星降る王都の特務部隊殲滅戦 02
王都セプテントリオンは星祭の開会を目前に控え、街の隅々にまで抑えきれない熱狂が溢れ出していた。色鮮やかな装飾で彩られた大通りは行き交う人々の弾むような足音と笑い声に満ち、どこからともなく漂う香辛料や肉の焼ける匂いが、祭りの高揚感をさらに掻き立てている。
その華やかで圧倒的な熱気から一歩引いた場所、王都の入り組んだ街路を、古騎族の将であるジェベは飄々とした足取りで歩いていた。
短く刈り込まれつつも四方八方に跳ねた乾草色の髪を揺らし、彼は時折、半眼の黄金色の瞳で空を見上げる。祭りという非日常に酔いしれる定住者たちの喧騒を、彼はどこか遠い出来事のように静かな諦念を込めて眺めていた。「なるようにしかならない」という達観した死生観を持つ彼にとって、人の営みが作り出す巨大な熱狂も、大自然がもたらす嵐も、本質的には同じひとつの現象に過ぎなかった。
だが、彼がただの傍観者であるかといえば、決してそうではない。ジェベには、彼にしか聞こえない声があり、彼にしか読めない道しるべがあった。すなわち、風の導きである。
彼は無意識のうちに指先をわずかに舐め、それを空中に掲げて微小な大気の流れを確かめる。古くから馬と共に果てしない荒野を生き抜いてきた彼の一族にとって、風は単なる空気の移動ではなく、世界を形作る情報の奔流であった。人々の熱気、屋台の火の暖かさ、石畳が蓄えた陽の光。それらが複雑に混ざり合った王都の風を、ジェベの鋭敏な感覚は完全に読み解いていた。
その時だった。
温かく平和な空気に満ちた大通りの風に混じって、極めて不自然な、針で刺すような冷たい空気の揺らぎが彼の頬を撫でた。
それは祭りの熱気とは明らかに異質だった。静かに、しかし急き立てられるような焦燥感を伴い、殺意という名の冷気を孕んだ微細な風。ジェベはぴたりと足を止め、黄金色の瞳の奥に猛禽類のような鋭い光を宿した。
彼は喧騒に背を向け、風の出どころである薄暗い路地裏へと音もなく足を踏み入れた。
日の光が届かない王都の深部は、表通りの華やかさとは打って変わって、湿った石の匂いと濃い影に支配されていた。ジェベは気配を完全に殺し、革製の軽装鎧が衣擦れの音すら立てないよう、流れるような足運びで暗がりを進む。
迷路のように入り組んだ路地の奥深く。そこに、壁の影と同化するようにして身を潜めている一つの人影があった。分厚い外套を羽織り、周囲を過剰なほどに警戒しているその姿は、一見するとただの怪しい旅人のようにも見える。だが、彼が纏う空気の質、そしてわずかに漏れ出る魔力の残滓が、ただの盗人やごろつきではなく、明確な目的と訓練された技術を持つ異邦の工作員であることをジェベに直感させた。
密偵は、王都の深部へさらに潜伏するための経路を探っているようだった。時折立ち止まり、懐から何かを取り出しては確認するような素振りを見せている。
ジェベは壁の曲がり角に身を寄せ、静かに呼吸を整えた。密偵が再び歩みを進め、ジェベの隠れている角に差し掛かろうとしたその瞬間だった。
風が吹き抜けるような速さで、ジェベの身体が動いた。
彼は一切の予備動作を見せることなく暗がりから滑り出ると、密偵が声を発するよりも早く、その首筋と関節に的確な一撃を叩き込んだ。ドスッと鈍い音が狭い路地に響き、密偵の身体は抵抗する間もなく崩れ落ちる。ジェベは倒れ込む相手の身体を静かに支え、地面に打ち付けられる音さえも殺してみせた。
「風向き、変わったね」
気絶した密偵を見下ろし、ジェベは少年らしい少し砕けた口調でそう呟いた。彼の声に昂りはなく、ただ吹くべき風が吹いた事実を確認するような平坦さがあった。
彼は熟練の猟師が獲物を処理するように、手早く密偵の身動きを完全に封じた。そして、気絶した男の懐を探り、先ほど彼がしきりに確認していた物体を引きずり出す。それは、冷たい金属の光沢を放つ、見慣れない形状の魔導具であった。コルデアの特務部隊が連絡を取り合うために使用する、通信用の装備品である。
ジェベはその装備品と密偵の身柄を確保すると、祭りの喧騒が遠く聞こえる路地裏を後にし、真っ直ぐに王城の司令部へと帰還の途についた。
◇
王城の奥深くに位置する司令部では、重苦しい静寂が空間を支配していた。
内政官である紫苑によってもたらされた、コルデア特務暗殺部隊による同時多発テロ計画の急報。星祭のクライマックスに訪れる「完全な暗闇」の数分間を狙い、統星とカネルを抹殺し、広場を焦土と化すという恐るべき企み。その全容を聞き終えた統星は、執務机の奥で微動だにせず、黄金色の瞳に揺るぎない王者の威厳を湛えて前を見据えていた。
統星の傍らに控えるハズラもまた、己の内に渦巻く緊張を静かに噛み殺していた。かつて奴隷として泥に塗れ、その日を生き延びることだけを考えていた彼が、今や一国の命運を左右する情報の中枢に立っている。主君が描く世界統一の覇道を支える側近としての強い自覚が、ハズラの背筋を真っ直ぐに伸ばさせていた。
その極限まで張り詰めた司令部の重厚な木扉が、静かな音を立てて開かれた。
現れたのは、先ほどまで王都の巡回に出ていたはずのジェベであった。彼は室内の重たい空気を気にする風でもなく、いつもと変わらぬ飄々とした足取りで歩み入ると、引きずってきた気を失っている男の身体を床に転がした。
「パトロールのついでに、面白そうな獲物を拾ってきたよ」
ジェベの報告に、紫苑の氷のように冷ややかな知性を宿したアメジスト色の瞳が鋭く細められた。ジェベは男の素性について簡潔に説明すると、懐から取り出した金属製の通信用装備品を、コツンと軽い音を立てて執務机の上に置いた。
その瞬間、ハズラの理知的な黒い瞳に微かな光が走った。
コルデアの暗殺部隊が用いる通信機。氷雪公国コルデアのような過酷な環境下で隠密行動を行う部隊にとって、通信の確実性は命に直結する。彼らは電波や音波ではなく、術者同士の魔力を直接リンクさせることで、妨害を受けにくい強固な通信網を構築しているはずだ。
ハズラは無言のまま一歩前に進み出た。彼の視線は、机の上に置かれた無機質な金属の塊に釘付けになっている。
もしこの装備品が、王都内に潜伏している他の暗殺者たちの装備と魔力的にリンクしているのだとしたら。この端末に残された波長を読み解くことができれば、物理的な距離や遮蔽物を一切無視して、敵の配置を完全に暴き出すことができる。
「統星様。僕に、その通信機を調べさせてください」
ハズラは静かな、しかし決して退くことのない強い意志を込めた声で進言した。統星は黙って顎を引き、ハズラの行動を許可する。
ハズラは慎重な手つきで、金属製の通信機に手を伸ばした。冷たい表面に指先が触れた瞬間、彼の意識は己の深くにある特異な感覚器官へとダイブしていく。
「魔眼」を発動させるための接触解析。
それは、対象が触れた物体に残留している魔力痕跡や精神の揺らぎを、自らの神経に直接接続して読み取るという行為であった。
指の腹が金属の冷たさを感じ取った次の瞬間、ハズラの指先から腕を伝い、脳髄の奥深くへと、バチバチと弾けるような極めて不快なノイズが駆け巡った。それは他者の強い感情や殺意、焦燥といった精神の波が、未加工のまま脳の処理領域に強制的に流れ込んでくる感覚だった。
ハズラは奥歯を強く噛み締め、こめかみに浮かぶ汗を拭うこともせず、そのノイズの濁流の中から特定の「波長」だけを掬い上げようと意識を研ぎ澄ませた。他者の殺意の波に飲み込まれそうになる恐怖を、統星への絶対的な忠誠と、観測者としての己の役割に対する誇りで押さえ込む。
やがて、無数のノイズの中から、一本の細く強い糸のような波長が浮かび上がってきた。それは凍てつくような冷たさを伴った、コルデア特務部隊特有の魔力の残滓であった。ハズラはその波長を己の魂の深奥に刻み込み、決して見失わないように強固に記憶する。
波長の記憶が完了した瞬間、ハズラの世界は劇的な変貌を遂げた。
普段は光のない濁った黒色をしている彼の瞳が、ドプリと深く濁り、内部から発光するかのように赤黒く充血して強い熱を帯び始める。
魔眼の完全な解放。
ハズラの視界から、豪華な司令部の装飾も、紫苑の紫色の髪も、統星の黄金の瞳も、あらゆる色彩が急速に抜け落ちていった。世界は音のないモノクロームの濃淡だけの空間へと変貌し、物理的な法則が意味を成さなくなる。
分厚い石造りの城壁、王都に立ち並ぶ家々の屋根、何重にも重なる群衆の壁。それらすべての物理的な遮蔽物が、まるで精巧に作られた薄いガラス細工のように、輪郭線だけを残して半透明に透き通っていった。
そして、その灰色の透き通った世界の中で、ハズラはそれを見た。
先ほど通信機から記憶した波長のリンクを伝うようにして、彼の視界のあちこちに、ポツリ、ポツリと、赤からオレンジ色に燃え盛る「魂の火」が浮かび上がり始めたのだ。
一つ、また一つ。それは王都の広場の外縁部、路地裏の影、高い時計塔の屋根の上と、まるで夜空の星座が一つずつ点灯していくかのように、王都の地図上に不気味な光の点を打っていく。
その「魂の火」は、ランタンのように内側から彼らの肉体を照らし出し、透明化した暗殺者たちの輪郭や、武器の柄に手をかける微細な動作、魔法を編み上げるための指先の震えまでもを、ハズラの網膜に鮮明に焼き付けていく。
ハズラの脳内に、王都全体を俯瞰する巨大な立体模型が構築される。
何万という群衆の海の底に潜む、猛毒を持った棘の正確な位置。物理的な目では絶対に見つけ出すことのできない暗殺部隊の全容が、彼の前に完全に白日の下に晒された。
ハズラは赤黒く燃える瞳を瞬きもせずに見開き、脳を焼くような情報処理の負荷に耐えながら、静かに、しかし確信に満ちた声で口を開いた。
「視えています。……王都に潜伏するすべての鼠の配置、完全に捕捉しました」
彼にしか見えないその絶望と希望の入り交じった景色を、己の命の恩人であり絶対の主君である統星へと捧げる。ハズラは感情を完全に排した観測者として、目前に迫る危機を打ち砕くための次なる行動を待っていた。




