桃香のお仕事 3
ドンっと勢いよくバッグがどこかに置かれてから、桃香が大きな声で「すいませ〜ん、遅刻しちゃいましたぁ!」と言っているのが聞こえた。桃香の声が少しずつ小さくなっていき、ドアが勢いよく閉まる音も聞こえていた。
「ねえ、ちょっと。あの子、わたしのこと置き去りにして行ってない!?」
リリカがバッグの中で声を出す。
「わたしのこと無防備にしすぎじゃない……?」
ここが一体どこなのかもわからない場所で、一人にされたら心細くなる。リリカのことを攫うために悪意のある人間に連れ去られるリスクはもちろんあるけれど、リリカに気づかずにバッグを盗もうとする人が現れるかもしれない。悪い人じゃなくても、バッグを自分のものと間違えられたり、忘れ物として警察に届けられたり、リリカを桃香から引き離す状況はいくらでも考えられるのに。桃香は無神経だけど、一応リリカのことを考えてくれているから、桃香から離れて、本当に意地悪な人に連れ去られたりするのは怖かった。
「早く戻ってきてよね……」
小さくため息をついてから、髪の毛をぐるぐる巻いていると、バッグのすぐ近くに人がやってくる。上空から聞こえてくる2人の女性の声。それが誰かは、当然リリカにはわからなかった。
(桃香の友達か何かかしら?)
退屈なこともあって、頭上の声に耳を澄ませていた。
「無理にでも卒業させたら良いのにね」
「遅刻ばっかりするし、空気読めないし、ほんとウザいわ」
「あんなことばっかりやってたら、嫌いになっちゃうよね。読モの子とか、準レギュラーの子とか、もっと良い子いるでしょ。あの子よりも可愛くて性格の良い子、もっといるのにね」
ほんとそれ、ともう一人の子が頷いていた。
誰のことを言ってるのかわからないけれど、誰か一緒に働いている人の中にとても嫌われている人がいるらしい。リリカは「大変だなぁ」と他人事として同情していた。
「これ、あいつのバッグ?」
片方の女子が尋ねたら、桃香のバッグが大き揺れる。揺れた反動で、座っていたリリカの体が思いっきりバッグの中のスマホに押しつけられた。
「ちょ、ちょっと何すんのよ!」と声を出したけれど、バッグの外からは返事はなかったので、聞こえなかったらしい。まあ、聞こえてしまって中にいることがバレると面倒なことになるから、その方が都合は良いのだけれど。外からはリリカのことなんて気にせず会話が続いていた。
「そうだよ。さっきあの子がここに置いていったし、わたし何回かゴミ箱にしたから知ってるよ」
そう言って、突如バッグのファスナーが開いたから、リリカは慌てて、飛び退くようにして、壁際のできるだけ外から見えない場所に身を移す。
覗き込まれたらどうしようかと思って心配になったけれど、ただ手が入ってきただけだった。そして、その手が飴の包み紙を桃香のバッグに入れて、去っていった。甘いイチゴの匂いがバッグの中に漂ってくる。
「ゴミ箱って、ヤバいね。おっとりした顔してやることえげつないわ」
そう言って、もう一人の少女が今度は飲み終わった紙パックのジュースを入れてくる。
「ちょっと、あんたの方がヤバいから」
ゲラゲラ笑う声が外から聞こえてくる。
逆さまに入れられている紙パックジュースのゴミからは、ストローで吸いきれなかったオレンジジュースがポタポタと溢れている。真っ赤なルージュの跡が残っているストローから、リリカにとってはコップいっぱいぶんくらいになりそうな量のオレンジジュースが一滴ずつ、漏れていた。
「ちょっと、バッグが汚れちゃうじゃない!」
桃香のことは苦手だけど、少なくともリリカのことを大ピンチから救ってくれた子だし、汚れていくバッグを見過ごすわけにはいかなかった。
とりあえず、ポタポタと溢れていくジュースを飲んでしまおうと思い、ストローの飲み口に近づく。どんぶりの直径くらい大きなストローに顔を突っ込むと、唾液の臭いに包まれて不快だった。
ストローを伝ってくるジュースを飲もうと思ったけれど、紙パックの中から逆方向に伝ってくるジュースの塊を思いっきり顔で受けると、顔がオレンジジュースでビシャビシャになる。甘いし、砂糖でベタベタしてるし、おまけに量が多すぎて溺れそうになるし、そもそも全然ジュースの滴を受け止めきれずに、ただ苦しい思いをするだけで、何の意味もない。
今度は作戦を変えて、ジュースの下に身体を入れて全体重を使い、とりあえずストローの口を上に向けようと思った。だけど、中身が空っぽとはいえ、自動販売機みたいに大きな紙パックが、同族の中でも小柄で力の弱いリリカに持ち上げられるわけもない。
「ム、ムリ……、わたしが潰れちゃうわ……」
入ったものの、出られなくなってしまった。
「退けて……。ジュースを早く退けて……!」
声を出したけど、誰も桃香のバッグの中に気づくことはない。そんなリリカの様子を知らずに、外では先ほどの女子たちが桃香の悪口に花を咲かせていた。
「ねえ、何かあいつの弱み握れそうなこと探さない? バカみたいに無防備にバッグ置きっぱなしにしてるしさ」
言いながら、すでにバッグを開け始めていた。光が差し込んで、紙パックジュースの中で悶え苦しんでいるリリカのことを見つけられてしまったのだった。




