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Bitter Orange, in the Blaze.  作者: 紅崎ナヤ
四.あたたかな雨
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047.北より来た者達



 ――ぱぁぁんっっ……!!


 たった一瞬の出来事だった。

 冷たい空気に、音がはじける。

 セルピの小さな体はいとも簡単に吹っ飛ばされて、地に叩きつけられていた。

「フィープ様!」

 イシュトが駆け寄るが――、彼女は全く動じていないかのようにすぐに体を起こして父親を見上げる。

 大きな手から繰り出された衝撃は、頬に鋭い電流を走らせていた。

 父親――エディルの瞳が、静かな怒りに燃えている。

「この愚か者が! 自分のしたことの意味がわかっているのか!?」

 唇を噛み締めて見上げるセルピ――否、フィープの瞳に宿る光を腹立たしく思ったのか、更に声は荒くなる。

「どれだけ私の顔に泥をぬれば気がすむのだッ! いや……私だけでない、エスペシア家全体がお前一人によって名誉を傷つけられているのだぞ!!」

 イシュトが支えようとするのを拒み、セルピは一人で立ち上がった。

 美しい黒髪が風に静かにたなびいている……。

 どれだけ虐げられようと黙って耐える聖女のような強さが、そこにあった。

 ただ、それでエディルの激しい叱咤が止まるわけでもなかったが……。

「たったお前だけ……お前だけのお陰で一家が潰れてもいいというのか? 何十人というエスペシアの血を受け継ぐ者が、明日の食料にも困る状況になっても、お前はそれでいいというのか!!」

「フィープ様……」

 怒声に負けてしまいそうな小さな声で、イシュトの囁きが聞こえた。

「どうか、お戻りください……。今、あなた様は病に伏せっているということになっております。今戻れば、なんの問題もありません……」

 その瞳には哀しみが色濃く滲み、彼女の心に痛みを与える。

 茶がかった銀髪、わずかに煌く髪。森のような緑をした、痛いほどに優しい瞳は今は歪んで――。

「私に行き届かぬ点がありましたら、なんだっておっしゃって下さい。いえ、私がお気に召さなかったのなら、代わりの者をいくらでも用意致します。だから……どうか……」

「まえぶれもなく屋敷をでたことは謝ります」

 イシュトが、言葉に詰まる。

 それだけ重い、それでいて鋭い刃のような声が、少女の唇から紡がれていた。

「しかしわたくしは、――後悔はしていません」

「フィープ」

「聞いてください。今はわたくしの話す番です」

 なめらかな言い方。それは彼女がその口調に慣れていることを示す。

 そうだ、この幼子は幼い頃から、こんな世界で生きてきたのだ……。

 今にも潰れてしまいそうな重みに、必死で耐えて、その二本の足でしっかりと大地を踏みしめて。

 心が削られるような激痛に悲鳴をあげるのにもかかわらず、彼女は揺るぐこともなく言っていた。

「地下図書館の資料で、わたくしたちの記録を見ました」

 エディルの顔が、……わずかにたじろぐ。

 セルピの目がすいと細くなった。


「わたくしのお母様は、わたくしを生んだ直後に亡くなったのではないのですね。――殺されたのですね?」


 イシュトの顔が、色を失っていた。

 その瞳は、セルピしか映していない……。

「それも、エスペシア家の者、――お父様の配下の者に」

「……だからなんだというのだ」

 ふい、とセルピは笑った。しかし背中を見ているピュラたちにはその顔は見えない。

 少し苦しそうな、フィープとしての微笑みを――。

「理由は考えればわかります。お母様は身分は高かったけれど、教養があるとはいえなかったと資料にありました。そんな人を、エスペシア家の者として置いておくわけにはいかなかったのですね」

「だがお前は出来た子だ。お前ならこれからエスペシア家の顔として、しっかりと継いでいくことが出来るはずだ」

「お父様」

 セルピは、言った。

 揺るぎのない瞳で。幼く見えるのに、強いひかりを湛えた大きな瞳で。

「もしわたくしが『出来ない子』であったら、お父様はわたくしを始末しましたか?」

 彼女の目はそれと同時に言っていた。

 ――自分は一家の駒でしかないのでしょう、と。

 エディルはゆっくりと視線を地に落としてから、また彼女の方に戻した。

 しかし、その冷たく強い瞳は変わらない。セルピと同じほどの威圧でもって彼女を睨みつける。

「……だから家をでたのか? そんな家にいる価値がないから、と?」

「それもあります」

「フィープ、なら今度はこちらから言わせてもらおう」

 エディルは自分の子を静かに見下ろして、言葉を紡いだ。

 その声は、先ほどの叱咤とは変わって静かな声だったが、だからこそ一家を担ってきた強さと威厳を感じさせて、セルピの顔を険しくさせる。

 頬に触れる夜の張り詰めた空気が、冷たいのに熱い――。

「お前は、現実というものがどういうものだか分かっているのか?」

 ひとつひとつの言葉は刃物のように鋭く、北の寒さのように冷たく、氷の刃が喉元につきつけられているような錯覚に陥らせた。

 セルピは奥歯を噛み締めて、なんとか目をそらさずに彼を見つめる。

 しかし、恐怖に押しつぶされそうになるのも確かなものだ……。

「確かに貴族社会は時に残酷だ。しかし、全ての事柄に理屈をつける必要はあるか? ……いや、そんな必要はない。理屈なしで、300年も続いてきたこの世のシステムに従わなければならないんだ。そうしなければ生きていけない。それは仕方のないことで、お前のしていることは、ただ逃げていることに等しい」

「仕方なくなんかありません。わたくしは……」

「この世のシステムにたった一人で抗えるとでも思っているのか?」

 言葉を詰まらせたのは、セルピの方だった。

 あまりに大きすぎるものが頭を駆け巡る。眩暈がして、足元が狂いそうになる。

 目の前の現実。それは受け止めるには大きく、――大きすぎて、体の一つ一つがついていけない。

 歩いていけると思った体が、動かない……。

 やはり自分の全てをぶつけても、この世はなにひとつとしてかわらないのだろうか――。

 ふいと過ぎった思考は、追い払おうと思ったが既に遅く、彼女の精神を一気に萎えさせていた。

 瞳が揺らぐ。風に髪がなびいて、首筋にぞくりと寒気が走る。

「現実を受け止めろ。お前には受け止められる強さがある。お前にはなんだって出来る。後にエスペシア家のすべてをお前に譲ることになるだろう。そうなったら、お前は駒ではなくなる。一人の指導者になるのだ」

 大きく骨張った手が、セルピの肩にかけられた。

「それまでの辛抱だ」

 声は、いつのまにか諭すような声に変わっている。

「フィープ様、戻りましょう……。皆、あなた様をお待ちしております」

 イシュトが横から恭しく頭をさげる。

 優しくゆったりとした、心の落ち着くような声で彼は囁いた。

「私も、フィープ様が帰られるのを日々心待ちにしておりました」



 ――とくん。



 私も、フィープ様が帰られるのを、


 日々心待ちにしておりました――。



 その言葉が届いた瞬間、なにかの意識が弾けた。

 思考が飛ぶ。記憶に刻まれた膨大な情報が、壊れたようにぶちまけられる。

 あの北の地域の情景。凍てつくような寒さ。

 花。たくさんの花。静かな屋敷、緋色の絨毯。

 雨が振った、そう雨が降っていた――、

 そして、イシュトの優しい微笑み、

 あのときに誓ったこと、そして祈ったこと――。


 この命を、人生を賭けて、願ったこと――。


 セルピは俯いて、拳を痛みを感じるほどに握り締めた。強く、強く……。

「…………ない……」

「フィープ、どうした?」

 肩が震える。それは恐怖か、それとも彼女の意思が、その強さに体を震わせているのか……。

「……かない……」

 エディルが手を離した瞬間、彼女は体で叫んでいた。


「わたくしは行かない!!」


 走ったわけでもないのに、息があがっていた。

 それでも彼女は首を振って、目の前のものを拒絶する。

「わたくしが欲しいのは地位ではない……! 駒という立場から逃げたくてここまで来たのではない! わたくしはただ、本当にこの世は貴族と平民にわかれてしか成り立たないのか知りたいだけ……!! 貴族も平民も、人間であることに代わりはないでしょう? なのに何故身分などなくてはならないのか知りたいから……身分のない世界を実現させたいから……!!」

「だからといって一族を滅亡に追い込む気か!!」

「明日をも知れぬ生活になるなら、それは平民と同じことです! 彼らだって今日の食事にすら必死になっている……」

 ふい、と彼女の瞳に悲愴が垣間見えた。

「たくさん、たくさん、見ました……。苦しんでる人々、貧しくて、それでも生きてる人々……。誰からも忘れ去られて、それでも生きようとする人……」

 怒りを超越した感情が溢れて、言葉になる。

 脳裏に浮かぶのは旅でみた情景。

 世界はこんなにも美しく輝いているのに、町には落ちぶれて死んでいく人が数多にいる……。

 そして、そんなことも知らなかった自分がどうしようもなく苦しく、醜い――。

「わたくしはそんな人がいるのにのうのうと生きていられない……! 彼らを救いたい……。そのためなら、わたくしは一族が落ちぶれようと構いません。富と名誉など、欲望を生むものでしかないから……」

「仮に私たちが落ちぶれて平民同然になったとしよう。しかし、そうすればまた別の者がこの地位につくだけだ! なにも変わることはない!!」

「それでもわたくしは……!!」

 小さな体は熱を帯びて、その白い頬は紅く染まる。

 彼女は一歩も怖じることなく強い言葉を放っていた。


「わたくしは、奇跡を信じます……」


 ――必ずいつか、誰もが平等に幸福を得られる時がくるのだと――。

 イシュトがもどかしそうに首を振っていた。

 エディルも険しい顔でセルピを見つめる。

 少しの間、双方は対峙したままじっと動かなかった。

 この大陸の澄んだ空気だけがぴんと張り詰めて、その様子をじっくりと観察している。

 そして、威厳を漂わせる髭を蓄えた口が、ゆっくりと動いた。

「お前の言い分はよくわかった」

 重々しい口調は、まるで裁判にて最後の判決が言い渡されるようにも思わせる。

 そしてその判決は、下された。

「だがお前には必ず家に戻ってもらう。お前は家にいなくてはならない。お前が帰らないといっても、帰ってもらう。……どんな手でも使ってだ」

 セルピの瞳がぴんと張って、ショールを掴む手が戦慄く。

 エディルの目が細くなり、セルピの瞳を覗き込む……。

「そうだ。お前には連れがいたろう? それらを利用するかもしれない、ということだ……」

 脳裏に、それぞれの顔が浮かんだ。

 彼らの笑顔が、今は痛い……。

 背中が凍ったかのように冷たい。体中の体温が消失して、氷に閉ざされたように……。

「エディル様……」

「イシュト、行くぞ」

「……」

 セルピの方に振り向いたイシュトの顔は、悲愴と呼ぶにふさわしかった。

「我々はナチャルアに行く。6日の猶予をやろう、ゆっくり考えることだ。次の町グリムリーズの東に位置する別荘に滞在する予定だから、来るならそこに来るがいい。時限を過ぎれば……わかっているな?」

「……」

 なにもいわないセルピにエディルは重々しく頷くと、静かに踵を返す。

「フィープ様……」

 エディルの後ろについたイシュトが、悲しそうな目でこちらを見ていた。

 辛そうに、辛そうに――。

「門を閉めておけ」

「は、はい……」

 膝をついていた門番にエディルは指示すると、一度だけ振り向いて呟いた。

 ただ前だけを見つめるセルピに向かって、静かな声が発せられる。

「残酷に思うかも知れん。だが……」

 セルピはゆっくりと顔をあげて――その目を、見た。

 自分と同じ、朝の泉のように静かで冷たい色の瞳を――。


 ふいっと視線を外して、暗がりにむけて呟く。

 冷たい現実という言葉を。


 小さな小さな、幼子に向けて――。



「これがこの世のシステムだ」



 ***



 その会話は、時間にしたらたったの数分の出来事だったかもしれない。

 しかしそれは、彼女たちにとって千秋の時を過ごしたかのように思えていた。

 そして門が閉まった後も一人で佇んでいるセルピと同じように、ピュラたちもその場から動けないでいた。

 誰もが押し黙って、視線を地面に落としながら、聞いたことを思い巡らしていた。

 彼女の強い威圧をもった言葉たち。凛とした態度。気高い雰囲気。

 いつもの笑顔の中には、これだけのものが隠されていたのだ……。

 そして、彼女の前に高々と立った、現実という壁。

 押しつぶされそうになって、それでも抗う彼女の姿には痛々しささえ覚える。

 今の後姿もまた、苦しそうで……。

 そのときの彼女は何を考えていただろうか。

 過去を想っていたろうか。

 それとも現在に起こったことに想いを巡らせていたろうか。

 また、これからのことを考えていたのだろうか。

 あるいはその全てか……。

 しかし全てにいつしか終わりがくるように、セルピはおもむろに顔をあげると、踵を返して歩き始めた。

 瞳をわずかに伏せて、暗がりに消えていくように――。

 淋しい後姿は小走りになって、遠くへと行ってしまう。

 ふっと精霊が消えてしまうかのように、夢のまた先にいってしまうかのように。

 ピュラたちは、その後姿を見えなくなるまで――否、見えなくなってもその暗がりを見つめていた。

 また、沈黙が落ちる……。

「……なあ」

「…………なによ」

 かろうじてかすれた声がでたピュラは、視線を暗がりにおいたまま返事を返す。

 スイもまた、ピュラと同じ方向を向いて、暫くの沈黙の後、呟いた。

「……このままセルピが宿に戻ったとしたら、俺たちが聞いてたことがばれるぞ」

「そうね……」


 ……。


 ……。


 背筋が、みるみる氷結していくのがリアルにわかった。


「…………え?」

 ピュラが笑ってごまかそうとして、……完全に失敗していた。

 クリュウも血の気をさぁっと引かせ、顔をひきつらせる。

「……や……」

 彼女は、言った。

「やばすぎるわ……」

 瞬間に、走り出していた。

「わわ……ピュラ、待って……」

 ちなみに門番に気付かれないようにしているから、随分と小声で話している。

 走るのも音をたてないようにするから、速度が落ちてしまうの…は必然だった。

 屋敷の明かりが届かなくなった辺りからは、疾走が始まった。

 しかし辺りは暗い。あまりに暗すぎて、元来た道がわからない。

 スイのランプは周囲をわずかに照らすのみ。道の構造がわかるはずもなかった。

 ――つまり、迷ってしまったということだ。

 既に、セルピの話どころではなくなっていた。

「ちょ、ちょっと待って! どどどどっち? 宿はどっちだったっけ?」

「知らないよ……! この町は入り組んでてよくわからな――」


 ――ごちんっ!!


 クリュウは暗闇で見えなかった壁に盛大に激突する。

「大丈夫か?」

「だめかも……」

「諦めちゃダメよっ! とにかく走らないと……」

 話が完全に噛みあっていなかった。

「たぶん、こっち! この道は見たことがある気がするわ……」

 宿に灯りが一つでも灯っていれば、クリュウに上空から見てきてもらえるだろう。

 しかしこの町は、この時間に灯火を灯すことがない。光があるのは貴族の館くらいだ。

「だ、大丈夫よ……! きっとこの分じゃセルピも迷ってるわ。諦めないでいけば辿りつけ……」


 ――べたんっっ!!


 ピュラは、壁と仲良くなっていた。

「大丈夫か?」

「大丈夫じゃないわ……」

 これ以上情けない話はないといえた。

 ピュラは壁伝いにずるずるとずり落ちていって、その場に座り込む。

 本気で泣きたくなっていた。

「本当に冗談じゃないわ、ここは一体どこだっていうのよ……」

「あ……」

「あ、じゃないわよ。この分だと朝までに帰れるか――」


 言葉が、途切れた。


 体温が欠落していくのを、感じる……。


 聞きなれた声に、顔をあげた。

「ピュラ……?」

 聞きなれすぎた声。

 幼く、透明感のある、声。

 体中の活動が停止して、……時が止まる。

 瞳がはじけて、座ったまま、彼女を見上げる。

 クリュウもスイも、絶句してその姿を見つめていた。

 白い服に淡い水色のショールをかけ、普段結い上げている髪は風になびかせて。

 その姿はまるで、たった今この地に舞い降りた雪の精のような……。

 ――そんなセルピの姿が、ランプに照らされていた。

 セルピもまたランプを手にしたまま、ピュラたちを前に呆然としている。

 ピュラは次の言葉が選べなくなって、耳が痛くなるような静寂の中で、彼女の大きな瞳を見ていた。

「……みんな」

 幼いのに辺りを威圧する力を持つ声が、心に容赦なく突き刺さる。

 宿から抜け出して、全てを聞いていたと知った彼女は一体どうするだろうか。

 泣くのだろうか、怒るのだろうか……。

 そこには謝れるような雰囲気も漂っていなかった。ただ、全ての開口を禁止されているように思えた。

 セルピは暫くの沈黙のまま、彼らの姿を見渡して――。

「……聞いちゃった、んだね……」


 ――笑った。


 いつもの笑顔はそこにはない。

 少し困ったような、少し哀しそうな、……辛そうな、顔。

 泣き叫んで怒ってくれた方が、まだ傷つかなかったかもしれない。

 なのに彼女は、そんな笑みを浮かべて囁いた。

「ごめんね……ごめんなさい……」

 胸においた手を握り締めて、うつむきがちに彼女は続ける。

「ずっと黙ってて……ごめん……いつだって迷惑ばっかかけて……ごめん、ごめんね……」

 絞るかのような声が、ひたすら弱々しく紡がれる。

 その声に、胸が痛む……。

「……ボクの本当の名前はフィープ・セル・エスペシア……、エスペシア家の家長の子で……、」

「セルピ、もう話さなくていいわ」

「ううん」

 彼女はふるふると首を振って、また笑った。新月に近いほどに欠けた月のように。

「話すよ。話さなきゃいけないんだ……」

 小さな小さな、消え入りそうな少女は、静かな言葉を空気に放っていた。

「もう、逃げられないところまできちゃったから」


 ――また、胸が痛む……。



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