105.血路へ続く道
――ちらっとガーネットピアスが煌いた。
続けてピュラの言葉が、静かに紡がれた。
「それで、銀髪鬼は」
「ええ、私はそう思っています」
ハルリオは笑みを湛えたまま続ける。
「彼があの日に死んでいたと知ったのはつい最近のことですが……、あの人が誰かに殺されることなど、私には考えられませんよ」
言い切って、穏やかに目を細めた。
既に手の中の茶はすっかり冷めてしまっている。
ピュラは軽く視線を隅にやって、呟いた。
「そんなに強かったのね」
「ええ。……まるで同じ人間とは思えないくらいに」
思い出しているのだろうか、彼の瞳が遠くを見る。
長い物語の果て、ハルリオは続けた。
「彼の望みはたった一つだけでしたから」
「望み?」
ピュラが聞き返す。緋色の髪が僅かに揺れた。
ハルリオは手の中のカップを横に置いて、小さく溜め息をつく。手を組んで、ほんの少し天井を仰ぐようにした。
「スイのことですよ」
そう……紡ぐ。
ピュラは空になったカップを指でもてあそびながら、ハルリオを見上げた。
その昔、最強と呼ばれた剣士の相棒であった男は、……ただほんの少し、その声に寂しさを滲ませて。
「ただクォーツは、自分と良く似たスイに普通に生きてほしかっただけなんです。それだけで彼は……幸福、だったのですよ」
ピュラの炎と同じ橙色の瞳が揺らめいて、ひかりを湛える。
そんな娘は、暫くの逡巡の後……ゆっくりと、その小さな唇を動かした。
「でも、スイは」
「はい」
ふんわりと、笑顔。……ただそれは、とても遠くを見ているもので。
「スイは今、また黄昏の中です」
――脳裏に浮かぶ、紺碧がかった蒼の髪、海の瞳。
黄昏をたったひとり生き抜いて。
あまりに速すぎる時の流れの中、その影にひっそりと隠れるようにして……。
孤高の銀髪鬼が望んだことも、願ったことも。
ずっとひとり、心に閉じ込めて、背負って、
その重みを、当たり前のように受け止めて。
……ハルリオはとても穏やかに、誰にともなく呟いた。
「残酷ですね」
Bitter Orange, in the Blaze.
九.戦慄の走る時
***
花に興味を持ったことなど一度たりともなかった。
自分に似合うと思ったこともないし、美しいとは認識していても身近には不必要なものと見なしていた。
……だけれど、今、自分はその花を抱いている。
ふわりと甘い香りが風に乗って、流れていく。
冬の近い空は、その隅々まで澄み渡っていた。
「こんなところにいたの」
後ろから、慣れた気配。振り向かずに、そのまま足元に花束を置いた。
目の前には小さな石碑がある。
いつかは風化して、誰かも忘れさられてしまうであろう、……墓標だ。
「ヘイズルが呼んでたわよ」
「……そうかい」
リエナは、振り向いた。その先にはディリィがいつものような優しい表情で佇んでいる。
気心の知れた、昔からの親友だ。こんな性格をしている彼女にとっての、数少ない『友』と呼べる間柄。
しかし、そんな友にさえ、彼女は自分のために協力を頼み……そうしてこの戦いに巻き込んだのだ。
「スイはまだ起きてこないかい?」
「ええ、まだみたいよ。よっぽどダメージ大きかったみたい」
「予想されたことだよ」
リエナはそう言いながら髪をかきあげた。町外れの、がれきだらけの場所。
――そして、彼女が以前、心から愛した者が眠る場所。
すすけて風化を続ける灰色がかったその場に、鮮やかな花びらが揺れる。
「……でも、きっとスイ君は逃げないものね」
「ああ」
炎に散った残骸の中で、リエナは目を細めた。
3年前、自分はこの壊れ行く町の中、……地獄を見たのだ。
「保険だってあるし、……その前にスイは『抗う』という選択肢を持っていないからね」
ディリィの長く美しい髪が、あでやかに潮風にゆれて舞う。
とても静かな、あの喧騒がまるで嘘のような滅びの世界。
そんな中、……こうやって全てを利用していく、自分の姿……。
あまりにも静かな世界は、それを嫌というほど気付かせる。
「……リエナ」
呼びかけに、逆にリエナはディリィから視線を外していた。
いつだってこの親友の瞳はあまりに強く、そして真っ直ぐ前を向いているのだから……。
「――あなた、これからもそうやって生きていくつもり?」
ディリィは花が添えられた墓標に目を落として、ぽつりと呟く。
それは友を想う、哀しみの声だった。
彼女に嘘をつきたくはなかったから、正直に答える。
「私はもう、あの日に死んでいるんだよ」
そう、目を閉じた。
瞬時に脳裏にフラッシュバックする炎の記憶。
自分を助けるために……かばって、絶えた、彼の姿。
そう、彼女とて日常を当たり前のように生きていたのだ。
それを突然、いとも簡単に奪われて、からっぽになってしまった……、たったそれだけだった。
「今ここにいるのは、憎悪と執念にかられてでしか生きられない……、醜い抜け殻さ」
愛していた者を亡くして、血路を歩きぬいて。
そうして、たとえその先が見えなくとも、ひたすら歩いていくのだと……。
「この道の先に何が待っていたって構わない。死んだって構わない」
だから、ディリィの目を見て歪むように笑った。
軽く腕をもたげて……紡ぐ。
「ただ、あのひとを殺した奴らが憎い。憎くて仕方ない――それだけだよ」
風が、レムゾンジーナの風が、駆け抜けた。
花びらが一枚、途切れて宙を舞う。
あまりにそれは美しくて、目を細めた。
このまま空高く昇って、あのひとのところまで届けばいいのに。
しかし届くはずもないと、知っている自分がそこに、いて……。
「――そう」
やはり、ディリィは咎めたりはしなかった。
彼女はいつだって話を聞いてくれるし、そっと進むべき道を示してくれる。
しかし、一度相手が決めたことに口を挟むことは絶対に、しない……。それが彼女のたった一人の親友、ディリィという女性であった。
――空が青い。あまりに広い。
見上げるたびに、自分がどれだけ浅はかで愚かな存在だと、痛いほどに気付かされる。
墓標に再び、目をやった。
たった一人、全てを預けていられると思った人。なによりも大切だった人。……しかし、今はもういない。
歩きだした。短く切った髪が宙に揺れる。
「……でも、いつか」
ディリィの声がふりかかった。
足は止めたが、振り返らない。……そう、振り返らない。
彼女は穏やかに笑んでいるに違いなかった。
全てを包むような、ぬくもりを一杯に秘めた、そんな微笑みを――。
「いつか、そんな風に思ったことも、哀しいことも。全てが懐かしいと、……そう思えるときがくるわ」
だから、やはり正直に返した。
「そうかもね」
「ふふ、私が言うんだからきっとそうよ」
……振り向く。
いつもの彼女の姿がそこにあった。
花束は美しく、風に身をまかせている。
その光景に、ちくりと胸に何かが刺さるのを感じながら……、それでもリエナはわずかに笑ってみせた。
***
「ディムロード領主が殺された、だと……!?」
声に思わず荒いものが走る。
ハルム・ウッドカーツはその紅の瞳をいつになく険しくさせながら、手早く資料をめくった。
「だれだ、そんな馬鹿なことをしたのは……!」
「そ、それが……」
従者も焦った表情で資料の1ページを指す。
ハルムは示された一節を見て、……眩暈にも似たようなものを覚えて、こめかみに手をやった。
「スイ・クイール、――あの日の少年か。……いや」
ふいに走ったひらめきに、手を口元にやって虚空を眺める。
「裏で何者かが操ったな。いくら成長したとはいえ、あの少年にひとりでそんなことが出来るはずがない」
ハルムは言い切った。それにスイ・クイール個人の犯行としては、あまりにも時期が中途半端すぎる。
もっと大きな、……何かとても危険なものが、壮大な計画をもってして、この暗殺を決行したように思えた。
「こんなことをさせるなど」
スイ・クイールにそんな指令を下した何者か――その人物の姿に悪寒を覚える。
ディムロード領主自身は、消えたところで表では大事にならない。ただ町の者たちの会話のネタが増えるだけだ。
しかし、彼は薬物や兵器……、そんな陰の世界を少なからず治め、統括してきた男なのだ。
それがいなくなると、抑制する者が消えた世界では一気に取引が氾濫し、大混乱に陥ることになるだろう。
「こんなことをさせるなど、よほどの大馬鹿か……さもなくば、悪魔のように切れる奴か、どちらかだろうな」
闇が混乱をきたせば、その上に乗っているこの表の世界にまで乱れが広がるだろう。
氾濫した裏の取引は限りなく表に近付き、これまでよりもずっと楽に民衆に武器や薬物が取引できることになる。
それは、今まで自分たちがつちかい、守ってきた表面上の冷たい平和を、一気に揺さぶる――。
「本気で世界の全てをひっくり返すつもりか……」
体中が凍るような戦慄が駆け抜けて、思わず組んだ手に力を込めた。
「どういたしましょう」
不安げな顔で問いかけてくる従者に、――ついにその指令をださなければならぬところまで来てしまったことに気付き、答える。
それは、もしかしたら全てのはじまりを告げる合図だったのかもしれなかった。
「仕方ない、……レムゾンゾーナに――兵を、だす」
紅の瞳が揺らめく。ふっと脳裏に浮かぶ炎の記憶。三年前にも自分は同じようにしてあの町に向かったのだ。
そして、あの銀髪の男の最後に立ち会うことになったのだった。
しかしそれよりも目に焼きついているのは、その後、彼の剣をもってして幾重にもはられた包囲網をただ一人突破した、……ひとりの少年。
その姿は今でも忘れられない。思い出すとぞっとすることすらある。
あの炎の中を駆け抜けていった姿は、まさしく鬼の弟と呼ぶにふさわしいものであって――。
――もう、三年になるのだ。
スイ・クイール。一体彼はどのように成長したのだろうか。
不意に、誰かの足音がしたのに顔をあげた。
ほどなくしてノックの音が聞こえ、衛士の一人が部屋に入ってくる。
彼は緊張した面持ちのままこちらへと深々と頭をさげ、小声で用件を伝えてきた。
「そうか、――そのまま通せ」
答えるとすぐに短い返事を返し、踵を返す。そのまま彼は部屋を足早に出て行った。
「いかがしました?」
「あれが到着したそうだ」
その言葉を聞いた瞬間、明らかに従者の顔に険しいものが混じる。
「……どうやら間にあったようだな」
何かを諦めたかのようにハルムは小さく笑って、空に視線をやった。曇った空が灰色に染まっている。嫌な天気だった。
しばらくすると、再びノックが部屋に響く。
扉が開くと、先ほどの衛士と……その陰に隠れるようにして、もうひとつ人影が見えた。
その影は最初うつむいていたものの……、ゆっくりと、そして凛とした態度で顔をあげる。
瞬間――、一瞬、ハルムは表情を忘れた。ぞくり、と体中に冷たい感触。
言葉を失うハルムの前に、暗がりから姿を現せた彼女は、静々と進み出てきた。
少しでも気を抜けば吸い込まれそうになるほど純粋で深い瞳。
まるで敵意もみせず、しかし毅然と、彼女はハルムをひたと見据えていた。
従者に至ってはその姿に固まってしまったようで、完全に体の動きを停止している。
そんなおかしな緊張が走る部屋の中、……ハルムは平常をとりつくろうようにして、彼女に語りかけはじめた。
「……いや、すまないね。まさか尊公のような風貌をしているとは予想もしなかったのでな」
――すると、彼女はほんの少しだけ微笑む。
名を問うと、囁くようにして名乗った。
「長旅はさぞ辛かったろう。先に少し休むかね?」
気遣いへの感謝と、遠慮の言葉がすらすらとその唇から零れ落ちる。
「そうか……」
彼女はじっとこちらを見据えたまま、耳を傾けている。
だから、そのまま話を続けることにした。
「君も聞いたとは思うが、最近民衆たちが世界を変えようとしている。全てを一度無に返し、また新しい世界を再建させようとしている。しかし、そのようなことが起きれば数多の人々が……犠牲になるだろう。殺戮が殺戮を呼び、治安は極限まで乱れ、罪なき子供たちが無残に死んでいく……」
彼女は小さく頷いた。あまり表情も動かないから、その奥で何を考えているのかはわからない。
――しかし、何故か淋しげな顔だと、……そう思った。当たり前か、彼女は貴族たちに囚われてこの場に連れてこさせられたのだ。
「そのようなことを、我々は断じてさせてはならない。我々は……、被害を最小に食い止め、世界を乱そうとする彼らの活動を阻止せねばならないのだ。その為に、尊公の力を貸してほしい」
「……――」
彼女は、か細くも思える声で言葉を紡いだ。
ハルムもその言葉たちに耳を傾けて……、重々しく頷く。
「協力、感謝する」
彼女は深々と頭をさげた。
「部屋を用意してある。出発までゆっくりと休むといい」
そう言うと、彼女は頭を垂れたまま礼を述べる。
「……いや、君は協力者であり、大切な客人だ。そんなにかしこまらなくとも構わない」
ふっと顔をあげたその瞳を、見つめる。静かな瞳だ。まるで『兵器』としてかりだされた者には見えない……。
思わず、尋ねていた。
「……ところで君の力は、何の準備もなしに……命令が下れば、すぐに使うことが出来るのかね?」
しばらくの沈黙の後に、彼女は小さく頷いてみせる。
続けた。
「その力の大きさは、どれほどのものになる?」
――…………。
「――わかった。私からはそれだけだ」
ハルムが衛士に合図すると、衛士は無駄のない動きで彼女をエスコートし、用意された部屋へと連れて行く。
ぱたん、と閉じた扉を暫く眺めていると、従者がぽつりと呟いた。
「……まさかあんな姿をしているとは」
まるで化かされたかのような顔をしているのを見て、苦笑する。
「上の奴らも、随分なものを手に入れたようだ」
手を組んで、口元を覆うようにして呟いた。
「まだ、あんな娘ではないか……。酷いものだな」
逡巡するように瞳を伏せて、再び開く。
ほんの少し、胸が痛む思いがするが、……それよりも考えなくてはいけないことが山積みだった。
既にさいは投げられている。自分は、自分の信じるもののために……戦う、たったそれだけだ。
従者に手早く指示を飛した。有能な従者はすぐにそれらを理解して、部屋を出て行く。
窓の外をもう一度、座ったまま眺めた。今にも泣き出しそうな雲が、遠く遠く、続いていた。
「……忙しくなるな」
誰にともなく、ハルムは呟く。
その血を吸ったように紅い瞳が、更にその陰を含み、深さを増していく――。




