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魔族王子に拾われた奴隷少年、魔眼で戦場を支配し世界統一の軍師になる  作者: 久能のの


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戦場の共通言語 02

 重厚な扉が音を立てて閉ざされると、執務室を支配していた張り詰めた空気は遮断された。

 だが、ハズラの胸の内に渦巻く緊張は、いささかも解けることはなかった。むしろ、扉の向こうに残してきた主君――統星からの期待と、突きつけられた課題の重さに、心臓が早鐘を打っているのがわかった。

 主君は言った。「私がお前に求めているのは、見たものの印象の共有ではない。正確無比な座標だ」と。

 その言葉は、ハズラの未熟さを指摘する鋭い刃であると同時に、これ以上ないほど明確な道標でもあった。見捨てられたわけではない。ただの奴隷上がりで、言葉すら満足に話せなかった自分に対し、統星は「私の目になれ」と命じてくれたのだ。その信頼に応えなければならないという焦燥と使命感が、ハズラの背中を強く押していた。


 先導する老執事の背中は、語るべき言葉を持たぬ岩のように静かだった。

 王城の回廊を抜け、石造りの階段を下りる間、硬質な革靴が床を叩く規則的な音だけが響き続けた。ハズラはその音に遅れぬようについていく。

 やがて二人は、城壁に囲まれた広い演習場へと出た。

 午後の陽光が中庭の白い砂利を照らし、眩い光の反射が目に刺さる。兵士たちの訓練は一時中断されているのか、広場には静寂が満ちていた。


 老執事は広場の片隅、誰もいない一角まで進むと、ようやく足を止めた。

 彼はハズラに向き直ることなく、足元に転がっていた訓練用の石灰が入った袋を手に取った。そして、無造作に、しかし定規で引いたかのような正確さで、地面にスーッと一本の白い直線を引いた。


 老執事は顔を上げ、ハズラを見据えた。

 その表情は、執務室で影のように控えていた時のような、命じられたことを完璧にこなすためだけに佇む執事のものではない。主君の命を受け、未熟な若者を導こうとする厳格な導き手の光が、その老いた瞳の奥に宿っていた。


「これより、ハズラ様の頭の中にある距離と方向の概念を、統星殿下が用いるものと同じ基準に書き換えます」


 その言葉は鉛のような重みを持ってハズラの耳に届いた。

 単に新しい知識を覚えるのではない。世界を認識するための物差しそのものを、主君と共有できる規格へと総入れ替えする作業だと言われているのだ。

 ハズラは背筋を伸ばし、緊張で強張る指先を太腿の横に押し付けながら、老執事の瞳を見つめ返した。

 自分の目が、ただ遮蔽物越しの波長を捉えるだけの異能ではなく、統星の戦術を支える確かな戦力として機能するために必要な儀式。それを避けて通る道など、あるはずもなかった。


「はい。お願いします」


 ハズラは深く頷いた。その声には、新しいことわりを貪欲に吸収しようとする決意が揺らめいていた。


 老執事は、引いたばかりの白線の上に無言で立った。

 そして、背筋をピンと伸ばした姿勢を崩さぬまま、大人の男の歩幅で大きく一歩を前へと踏み出した。

 ザッ、と砂利を踏みしめる音が響く。

 彼はその革靴のつま先があった位置に、躊躇なく印をつけた。


「これが、軍における『一歩』でございます」


 老執事の声は淡々としていたが、ハズラはその印と、残っている後ろ足との間の距離を目測し、思わず息を呑んだ。

 広い。

 栄養失調気味で小柄なハズラの体格では、自然に歩いて到達できる歩幅ではない。跳ぶようにして足を伸ばし、股関節が悲鳴を上げるほど広げなければ届かない長さだ。

 ハズラは、その絶対的な基準として示された幅を、網膜に焼き付けるように凝視する。

 老執事は、一切の妥協を許さぬ口調で告げた。


「統星殿下が『あと百歩』と仰れば、それはこの幅を百回重ねた距離のことを指します。ハズラ様の足での百歩ではありません」


 戦場において、指揮官と兵士の距離感がズレていれば、部隊の足並みは乱れ、連携は致命的な綻びを生む。個人の歩幅の差を作戦に持ち込むことは、作戦を瓦解させる原因でしかないのだ。


「戦場において、認識のズレは許されません。あなたの感覚を、この規格に合わせるのです」


 ハズラは拳を握りしめ、地面に刻まれた『一歩』を見つめた。

 主君の目となるためには、自分自身の認識を、主君と共有できる地図へと合わせなければならない。自分の足が短いならば、思考の中でその距離を補正し、翻訳して伝えなければならないのだ。


「……承知しました」


 ハズラは顔を上げ、決意を込めて答えた。

 この幅が、『一歩』。

 それは単なる長さの単位ではなく、ハズラが統星の隣に立つために越えなければならない、最初のハードルだった。


 老執事は、地面に刻んだ「一歩」の基準から視線を外し、懐から古びた銀色の懐中時計を取り出した。

 使い込まれた銀の輝きが、午後の日差しを鈍く反射する。カチリ、と乾いた音を立てて蓋を開くと、その精巧な文字盤をハズラの目の前に突き出した。

 秒針がチチチと時を刻む微かな音が、風の音の合間に聞こえてくる。


「距離の次は、『方位』。すなわち水平方向の定義でございます」


 老執事は、秒針が規則正しく円を描く盤面を指差した。


「ハズラ様。ご自身を中心とした円を描き、進行方向……あるいは統星殿下が向いておられる正面。これを常に『12』と定めます」


 ハズラが盤面の頂点にある数字を見つめると、老執事は骨張った指先で文字盤の外周をなぞりながら、厳格な口調でルールを説いた。


「右真横ならば、3時の方向」

「真後ろならば、6時の方向」

「左真横ならば、9時の方向」


 老執事は顔を上げ、ハズラの目を真っ直ぐに見据えた。


「『あっち』や『そっち』、あるいは『右の方』などという曖昧な言葉は、今この瞬間から忘れてください。それらは日常会話では通用しても、一瞬を争う戦場では命取りとなります」


 老執事は静かに、だが揺るぎない口調で、軍における絶対的な共通言語を告げた。


「敵の位置はすべて、この時計の数字で示すのです」


 ハズラは、自分の足元に巨大な時計の文字盤が広がっている様を想像した。自分がその針の中心に立ち、世界を見渡す。

 曖昧だった風景が、1から12までの区画に整然と分割されていく感覚。

 今まで「右の木のあたり」と言っていた場所は、「2時の方向」という明確な座標へと変換される。感情や主観の入り込む余地のない数字の世界。だが、それは何よりも正確で、誤解を生まない言葉だった。


 老執事は、ハズラの目の前に突き出していた懐中時計から顔を上げ、今度は視線を頭上へと向けた。

 彼が見上げているのは、王城の北端にそびえる尖塔の先端だった。青空を突き刺すように伸びるその塔は、ここから見ても圧倒的な高さを誇っている。


「方位の次は、『高さ』。すなわち垂直方向の定義でございます」


 彼は懐中時計を一度閉じ、今度はそれを垂直に立てるようにして持ち直した。盤面がハズラの顔の方を向く。


「ハズラ様。先ほどは時計を地面に寝かせ、水平の方向を読みました。今度は、この時計を縦に置いた状態を想像してください」


 老執事は、空いている方の手で、目の高さに水平な線をシュッと空中に引く仕草をした。その手刀は、地面と空を分かつ地平線をなぞるように動いた。


「ご自身の目の高さ、すなわち地平線を『15分』と定めます」

「15分……?」


 ハズラが怪訝そうに呟くと、老執事は頷いた。


「左様。時計の長針が真横、つまり3時の位置にある状態です。ここをゼロではなく、あえて『15』という数値で固定します」


 老執事は、持っていた懐中時計の竜頭を回し、長針を動かしてみせた。

 チチチ、という微かな歯車の音と共に、針が頂点へと遡っていく。


「そこから見上げれば、数字は減っていきます。真上、すなわち天頂が『0分』」


 今度は針を逆回転させ、下へと回す。


「逆に見下ろせば、数字は増えます。真下、足元が『30分』となります」

「……上を見れば0に近づき、下を見れば30に近づく」


 ハズラは呟きながら、その数値を頭の中で反芻した。

 不思議な感覚だった。世界を数字で切り取るというのは、これほどまでに無機質なものなのか。

 方位は「何時」で表し、高さは「何分ふん」で表す。

 そうすることで、「2時の方向、高さ10分」と言えば、右斜め前の少し高い位置、という三次元的な座標が、数字の羅列だけで完璧に伝達できることになる。

 言葉の綾や、受け取り手の想像力に頼る必要はない。数字は嘘をつかないからだ。


「では、実践といきましょう」


 老執事は、中庭の回廊から見える、遠くの尖塔の避雷針を指差した。


 ハズラは目を細め、視界の中に巨大な縦型の時計を思い描いた。

 自分の目の高さ、遥か彼方の地平線が15分。そこから視線を上げていく。

 塔は高くそびえ立っているが、ここからでは距離があるため、見上げる角度そのものは決して急ではない。首を直角に曲げるほどではなく、水平線からわずかに視線を持ち上げる程度だ。

 ハズラは脳内で針を動かし、塔の先端と重なる位置を探った。


「……13分、くらいでしょうか」


 ハズラがおずおずと答えると、老執事は満足げに頷いた。その口元に、わずかな笑みが浮かぶ。


「よろしい。その感覚です。空を飛ぶ鳥も、谷底に潜む兵も、すべてこの『分』という目盛りで切り取るのです」


 老執事は懐中時計を懐にしまい、厳格な瞳でハズラを見据えた。


「『高い』『低い』といった言葉は捨てなさい。これからは『12分』『20分』といった数値のみが、世界の高低差を表す唯一の言語となります」


 ハズラは空を見上げ、そして地面を見下ろした。

 彼の視界の中で、これまで曖昧だった世界の輪郭が、理屈と数値によって書き換えられていくような感覚があった。

 風に揺れる木々も、城壁の凹凸も、空を流れる雲も。

 それらすべてが、ただ漫然とそこにある風景ではなく、明確な位置情報を持った「点」として再構成されていく。

 これが、主君である統星が見ている世界なのか。

 感情の入る余地のない、純粋な座標だけの空間。戦術という盤面の上で、駒を動かすために必要な情報の骨格。


「……はい。覚えました」


 ハズラは自身の目に、新たな物差しが刻まれたことを自覚し、力強く頷いた。

 今まで自分が見ていた世界は、ただ漠然と広がるだけの光景だった。「遠い」「あっちの方」といった曖昧な概念しか持たなかったからだ。

 だが、明確な単位と呼び名を得たことで、世界は正確に切り取られ、他者と過不足なく共有できる情報へと生まれ変わっていくのだ。


 老執事は静かに頷いた。


「距離は『歩』。方位は『時計』。そして高さは『分』」


 彼は、ハズラが一つ一つの概念を飲み込んだことを確認するように、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「この三つの数字さえあれば、世界中のあらゆる地点を、言葉だけで正確に特定することができます。これこそが、殿下が求められた『共通言語』でございます」

「僕の目と、統星様の頭を……数字で繋ぐ」


 ハズラが噛み締めるように呟くと、老執事は満足げに目を細めた。


「その通りでございます。貴方様の目は、ただ見るためのものではなく、殿下に戦場の真実を伝えるための、信頼できる目となるのです」


 老執事は姿勢を正し、両手を前で組んだ。


「理屈は教えました。あとは、この変換を息をするように行えるまで、身体に馴染ませるのみです」


 ハズラは強く拳を握りしめた。

 主君が自分に何を求めているのか、その真意を完全に理解した。

 ただの奴隷だった自分が、王の覇業の一部として機能するための鍵を手に入れたのだ。もう、曖昧な報告で主君を困らせることはしない。自分の目が捉えた真実を、そのままの純度で渡してみせる。


「はい。……必ず、使いこなしてみせます」


 ハズラの瞳には、新しい知識を得た知的な光が宿っていた。かつての怯えた少年の色は薄れ、使命を帯びた兵士の顔つきへと変わりつつあった。

 老執事はその様子を見て、うやうやしく一礼した。


「では、座学はここまで。……これより先は、その眼と身体を使った実地訓練へと移ります」


 老執事の言葉と共に、ハズラは新たな決意を胸に、演習場の土を踏みしめた。乾燥した風が、彼の頬を撫でていく。その風の冷たささえも、今は心地よく感じられた。

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