分、なにも出来ない自分を、なじり、傷つけ、そうして一人で黙っている……。
「それは恐ろしい――、でもどうして3年後にもなった今、そんなことが分かったのですか?」
「ディスリエ大陸南部のエスペシア家に、賊が入った噂はご存知で?」
「ええ、知っていますが……」
心の表面をえぐられたような気分さえ覚える。
そういえば、あれはもう一ヶ月以上前のことになるのだろうか。
「そこで、彼を見たという者がいるのですよ」
とくん、と鼓動が一つ波紋を呼んだ。
「最近は平民たちに不穏な動きが見えるとよく聞くではありませんか。怖くて夜も眠れませんわ」
――貴族たちは、水面下での動きを察知している。
しかしヘイズルたちがあぶりだされないのは、まだ決定的な証拠を掴まれていないからだろう。
ただ、貴族たちにそんな意識が広まっているのは確からしかった。
***
屋敷に忍び込んでいるのは二人のみであった。
ヘイズルからはスイも連れて行くようにと指示されてあったが――テスタはそれを蹴ったのだ。
クレーブも、そのことに関しては何も言わなかった。
それはテスタの潜在意識に植え付けられたもの、他人にどうこうできるものではない……。
遠い遠い記憶。彼の心に焼き付いて離れない記憶。
そう、彼は『人を信じることができない』のだ。
ひとり、ふたり。クレーブは離れた向こうの気配を探って、腰の曲刀をすらりと引き抜いた。
人は殺すな。そう前の船長によく言われたものだったが、今回の作戦はスケールが違う。
失敗は、許されないのだ。
ひどい矛盾だと自分でも思う。
世界の平和のために命を奪い、個人とその家族の平穏を崩すなど――。
しかし所詮、人が一人死のうと二人死のうと、この世界にしてみればちっぽけなものだ。
それこそ人間ではない、ほんの小さな生命など毎秒の速度で死に続けている。
……ただ、それと共に存在する命の重さは、個人にしてみれば世界と同じくらいに、重い。
どうして、世界は。
――クレーブは思考を打ち切った。今はそんなことを考えている暇はない。
二刀流にした曲刀を構える。ふっと息を吐いて、身を軽くした。
屋敷内は女性のみの出入りを許可するもう一つの理由。
それが、この『地下』にあるものを隠すためだ。地上と違い、この地下には男たちがたむろしている。
クレーブの影が、瞬間――消えた。
ひとり、ふたり。
確かな手ごたえを感じて、次の瞬間には足で蹴り飛ばす。
少しぬかったか、わずかに血痕が床についてしまったが、赤い絨毯にはあまり目立たない。
亡骸は柱の影に飛ばされていた。しばらくは気付かれないだろう。
クレーブは兵士がつけていた鎧を素早く外し、丁寧に血をぬぐってから自分の身にまとった。
そうして通路の暗がりに目をやって、歩き出す。
わずかにだが鉄の臭いがした。彼としても見るのははじめてのものだ。
ヘイズルから依頼された品物、その正体は少数の者しか知らない。
『それ』は貴族にさえも知れ渡らないようにされているものなのだ。
ウッドカーツ家の最新鋭の機工師たちがその命により作り出した、悪魔の兵器。
敵にすればそれ以上厄介なものはなく、そして味方につければ恐ろしく頼りになるもの――。
ぴりっと心の表面を電流がかすめる。自分の知る範囲を超えたものに対する戦慄か……。
しかし止まるつもりはない。
このままこの道を歩いていくと決めたのだ。
自分の意思で、あの船に乗り込んだ。
ただ世界を作り変えたいと、その一心で、幼いながらに……。
そのときからなにひとつ変わっていないというと、それは嘘になる。
しかし、ここまで来たからには、もう後戻りできる場所もない。
だから進むのだ。
信じているのだから、あの船の未来を。
そして、あの幼い船長を――。それだけで、それだけで、十分だった。
暗がりにそって、灰色のローブをまとった影がひとつ。
クレーブと反対方向をテスタは一人、歩いていた。
連絡で指示された作戦を無視し、こうして歩いている自分には笑みさえ零れる。
自分の業がどれだけ愚かなのだと分かっていても、心がそれを許さないのだ。
どこかが悲鳴をあげる、彼の瞳と同じ色をした記憶に。
しかしそんなときに、胸の上の宝石が淡く語りかけてくるのだ。
お前には力がある、と――。
歳からしてみれば幼く小さい体は、存在感を消してその道を歩いていく。
前方に兵士が立っていた。しかしまったくこちらに気付いていない。
静々とそちらに向かっていく。空気には一点のよどみもない。
兵士はこちらに背を向けたまま。灰色の瞳はそれ以上ないくらいに澄み渡って――。
――ふっと風がふいたのを感じた兵士の意識は、そこまでであった。
口元にあてられた匂いに、そのままどさりと倒れこむ。
少年の手には薬をしみこませた布が一枚。
本当なら宝石の力を使えば一瞬なのだけれど――、しかし、そのとてつもない力で見境もなく人を殺していたら、いつか自分は狂ってしまうと思うから。
歩き出そうとした。
――しかし、少年の足は動くことがなかった。
「そこまでだ」
低い声。
振り向くと、大柄の兵士がこちらに刃を向けている。
その切っ先が、彼の喉元に。
しかしテスタは何の感慨もなく男を見上げる。
「おやおや……ガキが、どうやってここに忍び込んだんだ?」
そんな少年の態度が気に食わなかったのか、兵士は虫唾が走ったように顔を険しくさせる。
「ここに何があるのか知っているのか」
「……」
口を閉ざしたまま、テスタはその顔をじっと見つめていた。
まるで感情もなく、観察するかのように。
「答えろ」
いらついているのか、切っ先がわずかに喉をかすめた。
ぴっと赤い筋が入ったかと思えば、血が一滴の流れをつくって喉元を汚す。
「誰に命令されてここに来たんだ」
目の前には灰色のローブをまとい、顔を半分近く隠すほどのフードを被った少年。
その下からは透き通った灰色がこちらを見据えている。
「は、痛い目を見なきゃ口は割らないか、下衆め」
蔑みの視線を送ってもぴくりとも動かない。
「他に何人いやがるのか、答えろ。てめえらみたいなクズはまとめて叩き斬ってやる」
そこではじめてテスタの眉が僅かに動いた。
瞳が小さく揺らめく。
まるでそれは子供の瞳であった。純粋で無垢で、
そして、残酷な。
「庶民ぶぜいが調子にのりやがって……貴族様に逆らうとどうなるか分かってるのか?」
灰色の瞳は無感動に兵士の瞳を見つめる。
卑屈な色をしたその表情を。
なにかを忘れてしまったかのような、その顔を。
まるで、あのときのひとびとのような。
心は震えもしない、ただ一点の濁りもなく静まり返っている。
「跪いて無様に命乞いしてみろ」
負の笑みを浮かべた兵士。
なにも感じることの出来ない自分の心。
まるで瞳のように透明な心。
気がつけば、テスタの頬を涙が伝っていた。
全く顔はそのままに、ただ瞳から涙がぽろぽろと零れ落ちる。
しかしテスタはそのことに気付く様子もなく、ふっと顔をあげてもう一度兵士を見上げた。
そうすると、兵士からもテスタの顔の全貌が見えるようになる。
そして、頬を伝う透明な涙さえも――。
「ぼくたちのことはなにも教えられない」
泣いているというのに、全く震えを知らない声が放たれた。
兵士が怪訝な顔をする。目の前の少年の顔に、視線が吸い込まれていく――、
「それから」
テスタは、言っていた。
「ぼくの仲間を侮辱するひとは許さないよ」
――ぱうっ……
胸の辺りから飛び出した光の柱が、兵士の胸を貫く。
兵士は何かを言おうとして、しかしそれも叶わず、血を吐いて、倒れた。
辺りにまた、静寂が戻る。
立っているのは、一人の少年だけ。
彼は自分の目元に指を軽くあてた。
そしてそれを離して、指についた透明な液体をまるで他人のもののように眺める。
「……あまりかっこよくないな」
ぽそっと呟いて、そのまま目を一気にぬぐった。それだけで彼の顔は元通りになる。
身を翻して走り出した。遠くへ、もっと遠くへ。
テスタの姿は静かに暗がりへと消えていった。




