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魔族王子に拾われた奴隷少年、魔眼で戦場を支配し世界統一の軍師になる  作者: 久能のの


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戦場の共通言語 03

 老執事との演習場での基礎訓練を終えた後、ハズラはさらなる実地訓練のため、王城を取り囲む堅牢な外壁の上へと場所を移していた。

 遮るもののない高所特有の身を切るような風は、容赦なくハズラの体温を奪い、短く切り揃えられた黒髪を激しくかき乱していく。だが、ハズラは身じろぎ一つせず、石造りの欄干の縁に立ち尽くしていた。

 彼の視線の先にあるのは、城郭の北端に鋭くそびえ立つ「北の監視塔」だ。灰色の石材を積み上げて組まれたその塔は、どんよりとした曇り空を背景にして、大地から突き出された巨大な槍の穂先のように天を衝いている。


 ハズラは深く息を吸い込み、冷涼な空気を肺の奥底まで満たした。

 瞼を細め、異能の魔眼ではなく、生身の瞳でその距離を測る。

 老執事から教わった軍事歩幅という定規を、脳内で風景に当てはめる作業だ。自分の立っている場所から、遥か彼方に霞む塔の根元まで、あの絶対的な一歩が何個並ぶのか。空気の層、建物の歪み、地面の起伏。それらを視覚情報だけで処理し、数値へと変換する。


 ハズラは数秒の沈黙の後、風に流されないよう、確かめるようにして呟いた。


「方位、十一時。……高度、七分。……距離、およそ五百から六百歩」


 ハズラは胸ポケットから手帳を取り出し、弾き出したばかりの数値をペンで書き付ける。これが、今の彼の目が捉えた予測の座標だ。

 正解か、不正解か。それを知る術は、実際に自分の足で測ることしかない。

 ハズラは手帳をしまい込むと、視線の先にある監視塔へ向けて歩き出した。

 老執事が示した「一歩」の長さを正確にトレースするように、一定のリズムで地面を刻んでいく。口の中でカウントを呟きながら塔を目指して歩を進める。


 だが、歩みを進めるにつれ、ハズラの胸中に焦燥感が芽生え始めた。

 予測した六百歩の地点は、とうに過ぎていた。

 なのに、塔の土台はまだ遥か前方にある。

 予想よりも遠い。自分の目測が甘かったという事実が、一歩ごとに突きつけられる。焦りから歩幅が乱れそうになるのを抑え込み、彼は無心で足を運び続けた。

 やがて、監視塔の巨大な影がハズラをすっぽりと飲み込んだ。

 見上げるほどに高い、塔の根元。その堅牢な石造りの土台の前にたどり着き、ハズラは最後の一歩を踏み込んで足を止めた。


 ハズラは大きく息を吐き出し、額に浮かんだ汗を服の袖口で乱暴に拭った。肺が酸素を求めて激しく動いている。

 呼吸を整えながら、彼は再び手帳を取り出した。先ほど書き込んだ予測の数字の下に、今、自分の足で稼ぎ出した現実の数字を書き加える。


 予測:五百〜六百歩

 実測:八百五十歩


 ハズラは二つの数字を見比べ、唇を噛んだ。


「……二百五十歩以上のズレ」


 二百五十歩分の誤差。

 致命的な大失敗だ。このズレがあれば、放たれた魔術は敵の隊列の遥か手前に落ち、虚しく荒野を焼くことになる。統星の作戦を根底から狂わせる、恥ずべき誤算だった。


 ハズラは塔の頂上を見上げ、それから自分が歩いてきた長い道のりを振り返った。

 遠くから見たとき、この塔はもっと近くにあるように感じられた。つまり、自分の目は遠くの物体を実際よりも小さく捉えてしまい、その結果、そこまでの空間を短く見積もる癖があるということだ。

 いや、それだけではない。

 奴隷として狭い世界で生きてきた自分には、遠くを見る経験が圧倒的に不足している。広い世界を、広いまま認識する回路が育っていないのだ。

 ハズラは独り言のように呟きながら、その分析を手帳の余白へとペンで書き殴る。


「遠くのものが、小さく見えている……だから、実際よりも近いと錯覚した」


 悔しさはある。自分はまだ、統星の隣に立つにはあまりに未熟だ。

 だが、それ以上に、自分の感覚の癖という名の歪みを、数値として可視化できたことに、パズルのピースが埋まったような手応えを感じていた。

 感覚とは、曖昧で移ろいやすいものだ。だが、こうして数値化し、誤差の傾向を知れば、それは補正可能なデータとなる。このズレを認識し、脳内で補正係数を掛けることさえできれば、次はもっと正確に当てられる。

 ハズラはペンを止め、手帳の上で自身の認識を上書きした。

 統星の役に立つためには、自分の感覚そのものを鍛え直すしかない。答え合わせのための行軍は、まだ始まったばかりだった。


 ◇


 王城の長い回廊に、ハズラの足音が響いていた。

 西日が窓から深く差し込み、石造りの床に列柱の長い影を落とす時間帯になっても、彼の検証は続いていた。

 彼は回廊の端に立ち、遥か向こうの壁に飾られた一枚の肖像画を見据えていた。歴代の王族の一人が描かれたその絵画は、金の額縁に縁取られ、ここからでは切手ほどの大きさにしか見えない。


 屋内という閉鎖空間は、屋外とは異なる距離感の狂いを生む。遠くへ行くほど狭まって見える壁と天井のパースペクティブ、いわゆる遠近法が、視覚的な圧迫感となって感覚を揺さぶりにかかる。壁が迫ってくるように感じられ、実際の距離よりも短く感じてしまうのだ。

 ハズラは瞬きもせず、その距離を脳内の定規に当てはめる。迫り来る壁の圧迫感を、理性の力で補正し、空間を切り分ける。


「……距離、百二十から百三十歩」


 呟くと同時に、歩き出す。

 正確な歩幅で、回廊の空間を切り刻んでいく。

 肖像画の前で足を止め、計測を終える。


「……百二十八」


 予想百三十に対し、実測百五十。

 誤差はまだ二十歩もある。

 ハズラは手帳を取り出し、悔しさに唇を噛みながら数値を記録した。先ほどの二百五十歩のズレに比べればマシだが、実戦で使える精度ではない。屋内特有の閉塞感が、距離をわずかに長く錯覚させる傾向がある。その微細な感覚の歪みを、脳内でさらに補正しなければならない。

 ハズラは小さく拳を握りしめた。精度が上がっている。自分の感覚が、確実に統星の求める規格へと近づいている。


 場所を中庭に移す。

 夕刻の風が強まり、中央の噴水が風に煽られてしぶきを上げていた。

 ハズラは噴水の縁に立ち、視線を正門の頂上にはためく王国の旗へと向けた。

 ここには回廊のような壁も天井もない。空へと抜ける圧倒的な開放感が、距離感を曖昧にぼやけさせる。比較対象のない空間で、正確な距離を測る難易度は格段に上がる。茜色に染まる夕空に目が吸い込まれそうになり、遠近感が喪失する錯覚に襲われる。

 だが、ハズラの目には迷いがなかった。

 今の彼の身体には、これまでの反復練習で叩き込んだ距離感が、深く刻み込まれていた。

 自分からあそこの植え込みまでが五十歩。あの兵舎の角までが二百歩。確固たる基準点を視界の中に打ち込み、それらを繋ぎ合わせることで、未知の距離を算出する。見えない線をつなぎ合わせ、空間を構築していく。


「距離、四百四十から四百五十歩」


 ハズラは再び歩き出した。砂利を踏む音だけが、彼の耳に届く。

 旗の真下に到達し、ハズラは足を止めた。見上げれば、王家の紋章が夕日に輝いている。


「……四百五十二」


 誤差二歩。

 ハズラは小さく息を吐き、額の汗を拭った。

 景色を見た瞬間、これまでの反復練習で身体に叩き込んだ尺度が、思考よりも速く距離を告げる。

 最初は霧の中にあったような「百歩」や「五百歩」という概念が、今は手を伸ばせば届くかのような、確かな「手応え」を伴って知覚できた。

 もはや、当てずっぽうの予想ではない。

 彼の中にある「世界を測る物差し」は、確かな精度を持って完成へと近づきつつあった。


 ◇


 数日が過ぎた夕刻。

 グラン・ヴァルディア王城の外壁は、沈みゆく太陽の光を浴びて、燃えるような茜色に染め上げられていた。

 ハズラは再び、あの高い城壁の縁に立っていた。

 吹き抜ける風は相変わらず冷たく、髪を乱暴にかき乱していくが、今のハズラは身じろぎ一つしない。その立ち姿からは、以前のような迷いや、計算に追われる者の悲壮感は消え失せていた。

 彼は静かに息を吸い込み、眼下に広がる広大な景色を見下ろした。

 王城の威容、中庭の幾何学模様、そしてその遥か先に続く城下町の街並み。夕闇に沈みつつある世界の中で、点々と灯り始めた街明かりが、宝石箱をひっくり返したように輝いている。

 ハズラの視線が、その光の海を切り裂くように伸びる一本の大通りを滑り、街の最果てにある巨大な石造りの門――「城下町の入り口」へと吸い寄せられた。ここからでは、門を行き交う馬車の姿など、豆粒よりも小さい。

 だが、ハズラがその一点を認識した瞬間だった。


 ――ここだ。


 思考よりも速く、脳裏に火花のような閃きが走った。

 以前のように、脳内で時計の針を回して角度を確認したり、一歩一歩の距離を積み上げて計算したりする必要は、もうなかった。

 眼に映る光景から、対象までの距離が直感として瞬時に弾き出される。

 それはまるで、彼自身の神経が遠く離れた標的まで繋がったかのような、研ぎ澄まされた感覚だった。

 ハズラは、口をついて出た数字を、確信と共に呟いた。


「方位、十二時。……高度、十四分。……距離、およそ二千四百から二千六百歩」


 よどみなく紡がれたその概算値は、軍事的な実用精度を満たした確かな座標として、夕暮れの空気に溶け込んだ。

 ハズラは手帳を取り出そうとして、ふと手を止めた。

 そして、そのままポケットから手を出し、石造りの欄干にそっと触れた。冷たい石の感触が掌に伝わる。


「……いや、もういい」


 歩いて確かめる必要などなかった。

 自分の感覚と、現実の距離が寸分の狂いもなく重なっていることが、肌で理解できていたからだ。

 二千五百歩前後の距離。その重み、そこへ至るまでの空間の奥行きが、まるで自分の掌の上にあるかのように鮮明に感じられる。

 生身の目による目測としては、照準に用いるのに十分すぎる精度の正解だ。

 ハズラは夕日に照らされた遠くの門を見つめたまま、小さく頷いた。

 その感覚は、もはや彼の一部となっている。

 彼の目は今、主君が求める戦力として、確かな自信を宿していた。

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