046.暗がりに…
夕食は、それぞれ無言だった。
かちゃかちゃと食器が鳴る音が、妙にうるさく耳に聞こえる。
辺りは談笑する人々がたむろしていたが、その声すら遠い果てのもののように思えた。
ピュラはさりげなく横の少女に目をむけるが……、淡々と食べ物を口にいれる作業を繰り返している姿に、心の中で溜め息をつく。
家出してきた。それ以上のことは彼女自身も語らなかったし、誰も聞こうとはしなかった。
むしろ、できなかったといったほうが正しいかもしれない。
小さな彼女の姿は、あまりにも普段とはかけ離れた寂しさを湛えていて、そんな姿で過去を語る姿などを見たらこちらが辛くなってしまいそうだったからだ。
広場でセルピをフィープと呼んだ彼らはおそらく貴族だろう。つまりセルピは貴族の出ということだ。
エスペシア家がこちらに来ているというのだから、おつきでいくつかの貴族の家が来ていてもおかしくはない。
しかし、だ……。
エスペシア家がナチャルアを狙っているということを地下水路で聞いて、彼女は同行することを宣言した。
つまりそれは、家出してきた家の者と会う確立が格段に高いことを示す。
なのに、それを知っていて、わざと飛び込んできたのか……。
もしそうだとしたなら何故、あのときに本名を呼ばれて逃げたのか――。
考えていたら、気がつけば皿の上のものが全てなくなっていた。
なんだか食べた気がしなかったが、これ以上食べたいとも思わなくて、ピュラはカップの茶に口をつける。
あたたかな茶は、体のみを無駄に温めている――。
「ごちそうさま」
セルピはぽそりと小さく呟いて、席をたった。
いつもおかわりをして、財布の中身を気にするピュラと論争を繰り広げていたことが、まるで夢のように思える……。
彼女の食事には、半分も手がつけられていなかった。
「もう食べないの?」
「うん、おなかいっぱいだから。先に部屋にいってるね」
セルピは歪むように笑って、食堂を去っていった。
歩いていく彼女は振り向くことはおろか、転ぶこともない。
彼女が去った後も、テーブルには長い沈黙が落ちていた。
今は一人にしてやった方がいいだろう。ピュラは頬杖をついたまま、視線を窓の外に向ける。
スイの方は、立てかけた剣の柄をしきりに指で叩いていた。
クリュウもばつが悪そうに目をふせたまま、その瞳にテーブルの中央でゆらめくロウソクの炎を映しこんでいる。
いつになく時は、その針をゆっくり、ゆっくりと動かしていた。
誰からともなく、溜め息が零れる――。
「別に、だからどうってわけじゃないわ」
ピュラは視線を窓の外に向けたまま、呟いた。
独り言といった方が正しいかもしれない。しかし自分の思考を実際の言葉にすれば、幾分整理はつく……。
「あの子が貴族だろうがなんだろうが、仲間であることに変わりはないのよ」
誰も返事はしなかったが、誰もがその言葉を自身の心の中に巡らせていた。
「でも、あの子があんな顔するのは、きっと私たちにそのことが言えなかったからだけじゃない。そうよ、きっとまだなにかあるわ」
「なんで家出したのに、また家族に会うような場所に来たんだろう……」
夜の食堂はいささか騒がしい。
その片隅で、静かな空気と共に彼らは時を過ごす。
スイが、ずっと考えこむようにして、指先だけを動かしていた。
「わからないわ。そこがわからないのよ……」
力になってやりたいと思う。
彼女のあのような表情など、願わくば二度と見たくはない。
屈託なく笑って、転んで、泣いてまた笑うのが、彼女なのだから。
しかし、もしそれが仮の姿で、あの淋しい姿が本来の彼女なのだとしたら――?
ピュラは一人でかぶりを振った。
そんなことを考えたくは、なかったからだ……。
気を紛らわすために、また茶に口をつけた。
先ほどから茶ばかり飲んでいるからか、気分が優れなかったが――それでも、飲んだ。
また、沈黙がおちる。
それぞれ時折溜め息をつくだけで、もう誰一人として言葉を発するものはいなかった。
セルピを疑う気はない。
彼女の正体が何であれ、彼女は旅の仲間であることにかわりはないのだ。
しかし、――まだわらかないことが多すぎる。
なのに本人からそれを問いただすことも出来ない――。
ピュラは唇を噛んで、少し黒ずんだ床をじっと見つめていた。
***
全てが寝静まった、暗闇の時間。
その町は全ての音という音が消失したかのように、暗がりに落ちている。
灯りがついているといえば、大きな貴族の屋敷くらいだ。
町の一角にある宿も同じように、その大きな姿を暗闇に隠していた。
ただ、その中でも目を開いて、じっと時を待っている者もいたのだが――。
――セルピは、そっと起き上がって窓の外に顔をむけた。
もう夜も一番深い時間だろうか。町に人通りはなく、全てが眠りにつく時間だ。
その首を反対側にむけて、ピュラが寝ている方を見た。
隣のベットで、彼女は静かな寝息をたてている。いつもころころかわる表情が、まるで嘘のようだ……。
(ごめん、ね……)
唇だけ動かして、心の中で呟いた。
脳裏にうかぶ、フローリエム大陸で出会ってからの数ヶ月の楽しかった旅が、遠い―――。
いかなくてはならない。
迷惑をかけるわけにはいかないのだ、これは自分の問題なのだから……。
この夜に全てを終わらせよう。全てを断ち切ってしまおう。
そうして、明日の朝はまた笑顔で迎えられるように、しよう――。
ぎゅっと拳を握って、横の机のショールを肩に羽織った。
着替えてしまおうかとも思ったが、それでピュラを起こしてしまっては本末転倒だ。
髪も結わずに背中までなびかせたまま、彼女はベットから降りる。
みし、と小さな音がなって肩を飛び上がらせたが――、ピュラが起きていないことを確認すると、胸をなでおろした。
瞳を一度閉じて、大きく呼吸してから、もう一度開く。
その瞳に宿るものは、今までにない強い光。
分厚い布で作られた白い寝間着に、肩の淡い水色のショール、透き通るような真っ白な肌、そして艶のある長い黒髪を背中までおろした彼女を例えるとしたら、それは雪の精というのが正しいだろうか……。
この南の大地にそんな言葉は似つかわしくないかもしれないが、彼女が雪のように儚いものを秘めているのは確かだった。
少女は胸の痛みに耐えるように、呼吸を整える。
心臓の音だけで、胸が張り裂けそうだった。
(ごめん……なさい……)
もう一度、呟く。
しかし、泣かない。
もう泣くわけには、いかないのだ……。
血が滲むほどに唇を噛み締めて、小さな少女は部屋を出て行った。
行き先は決まっている。自分の知り合いがいる家。きっと大きな貴族の館だろうから、すぐにわかるだろう。
これは、自分のした選択。
変わらない、現実。
逃げてはいけない、立ち向かわなければ――。
そう思うと自然に足が動いた。大丈夫、今なら言えるはずだ……。
セルピはそっと部屋を走り去った。
目指すは、過去を断ち切るための場所。自分があるべきだった場所。
出て行ってから数秒後に動き出した、部屋の中に気付くこともなく――。
***
ピュラは、足音が遠のいたのを確認してから、音もたてずに起き上がった。
きろりと少女が出ていった扉に目をやって、細める。
「……まーったく、一人でなにをしでかそうとしてるのかしら」
ぼりぼりと頭をかいて、あくびを一つ。
こういうこともあろうかと思って狸寝入りをしていたのだ。
(なんでも自分でやろうとするんだから……少しは頼りなさいよね)
心の中で愚痴を呟きながらも手早く着替えて、腰のナックルを確認してから素早く部屋の外にでる。
と思った瞬間、彼女は口を半開きにして止まっていた。
部屋の外で、スイとクリュウが待っていたのだ。
今までは予想通りだったが、これは完全なる不意打ちだった。
ピュラは化け物に遭遇したかのようにスイとクリュウを指差して口をぱくぱく開け閉めする。
「あ、あんたたちも……、起きてたの?」
「ああ」
「さっき、部屋をでてった気配がしたから……」
二人ともきちんといつもの服に着替えている。
スイは剣をしっかりと携帯し、手にはランプを持っていた。
準備は万端ということだ。
どうやら考えていたことは同じようだった。
――セルピを想う気持ちは皆変わらないということだ。
そして今は、真実を知る必要がある。本当の彼女の姿という、真実を。
ピュラは呆れ混じりに赤毛に手をつっこむ。
「ったく、仕方ないわね……」
「とりあえず僕が見てくるよ。セルピの行くところが場所でわかったら知らせにくるから。三人でいったら気配でばれやすいでしょ?」
「ええ、頼んだわよ」
クリュウは頷くと、一々玄関からでるのが面倒なのか、宿屋の窓から飛び出していった。
スイとピュラは一度一階に下りて、玄関から外にでる。
「わ、夜は冷えるわね……。あの子、風邪ひいてないかしら」
自分の体を抱きしめるようにして辺りを見回す。
辺りは静寂に包まれていた。都会ならまだしも、ランプの油さえ貴重とする町では、夜など寝るためだけにあるようなものなのだろう。
そこに落ちているのは、耳が痛くなるほどの沈黙と暗闇。
冷たい風に髪をなびかせながら、スイは暗闇の先を見つめていた。
こういうときの彼は、話題を唐突に持ち出す。
スイはなにの前触れもなしに、言っていた。
「クリュウには言ったんだが……」
「え、なに?」
幾分小さな声に、ピュラは首を傾げてスイを見上げる。
瞬間、どくりと胸が波打つ。
何だろうか、なにかの直感からくる胸騒ぎ――。
「あいつらはセルピをフィープと呼んでいた」
「ええ、それがなにか?」
スイの海と同じ色をした瞳は、暗闇にその色を深め、そしてピュラの橙色の瞳を見つめていた。
思わずピュラはその強さに吸い込まれそうになって……、同じように強い瞳で彼を見返す。
そうしていれば自分を保っていられると思っていた。
この胸騒ぎに潰されないように、強く拳を握り締める――。
彼はまるで呪文でも唱えるかのように、言った。
たったひとつ、変わらない現実を。
「フィープ・セル・エスペシア」
「え、それはあの子の本名? へえ、随分立派な名前――」
最初は元気だったみるみる言葉が喉に吸い込まれて、最後は途切れていた。
どん、と何かに押されたような衝撃が彼女を襲う。
呼吸さえも忘れ、息を詰まらせて。
呆然と、呟く――。
「え、エスペシア――?」
今度こそ、スイの瞳に彼女は呑まれていた。
眩暈のような感覚に、足元が一瞬ふらついて一歩二歩と僅かに動く。
スイの目がゆっくりと細くなって、――視線がまた暗がりにやられた。
「エスペシア家の、家長の一人娘の名前だ。聞いたことがある」
――あなた、両親とかは?
――今は、会えないんだ。
「うそ……」
知らず知らずに、そう呟いていた。
彼女の屈託ない笑顔が脳裏に走って、消える……。
「な、なんでそんな大切なことを先にいわないのよっ」
「誰がきいてるかわからない食堂で、そんな名前をだすわけにはいかないだろう」
「う……た、確かにそうだけど……」
いつもの常識の許容範囲をはるかに超えた真実に、頭がおいついていかない。
しばらくピュラは頭の中で物事を整理してから……愕然とした。
「って、エスペシア家の跡取りが家出なんて……!」
「恐らく家の中は大騒ぎだったろうな」
スイの冷静すぎるセリフは、むしろ彼女の頭の中を冷やすのに丁度よかったかもしれない。
ピュラは顎に手をあてて眉間にしわをよせる。
「もう……なにがどうなってるのよ……」
「ピュラ、スイっ」
ふいにした声に顔をあげると、クリュウが空から舞い降りてくるところだった。
「こっちにきて。急いで……!」
そういうなり、すぐに踵を返して飛んでいく。
「ちょ、ちょっと!」
ピュラとスイは後姿を追って走り出した。
クリュウのほのかに光を宿した羽根はわずかな灯りとなって、あたりを照らす。
月明かりは――少しだけあった。その地方は空気が澄んでいて標高も高い為、夜空には驚くほどの星が散りばめられている。
ただ、月がかなり欠けている為に、光はそこまで煌々と大地を照らすことはない。
スイの持っているランプの灯りでやっと少し先が見えるくらいの暗い道を、クリュウの示す方向に従って走る。
こんな場所をセルピがたった一人で走ったのかと思うと、胸がきしんで小さく痺れた。
「あそこだよ」
クリュウが石壁の裏から向こうの様子を伺う。
それに倣って、ピュラとスイも同じ方向を覗いた。
――そこにあったのはセルピの後姿。
小さく頼りないのに、何人たりとも踏み込ませぬ強い力を感じる……。
髪をおろしているからだろうか。普段の彼女から思わせるものは、一つとして感じられなかった。
まるで儀式を前にした巫女のように、彼女はその細い足で大地を踏みしめ、肩にかけたショールを胸元で握り締めている。
そして彼女の目の前には、見上げるほどに大きな門。町の中で唯一ぎらぎらした光を放つ場所。
門や外壁には細やかな美しい装飾がされており、一目で上流貴族の屋敷だとわかった。
彼女はそこの門番になにやら話しかけている……。
すると、すぐに一人が中へと駆け込んでいき、もう一人がすかさずその場に跪いた。
紛れもない、自分よりも身分が上の者への扱いだ。
(やっぱりあの子、エスペシア家の子なんだわ……)
どくん、と体が波打つ。ピュラは壁を掴んだ手に力を込めながらその様子を伺う……。
「フィープ様っ」
聞いたことのある声がした。
昼に広場で追いかけていた――、イシュトと呼ばれた青年の声だ。
彼が屋敷の玄関から飛び出してくる。
広場ではよくわからなかったが、今になって彼の姿を観察することができた。
歳は、スイよりも少し年上だろうか。
しかしその雰囲気は貴族特有のそれよりもずっと穏やかで、貴族の服を着ていなければ子供に人気のありそうな人のいいお兄さんと思えるくらいだ。
そして今の慌てようからして、よほどセルピ――いや、ここではフィープと呼ぶ方が正しいか――のことを心配していたように思える。
茶がかった銀の髪は大きく揺れて、その瞳は不安に揺れて――。
それでも彼は笑顔をつくって――。
「フィープ様! よくぞご無事で……っ!」
――しかし、幼子は動かなかった。
朝の泉のような色をした瞳で、目の前を見据えて――。
何もいわずに、前だけを見つめて佇んでいた。
「……フィープ様?」
彼が、目の前で言った瞬間。
彼女はさえぎるように叫んでいた。
「その名前でわたくしを呼ばないで!!」
すぅっ、と体中の体温が、地に落ちていく。
唇がかさかさに乾いて、動かない――。
ピュラとスイが、顔をみあわせた。
そして交互に、クリュウとも顔をみあわせた。
確かに今、彼女は言ったのだ。
『ボク』でもない、『わたし』でもない、『わたくし』と……。
青年が、殴られたかのように呆然としたまま、一歩二歩と、さがった。
「……なぜですか」
痛々しいくらいに弱い声で呟く。
「どうして……屋敷をでられたりしたんですか……」
そこにあるのは底が見えないほどの哀しみ、暗闇。
「――――」
「皆……皆、心配しておりました! あなた様のようなお優しい方ですから、私どもの目の届かぬところで、いつ、どこで危険にまきこまれるのではないかと……」
言いながら、首を振っていた。
セルピは唇を噛み締めたまま、前だけを見つめている。
真っ直ぐな瞳で、揺らがぬ瞳で――。
そして、不思議にやわらかな声で言っていた。
「お父様はいらっしゃるの?」
イシュトは、口ごもった。
次の言葉が見つからなかったのか……。
「た、只今呼びにいっております、どうぞお二人とも中へお入りください。ここは冷えます故に……」
膝をついていた門番が、恭しく横から口をそえる。
その、瞬間だった。
「フィープ」
まるで地の底から聞こえるような、深く強い声。
艶やかな黒い髪に、勇ましく髭を蓄えた男が、ゆっくりとこちらにむかって歩いてきていた。
貴族の屋敷故に、門から扉まではかなり距離がある。
きっと知らせをうけてからは走ってきたのだろう。なのに、息は一つたりとも乱れていなかった。
そんな彼が持つ威厳には、全てのものが圧倒される。声の強さに体がわななく。
男は強く冷たい瞳で、セルピに、視線を降ろした。
同じ、水色の瞳が重なる――。
セルピは、ショールを握る手に力を込めて、その男――彼女の父親、エディル・レド・エスペシア――エスペシア家の家長の顔をじっと見つめていた。




