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Bitter Orange, in the Blaze.  作者: 紅崎ナヤ
三.秋の風を聞きながら
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039.酒場での一夜



 夜はすっかり落ちて、空には満天の星々がそれぞれを一杯に煌かせていた。

 石炭さえ消費率の格段に低いこの地域の空気はどこまでも澄み渡り、けぶることのない天使星が天上で静かに大地を見守っている。

 先ほどまでは賑やかな音が鳴り響いていた酒場も、今はまるで夢のように静まり返っていた。


 スイはカウンターの席から振り向いて、状況を確認した。

 状況というよりも惨状といったほうが正しいかもしれない。

 床に転がって寝ている人々。脇にはいくつも転がった酒瓶。テーブルにも何人もが突っ伏したまま意識を深くに落としている――。

 その場には思わず鼻をつまみたくなるような酒の臭いが漂っていたのだが、既に何時間もいる彼にとっては何も感じられなくなっていた。

 転がっている者たちは各々酒瓶を手にしていたが、それよりも目をひいたのがとあるテーブルの瓶だ。

 ありとあらゆる銘柄の空瓶が山のようにつんであって、そのふもとでピュラがグラスを握ったまま突っ伏していた。

 横でセルピがすやすやと寝息をたてていて、……クリュウはきっとあの瓶の山に埋もれていると想像でき、後で助けてやらなくてはな、と何処か遠くで思う。

 ぼんやりと、けぶる意識。そういえばと、自分にしては随分飲んでいることに気付いて、目の前の残り半分ほどになった酒瓶に眼を細めた。

 そう、酒場は静寂に包まれている。



 ――数時間前のこと。


 とにかく、ピュラの豪酒っぷりはとてつもなかった。


 セルピはコップ半分で夢路に旅立ち、クリュウもピュラが酔った勢いで無理矢理飲まされ――いや、頭からぶっかけられ、すぐに撃沈してしまった。

 その後も彼女はぞっとするような速さでありとあらゆる酒を飲み干していき――、

 酒場の主人がおもしろがって、様々な銘柄の酒を飲ませ始めて、

 次第に辺りの人々が寄ってきて、彼女の豪酒っぷりに盛り上がり始めて――、


 それで、現状、である。



 なぜだろう、昔から酒を飲むことはあまりなかった。

 第一に酒を飲む機会などほぼなかったし、旅にでても、自分から進んで飲むようなことはなかった。

 酒でも飲んで酔ってしまえば、辛いことも忘れてしまえるかもしれないのに――。

 いや、と心の中で、どこかが否定した。

 逃げて忘れることなど、絶対にしたくはない。

 どんなにそれが重くのしかかるものだとしても、それを背負っていくのだと、いつか誓ったのだから――。

 ――また、胸が潰れたような、そんな感覚に陥る。

「やれやれ……」

 横でハルリオが苦笑していた。先ほどから結構な量を飲んでいる筈なのに、全く変わりのない、彼。

 そんなハルリオは隣人が視線を向けるのに笑って、またグラスに口をつけた。

 静かな夜、風の音しかしない夜、全て、全てが寝静まった――。

 起きているのは、二人だけだった。

「それにしても」

 カウンターに揺れる二つの影。

「まさかこんな場所で会うとは思っていませんでした」

「……ああ」

「まさか、生きているなんて思ってもみませんでしたから」


 ハルリオは、言い切った。

 柔らかな声と、静かな笑顔で。

 まるでそんなことは自分と関係のないことなのだと、すっかり割り切っているかのように――。


 スイは無言で、グラスに揺れる琥珀色の液体を口に含んだ。

 さきほどから何度となく飲んだ、もの――。

 なのに味がない。

 違う、感じることができないだけだ。

 焦げ付いて動かなくなってしまった、色を失った時計の針のように……。

「その様子だと、ずっと目立たぬように旅をしてきたようですね」

 ハルリオの声に、ぴしりと胸にひびが入ったような痛みが走る。

 黒ずんだものが体の奥底から沸き起こり、頭痛とも眩暈ともつかない静かな衝撃が、下の方から頭に響いた。

 しかしそれも、慣れてしまったに近い痛みだ。いつまでもいつまでも、この痛みは消えることがないのだから……。

「……ああ」

 溜め息をつくかのように、言った。

「そうですか。それで――」

 ハルリオの空色をした瞳が、僅かに細くなる。

 どこまでもどこまでも、底の見えない……底すらない? そんな青を浮かべて――。


「彼女は、フレアの代わりの人ですか?」


 今度こそ、衝撃が打った。

 まるで体の平衡感覚が失せてしまったかのように。頭が傾いでいるのかすら自分でも分からない……。

 しかしそれでもスイは、瞬間的にハルリオを睨んだ。

 何を言い返すこともなく、深い蒼色の瞳で、

 なにかがむきだしになった、瞳で――。


 ……。


 暫く重なっていた視線を先にそらしたのはハルリオだった。

「……冗談ですよ」

 微笑みを浮かべて、グラスに眼を落とす。

 手にしたグラスの中身は、ゆらゆらとランプの灯火に揺らめいていた。

「懐かしいですね、前会ったのはもう3年以上前ですか」

「……そうだな」

 しかし思い出してくるのは、美しい光景ではない。

 仕事の場、戦場。むせかえるような血の臭い、人だったもののかたち、

 そして、3年前の、全てが夢のように消えた日のこと――。

「そうそう、あの日にクォーツと共に仕事をしていたのは、私だったんです」

「……そうか」

 あの日、そう言っただけで通じる。二人が共有するのは、あの静かで残酷な夜の出来事。

 まるで至極普通の、なんでもない昔話をするようにハルリオは言葉を紡ぐ。

「あの時、あなたやフレアを助けようとした彼を、これでも私は止めたんですよ。あなたは知らないでしょうが」

「だが止められなかったんだろう」

「はは……」

 ハルリオは小さく笑い声を漏らして、くい、とグラスを傾けた。

「あなたはこんな場所で死ぬべき人ではない、と言ったのですがね、そのとき、クォーツはなんと言い返したと思いますか?」

 空の瞳が、一瞬だけ遠くを見つめる。

 懐かしい言葉の響き、静かな夜。

 自分の手を振り払って、吼えた、彼の姿。


「……たとえなんであったとしても、もう現実は変わらない」


 呟きに、ハルリオは微かに眼を伏せた。

 スイはカウンターの奥……否、それよりももっと奥を見つめたまま、グラスに口をつける。

「……変わらないんだ」

 また刻み付けるように、繰り返した。

 ハルリオは微笑みを崩すこともなく――。

「あの後、なにがあったかは知りません。私はそのままその地を去りましたから」

 スイは、何も言わなかった。

 何も言う必要がなかったと言ったほうが正しいかもしれないが――。

 酒でぼんやりとけぶる意識に、静かにその身を委ねながら。

「スイ、あなたは優しい」

 ハルリオは一度、ピュラたちの方にふいと視線を向けて笑った。

「私のように冷酷に割り切ることもなく、ましてや逃げることもしない。全てを背負って、歩いている」

 海のように深く濃い色をした眼は、微かに揺れて伏せられる。

「しかし――」

 声は、何の感情を含むこともなく、けぶる酒場の空気に放たれた。



「それでこれからも歩いていけると思いますか?」



 なんだか、その声は何重にも重なって聞こえた気が、する――。

 そう、なにもない、なにもない、透明な声だからこそ。


 人は、自分一人の重さでさえ、持って歩くことはままならないのに。

 自分のことでさえ、目を背けてやっと歩くことができるのに。

 なのに、いくつものこと、そしてあの日の二人のことまで背負って、


 ひとりで、歩けるだろうか?



 それはこれからずっとずっと、永遠に続く道だと、いうのに――。



「……それでも、俺は、」



 噛み締めるように、スイは言った。

 伏せられた瞳は奥深く、その向こうにある記憶を揺らめかせながら……。

「それでも……」

 言葉と共に、ゆらりと意識が傾く――。


 ――がたんっ!


 不意に横で鳴った音に、ハルリオは眼をしばたかせて顔を横に向けた。

 スイが机に突っ伏したまま、既に意識を失っていた。


 数秒の沈黙の後、静かに微笑む。

「そういえば、昔からそこまでお酒に強くはなかったですね」

 自分のグラスに残っていた酒を、全て飲み干した。

 かたん、とテーブルに空のグラスを置いて、僅かに吐息を漏らす。

「やれやれ、許容量オーバーですか」

 何年もたったのに少しも変わっていないな、と思った。

 むしろ、あの時から時の流れにおいていかれてしまったのかもしれない。

 垣間見える、クォーツの面影。あの懐かしい友人の姿は、久しく思い出していなかった。

 また、よくよく考えてみれば、彼の生死について全く聞いていない自分に気付いて、苦笑する。

 生き延びたのか、それともこの世を去ったのか、なにも知らない。

 何故ならあの夜、あの場から自分は去ったのだから……。

(どうでもいいのかもしれませんね)

 彼の生死を知ったところで、自分のすることは変わらない。

 ただ、生きる。それだけであって、他のことなど関係ないのだ。


 哀しみも、喜びも、なにひとつとして感じない自分がなんだかこっけいに思えて、ハルリオは静かに空のグラスに目を落とした。


 グラスの中身は、まるで彼のように、なにもない――。



 ***



 黒があった。

 目の前は、黒。たったそれだけ――。

 それが透明なのか黒の塊なのか、それすら分からないような、黒――。

 そんな中に、漂う意識。

 ぼんやりとなにをするわけでもなく、なにひとつする気さえ起きなくて、ただ浮かんでいる。

 そして次に、何かが黒を震わせた。


 うた、だ。


 やわらかな、うた。

 その題名も作者も、知らない。

 ただ、きれいな旋律。

 いつのまにかどこかに座っていて、地面についていた指が、その唄にあわせてリズムを刻む。

 決して飽くこともなく、その唄が終わるまで。

 張りのあるのびやかな声が、遠く高くどこまでも響く。

 あるときは囁くように、あるときは訴えるように。


 まるで、永遠ともいえるその時間――。



 遠い地の果て 日は昇り 紅の花が朝を唄う


 巡る風にのせて 水はそよぎ森踊る


 憂いを癒し 今日を歩けるように 明日へ繋げるように


 雲の切れ目を数えて また歩きましょう


 遠い地の果て 日は落ちて 紅の花に眠りを誘う


 巡る風にのせて 私はまた生きてゆける


 この時を 流れ 流れ どんなに変わり行くものの中でも



 ――私は 生きてゆける



 唄は、ふいと切れた。

 目の前に、少女がひとり。

 唄を唄っていた少女。

 柔らかな風に流れる若草の長い髪。

 彼女はさも当たり前のようにこちらに振り向いて、


 ――きらきらと笑った。


『どうしたのよ、そんな顔して。唄、そんなに下手だった?』


 何かを言おうとしたが、なにも動かなかった。

 まるで、心だけが体を置いて抜けてきてしまったようだ。

 なのに目の前には、あの少女。

 いつのまにか風景は懐かしい町並みに変わって。

 人のあまり通らない道、夕焼けの黄昏。

 橙色に染まる時間。

 イメージが、全てを形造る。


 いや、これはただの空想だろうか?


 これが、現実なのではないだろうか。


 自分はずっとずっと、この地にいたのだ。

 長い時を、ありふれた時を、過ごしてきたのだ。

 そんな日が昨日まで続いてきて、そして明日もまた続いていく。

 目の前にはきらきら笑う彼女の姿。

 リズムを刻む、自分の指。

 そうだ、夢だったのだ、全てを失ったことなど。

 悪い、悪い――夢を、見ていたのだ。



 づきん



『スイ?』


 不意に右腕に鈍い痛みが走った。

 右腕。そこに自身の体はないというのに、何故だかわかる。

 鋭いような、鈍いような、焦がされる痛み。


『スイ……? 痛いの?』


 覗き込んでくる彼女の瞳。

 揺れる髪は、夕日で橙に染まって――、


 夕日、夕日、炎の色。

 熱くけぶる、灼熱の色。

 強い光、激発、


 ――橙色の、地獄。


 自分の中のどこかが、悲鳴をあげる。

 孤独、閉塞、苦痛、虚無、憎悪、ありとあらゆる感情がダムを壊して溢れかえる。

 めまぐるしく変わる辺りの風景に、眩暈を覚えた。


『スイ……っ!!』


 声が、震えて聞こえる。

 まるで、月夜の泉が揺らぐように――。


 ――はしれ……っ



 彼女の顔が、歪む。

 苦しさに、悲しさに、

 何をすることもできない自分は、その場で、橙色に照らされて――。


『スイ……さむいよ……』



 ――走れ……!



 焼けただれた、大地。

 全てが無残に消えた、夜。

 耳につく声、焼きついた光景、


 みるみる消えていく、命あるものたち――。


『さむい……スイ、たすけて……』



 ――走れ、スイ!!




 耳を打った、命の叫び声。


 膨大な量の情報に、痛みを覚えるほどに頭がかき回される。

 熱い、身を焦がされる感触が体中からする。

 そのあと、一体自分はなにをしたのか――。


 ただ、いくつもの強いひかりの中には、あの日の情景が、ぽっかりと――。



 ***



 思っていたよりもずっとずっと穏やかに、スイは目を覚ました。

 ゆるやかに戻る意識で、眩しい朝の光を感じる。

 ただ彼は机に伏せったまま――。

 夢の中では鮮明に見えていた光景でも、実際に後から思い出せるものは数少ないという。

 しかしそれでも、彼は一瞬だけ右腕に手を当てて、過去を想う。

 頭を動かすと、鈍い痛みが打った。普段は飲まない酒を飲んだからだろうか。

 窓からは優しい光が差し込み始めている。今日もおそらくは雲一つなく晴れるだろう。

 机に突っ伏したまま、スイは視線を横に向けた。



 ――そこにすでに男の姿はなく。


 ――代わりに、一枚の紙切れがテーブルの上に置いてあった。



 ゆっくりと、その紙を目の前まで持ってくる。

 ぼやけた頭で、文章に目を通した。


『急ぐわけでもないのですが、お先に失礼することにします。どうぞあなた自身を大切にしてください。これからも良い旅を。


ハルリオ・I・クザナンハ』


 ……。


 ……。



 くしゃりと、その紙を握り締めて。

 スイはまた、目を閉じて腕に顔を埋めた。



 それは、秋の優しい朝日が差し込める酒場にて――。



 -Bitter Orange,in the Blaze-



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