極寒の白銀要塞籠城戦 03
そして、戦端は開かれた。
凍てつく風が容赦なく吹き荒れる白銀の砦の外、白く霞んだ地平線の向こうから、地鳴りのような鬨の声が轟き渡った。コルデアの軍勢である。彼らは猛吹雪を物ともせず、むしろその白い闇に溶け込む死神の群れのように、分厚い城壁を目指して怒涛の如く雪崩れ込んできた。
迎え撃つグラン・ヴァルディアの守備兵たちは、統星の指揮のもと、強靭な魔族の進軍を阻むための重力を用いた防衛機構を一斉に作動させた。城壁の上からは、壁に取り付こうとする者たちを粉砕すべく、巨大な落石や丸太が雪崩のように投下され、守備隊の魔術師たちによる高火力の迎撃魔法が絶え間なく放たれた。
巨岩に肉が潰される重い音や、魔法の爆炎によって皮膚が焼け焦げる不気味な音が、吹雪の音に混じって戦場に響き渡る。
だが、眼下で繰り広げられる激しい攻防を城壁の上から見下ろしていた統星たちは、すぐに敵軍が放つ異様な質に強い違和感を抱くこととなった。
通常の軍隊であれば、防衛側からの激しい迎撃に遭い、巨岩に手足を潰され、あるいは高火力の魔法を浴びれば、苦悶の悲鳴を上げて倒れ伏す。そして、周囲の味方の凄惨な死に様を目の当たりにすれば、戦意を喪失して本能的に後退するか、陣形を立て直そうとするのが軍事における常理である。
しかし、カネル率いるコルデアの兵士たちには、その「死への恐怖」という生物としての当たり前の本能が完全に欠落しているように見えた。
彼らは骨が砕け、肉が半ば焼け焦げたままでも、片目を潰されようとも、決して歩みを止めようとはしなかった。倒れ伏した味方の屍をただの足場として踏み越え、血に染まった雪の中から何度でも、何度でも立ち上がってくる。
「カネル様のために!」
「俺たちが、負けるわけにはいかないんだ!」
彼らが口々に叫ぶその言葉は、勇敢な戦士の雄叫びとは程遠かった。喉から血を吐き出すような悲痛な叫び声。その血走った瞳に宿っているのは、戦場における勝利への高揚感や純粋な破壊衝動などではない。どこか見えない巨大な恐怖から必死に逃れようと足掻くような、深い焦燥と、追い詰められた者特有の痛ましいまでの悲壮感であった。
狂気じみた彼らの執念は、ただひたすらに城壁をよじ登り、砦の内部へと侵入することだけに向けられている。折れた剣の柄を握り締め、あるいは完全に素手となってさえも、石垣の隙間に指を食い込ませてよじ登ってくるその姿は、悪夢に現れる亡者の群れのようであった。
統星はその異常な光景から目を細め、彼らの狂気じみた視線がどこに向けられているのかを辿った。
凄惨な殺し合いが繰り広げられている戦場から少し離れた、後方の小高い雪の丘。そこに、一つの影があった。
吹き荒れる雪風の中で、そこだけが全く別の世界であるかのように、戦場の血生臭さとは無縁の存在が立っていた。艶やかなピンクブロンドの髪を冷たい風に揺らし、軍服をスカートやリボンで愛らしくアレンジした衣装に身を包んだ少女。不敗の軍勢を率いる敵将、カネル・ルーチェである。
武器も道具も一切持たず、完全な手ぶらで立つ彼女の瞳には、眼下の地獄絵図に対する恐怖も、戦を指揮する緊迫感も一切宿っていなかった。彼女は袖の長めな両手を大きく天に向かって伸ばし、まるで冬の祭りで遊戯でも応援しているかのような天真爛漫な笑顔を浮かべ、無邪気に味方の兵士たちへと手を振っていた。
「みんなー! 頑張ってー! 早く終わらせて、みんなで温かいご飯食べようね!」
彼女のあどけない声が風に乗って微かに届く。その無邪気な微笑みと応援の仕草が戦場に向けて放たれるたび、コルデアの兵士たちの間に異様な感情の波が伝播していくのが見て取れた。
彼女の笑顔を見た屈強な兵士たちは、なぜかその顔を痛ましく歪め、熱い涙をぼろぼろと雪の上にこぼした。
「守らなければ……っ!」
「あの方を、あんなところで死なせるわけにはいかないんだ!」
悲痛な叫び声が、吹雪を切り裂いて木霊する。兵士たちは、自らの命が散ることへの恐怖ではなく、高台で無邪気に微笑む無防備な少女を失うことへの底知れぬ恐怖に突き動かされていた。涙を流しながら武器を握り直し、彼らは己の肉体がどうなろうとも構わないと言わんばかりに、先ほどよりも一層激しく、狂暴な突撃を城壁へと仕掛けてくる。
カネルの存在そのものが、彼らの恐怖を無効化し、肉体の限界を超えた身体能力を引き出している。彼女は軍を指揮しているのではなく、軍そのものが彼女を守るための巨大で狂気的な盾として機能しているのだ。
白銀の砦の城壁の上から、眼下で繰り広げられる血みどろの攻防と、高台で手を振る少女を見下ろしながら、統星の黄金色の瞳には極めて透徹した知性の光が宿っていた。
彼の明晰な頭脳は、目前で展開されている敵兵の行動が、通常の軍事合理性という枠組みから完全に逸脱している事実を正確に弾き出していた。
味方の屍を足場にし、熱湯や矢の雨を浴びても歩みを止めようとしない兵士たちの姿。それは「士気が高い」や「勇猛である」といったありふれた言葉で片付けられる次元の現象ではない。軍隊というものは、どれほど過酷な訓練を受けていようとも、人間や魔族が構成している以上、一定の損害を超えれば自己保存の本能が働き、後退や陣形の崩壊を余儀なくされるのが常である。損害と戦果のバランスを計算し、撤退のタイミングを見極めることこそが戦術の基本だ。
しかし、彼らにはその計算が一切存在しなかった。
統星は、兵士たちの狂気に満ちた叫び声と、その奥底に張り付いた異常なまでの悲壮感、そしてカネルを見た時の彼らの涙から、ひとつの真理を導き出した。
彼らは、戦場で命を落とすことを恐れていない。否、死ぬことよりも「勝てないこと」を何よりも深く、魂の底から恐れているのだ。彼らにとっての敗北は、自身の死を遥かに上回る絶対的な恐怖、すなわち愛する者を失うという絶望として刷り込まれている。
自らの命を羽毛のように軽く扱い、損害を度外視してただひたすらに前進と突撃を続ける彼らに対し、常識的な消耗戦や威嚇の戦術は全く意味をなさない。どれほど多くの敵を殺戮し、物理的な恐怖を植え付けようと試みても、彼らの心を満たしている「彼女を守らねばならない」という絶望的なまでの執念を断ち切ることは不可能なのだ。
巨石で押し潰そうが、魔法で焼こうが、彼らは屍を乗り越えて必ず壁を登りきってくる。
冷たい雪風に晒されながら、統星は己の目算が根底から覆されつつあることを静かに悟った。
春の雪解けまで砦に籠もり、耐え抜けば勝てる。そう考えていた自身の前提が、この異常な軍隊の前では脆くも崩れ去る。彼らのこの異常なまでの狂気と自己犠牲が続く限り、戦術の優劣も、城壁の堅牢さも、巌鉄の無双の武勇も、すべては時間の問題となる。
このまま終わりのない防衛戦を継続すれば、いずれ物理的な限界が訪れ、純粋な執念の質量によって、この白銀の砦は物理的に押し潰されるだろう。
統星の脳裏に、これまでにないほど深く、そして重い危機感が刻み込まれた。風雪の音が遠のき、彼の中で戦局を打破するための新たな盤面の構築が、静かに、しかし猛烈な速度で始まろうとしていた。




