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魔族王子に拾われた奴隷少年、魔眼で戦場を支配し世界統一の軍師になる  作者: 久能のの


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豊穣の大地と三つ巴の戦渦 20

 戦闘都市アルカイドの陣営を吹き抜ける風には、プレンブルク大平原での凄惨な撤退戦が残した重苦しい空気が未だ微かにこびりついていた。しかし、将兵たちの足取りにはもはや敗北の沈痛さだけが支配しているわけではない。次なる戦局へ向けた慌ただしい喧騒が、石造りの城壁に囲まれた軍事拠点の至る所で響き渡っている。武器を打つ乾いた音、軍馬たちの嘶き、兵糧を運ぶ荷馬車の車輪のきしみ。それらの音が複雑に絡み合い、アルカイドは巨大な生き物のように新たな闘争の熱を帯び始めていた。


 その喧騒からわずかに外れた一角に張られた簡素な天幕の中で、ハズラは一人、小さな机に向かっていた。彼の意識は、周囲の騒音を適度に遮断し、自らの内側に構築された広大な精神の領域へと深く潜り込んでいる。脳裏に焼き付いているのは、プレンブルク大平原で繰り広げられた、あの地獄のような戦場の詳細な光景であった。

 見渡す限りの地平線を黒く塗り潰すように湧き出してきた第三勢力の軍勢。無尽蔵の繁殖力を誇るゴブリン族の不規則な動き、ジャンク兵器が振り下ろされる角度と速度。そして、自我を持たずに機械的な特攻を繰り返す蟲人族の直進的な進行ルート。ハズラはそれらの膨大な動きを、感情を一切交えない客観的な数値データとして整理し続けていた。彼が観測者として為すべきは、戦場の混沌に惑わされることなく、真実の情報のみを抽出して論理的な最適解を導き出すための基盤を整えることである。恐怖や絶望といった感情は、真実を歪めるノイズに過ぎない。彼はただ静かに、記憶の中の戦場を俯瞰し、敵の動線を精密に再構築していた。

 深い思考に没頭していたハズラの鼓膜を、不意に布擦れの音が叩いた。


「よお。邪魔するぞ」


 バサリと天幕の入り口を雑に揺らして現れたのは、一人の青年であった。魔族の強靭な鎧とは全く異なる、機能性を重視したエンジニアコートを羽織っている。ポケットの中で定規やコンパスといった製図道具をカチャカチャと鳴らしながら、ぶっきらぼうで飄々とした足取りで歩み寄ってくるその姿は、王都セプテントリオンからこの最前線へと派遣されてきたばかりの天才建築家、カイリであった。

 かつて大河の水上要塞で敵対し、今はグラン・ヴァルディア軍の分断防壁構築という重大な任務を負う彼が、なぜ自分のような一介の側近の天幕を訪れたのか。ハズラが静かに目を瞬かせていると、カイリは片脇に抱えていた細長い木箱を、ハズラの目の前にある机の上へと無造作に差し出した。コトリ、と鈍い音がして、簡素な机がわずかに軋む。


「王都の内政官殿から、あんた宛ての届け物じゃ」


 平坦な声で告げられた言葉に、ハズラは視線を木箱へと落とした。上質な木材で作られたその箱は、周囲の土埃にまみれた天幕の中ではひどく場違いに見えた。彼は慎重な手つきで留め具を外し、木箱の蓋をゆっくりと開ける。

 中には、豪奢な装飾が施されたガラス瓶が一本、厚い緩衝材に大切に守られるようにして収められていた。深い琥珀色の液体を満たしたその瓶の口には、グラン・ヴァルディア王都の紋章が刻まれた封蝋がしっかりと押されている。一目見ただけで、それが王侯貴族の宴でしか供されないような、極めて質の高い高級な酒であることが見て取れた。


「……酒、ですか。しかし、紫苑様もご存知のはずですが、僕はまだこれを口にする年齢ではありません」


 ハズラは極めて冷静に事実を述べ、木箱から視線を上げてカイリを見た。戦時下の最前線において、未成年である自分に高級な酒が届けられるという事象は、あまりにも非論理的である。

 だが、カイリは面倒くさそうに首の後ろをボリボリと掻くだけだった。彼の関心は、これから自身が手掛ける巨大な建築物にのみ向けられているようだった。


「知るか。紫苑殿から、あんたに直接渡せと厳命されたんじゃ。中身が何であろうと、その用途が俺の設計図に影響せんのなら、俺の仕事には関係ねえけえ」


 自身に課せられた分断防壁の構築という任務以外には一切の興味がないとばかりに、カイリは踵を返した。エンジニアコートの裾を翻し、彼は足早に天幕から立ち去っていく。後に残されたのは、遠ざかる足音と、机の上に鎮座する一本の高級な酒だけであった。


 天幕の中に再び静寂が戻ると、ハズラは机上の豪奢なガラス瓶を静かに見つめた。木箱の底や蓋の裏、さらには緩衝材の隙間まで隅々と確認してみたが、この酒の用途や意図を示す手紙、あるいは指示書のようなものは一切同封されていなかった。


 ハズラは椅子に深く腰を下ろし、視線を落としたまま、この状況の解析を開始した。

 王都セプテントリオンで国の内政を一手に引き受け、国全体を巨大な盤面としてすべての情報を統括する内政官、紫苑。彼女は常に数歩先の未来を予測し、他者の隠れた才能を見抜いては最適な場所へと配置していく、極めて知的で計算高い人物である。彼女の行動には、常に盤面を最も有利に進めるための合理的な一手が隠されている。その紫苑が、何の意味もなく前線にいる未成年の自分に美酒を送りつけるなどという非合理的な行動をとるはずがない。

 ハズラの脳裏に、彼女の美しくも底知れぬアメジスト色の瞳と、すべてを見透かすような悪戯っぽい微笑みが鮮明に浮かび上がった。彼女の意図は何なのか。ハズラは与えられた少ない情報を元に、思考の糸を紡ぎ出していく。


 まず、この酒は自分自身が消費するためのものではないという前提が成り立つ。ならば、これは誰かに与えるためのものだ。戦局において、この極上の酒を提示することで、何らかの有利な事象を引き起こすことができる対象が存在するということになる。

 紫苑が予測する未来の盤面において、この酒は状況を操作するための極めて重要なアイテムなのだ。つまり、この酒を必要とする特定の対象が、いずれ自分の観測範囲内に現れるはずであると、彼女は確信している。

 ハズラは静かに息を吐き出した。今の時点では、その対象が誰なのか、いかなる変数として戦局に影響を及ぼすのかを示す具体的なデータは不足している。しかし、焦る必要はない。対象が現れた時、この酒が果たすべき役割は自ずと明らかになるはずだ。ハズラは極めて客観的な思考のもと、不確定な未来に対する考察を一旦打ち切った。来るべき瞬間に備え、彼は紫苑からの意図的な贈り物を木箱の中へと静かにしまい込み、しっかりと蓋を閉じた。


 天幕を出たハズラは、グラン・ヴァルディア軍の陣営が広がるその周辺部へと足を向けた。

 観測者である彼にとって、自らが立つ場所の周囲の環境を客観的に把握し、地形や遮蔽物の配置を脳内の地図に刻み込むことは、日常的かつ不可欠な行動である。彼は喧騒から少し離れた静かな区画を歩きながら、無意識のうちに歩測を行っていた。周囲の天幕や物資の集積所までの距離を正確な歩数で測り、方位を自身を中心とした時計の文字盤に見立てて数値化していく。


「方向二時、距離五十歩。木箱の集積あり。方向十時、距離七十歩。水場あり……」


 心の中で情報を整理しながら歩みを進めていたハズラの視界に、ふと、血生臭い軍の拠点には到底似つかわしくない、ひどく異質な姿が飛び込んできた。


 人気のない陣営の外れにいたのは、一人のエルフの少女だった。

 エルフ特有の、無駄な肉が完全に削ぎ落とされたスレンダーな体型。彼女の髪は太陽の光を編み込んだように美しい本来の色調を持っているはずだが、手入れを怠っているせいでくすんだ金髪となり、寝癖のように四方八方へと無造作に跳ねている。伝統的で厳格なエルフの魔導衣を身に纏ってはいるものの、その着こなしはだらしないの一言に尽きた。襟は大きく開かれ、袖は無造作に腕まくりされている。何より、彼女の立ち姿には背骨の芯が抜けてしまったかのように、姿勢がぐにゃりと曲がった退廃的な気怠さが漂っていた。

 彼女は片手に、使い込まれてところどころ凹みのある銀色の酒瓶をぶら下げている。もう一方の手には長大なキセルを持ち、時折紫色の煙を吐き出していた。世の中のすべてを斜めに見るような翠緑色の半眼を周囲に向けながら、足元はおぼつかない千鳥足で、あてもなく歩き回っている。


 その少女は、歴史上類を見ないと評されるレベルの超精密魔法操作を息をするように行う、世界最年少の魔導六杖の一人、天才魔術師ルルティア・アッシュウッドであった。


 ハズラはピタリと足を止め、その姿を静かに見つめた。

 以前、外交の随伴としてエルフの選民国家ユグドラフを訪れた際、陽の当たらない下層の隠れ酒場で出会った彼女が、なぜグラン・ヴァルディア軍の最前線にいるのか。エルフの社会は極めて排他的であり、森全体を強固な結界で閉ざして他種族との交流を拒絶している。しかし、彼女の今の出で立ちと、森から遠く離れたこの血生臭い戦場周辺を気ままに歩いている様子から、ハズラは一つの論理的な推測を導き出した。

 彼女は、エルフの一族に課せられた義務である放浪の旅についに出発したのだ。

 堅苦しい掟や長老たちの小言から逃れ、自由な場所を探して気ままに生きることを望んでいた彼女の言葉を、ハズラは正確に記憶していた。森を出た彼女が、気まぐれにこの場所へと流れ着いたとしても不思議ではない。

 予測不可能な天才魔術師との偶然の遭遇。ハズラは持ち前の理知的な頭脳を高速で回転させ、目の前の状況を極めて論理的に処理していく。

 彼女の圧倒的な魔法の実力。そして、無類の酒好きという彼女の明確な性質。


 ハズラの思考回路が、先ほど紫苑から届けられたばかりの一本の高級な酒の存在と、目の前のルルティアを瞬時に結びつけた。

 内政官である紫苑は、はるか遠くの王都にいながらにして、ルルティアが森を出てこの付近を通りかかること、そして自分が彼女と接触する確率を極めて高く予測していたのだ。あの酒は、この怠惰なる天才魔術師をグラン・ヴァルディアの陣営に引き込むための、あるいは少なくとも彼女の好意を引き出すための、完璧に計算された贈り物であった。

 この不確定要素をどう扱うべきか。ハズラの客観的な思考が瞬時に最適解を弾き出した。

 彼は感情を極力排した平坦な足取りで、ルルティアのいる方向へと真っ直ぐに歩み寄った。彼女の数歩手前で立ち止まると、ハズラは手持ちの荷物の中から、紫苑から預かったあの豪奢なガラス瓶を静かに取り出した。彼は一切の迷いを見せることなく、その高級な酒を、ルルティアへの手土産として真っ直ぐに差し出したのである。


 ◇


「はぁー……マジ最高っすね、これ」


 ハズラから酒瓶を受け取ったルルティアは、美しい装飾が施されたガラス瓶の封蝋を無造作に指で弾き飛ばし、そのままラッパ飲みで琥珀色の液体を一口あおった。芳醇な香りが周囲に漂う中、彼女は心底美味しそうに、だらしなく目を細めた。手入れを怠ったくすんだ金髪が風に揺れ、着崩された魔導衣の裾がだらりと垂れ下がっている。


「アタシ、こういうのずっと飲みたかったんすよ。安い酒ばっかりだったから、マジで沁みるっす。……ん? そういえばあんた」


 喉を鳴らして酒を飲んでいたルルティアの気怠げな翠緑色の半眼が、ハズラの姿を捉えて少しだけ見開かれた。


「前にエルフの森の隠れ酒場で、衛兵に絡まれてたアタシの未払い金を立て替えてくれた奴っすよね? なんだ、こんなところでまた会うなんて奇遇っすね。あんたも暇なんすか?」

「はい。お久しぶりです、ルルティアさん。森を出られたのですね」


 ハズラは感情を交えず、淡々と事実のみを口にした。彼の声には驚きも媚びも含まれていない。


「まあ、一族の義務ってやつっすよ。放浪の旅に出ろってうるさくて。堅苦しい掟とか、顔を合わせるたびにグチグチ言ってくる長老の小言から解放されて、やっと自由になれたんすけど……」


 ルルティアは片手に酒瓶を持ったまま、もう一方の手で乱れた金髪を気怠げに掻き回した。彼女の視線が、ハズラの背後に広がるグラン・ヴァルディア軍の巨大な陣営と、さらにその遠く、地平線の彼方へと向けられる。そこでは、先の戦いで流された血の匂いと、これから始まるであろう第三勢力との血生臭い激戦の気配が、風に乗って微かに漂ってきていた。


「なんか、随分と面白そうなことやってるじゃないっすか。これから随分とデカい戦が始まるみたいっすね」


 彼女の口元に、普段の気怠げな態度とは不釣り合いな、退廃的で悪戯っぽい笑みが浮かんだ。

 エルフの選民国家ユグドラフは、数千年にわたり外界との接触を絶ち、他種族の争いに対しては完全な中立を貫くという厳格な掟を持っている。彼らにとって、森の外で人間や魔族がどのように殺し合おうとも、それは自分たちには無関係な事象に過ぎない。

 しかし、自由を渇望し、森の窮屈な規律を心の底から嫌悪していたルルティアにとって、そんな掟など何の意味も持たなかった。


「アタシ、もうあの森の連中に義理立てする必要ないんすよね。中立の掟なんて、どうでもいいっす」


 彼女は手元の酒瓶を軽く振り、中身の琥珀色の液体をチャプンと鳴らした。


「ちょうど退屈してたところだったんすよね。暇つぶしにはちょうどいいし、この美味い酒の礼も兼ねて、アタシがあんたらの戦局を手伝ってやるっすよ」


 あっさりと国家の中立の掟を投げ捨て、自発的に参戦を申し出た天才魔術師の言葉を、ハズラは静かに受け止めた。彼の表情は一切変わらないが、その内側では理知的な頭脳が凄まじい速度で回転を始めていた。

 歴史上類を見ないと評されるレベルの超精密魔法操作。空間と出力を完全に制御し、意図しない余波を一切出さず、極限まで高められた魔力効率で事象を書き換える彼女の力は、戦場においていかなる軍隊よりも絶大な影響力を誇る。盤面に突如として舞い降りたこの規格外の不確定要素が、これからの戦いをどうコントロールしていくのか。星辰第七将ラングレーが構築した二面作戦の計画に、彼女の力をどのように組み込むことが論理的最適解となるのか。

 吹き抜ける風がルルティアのくすんだ金髪を揺らす中、ハズラは迫り来る決戦の行方を、極めて静謐な思考のもとで思考し始めていた。

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